9話 思い出と、私
私はあの時、完全に迷子だった。
中学3年の秋。創立記念日で学校は休み。私は友達と、関東一の超有名テーマパークへ行く為に、東京駅に来ていた。京葉線の改札で待ち合わせ、と言われていて、その時刻まであとわずか。予想外に混んでいた電車を降りて、私は小走りに目的地を目指していたのだが、途中運悪く大柄な男性にぶつかり、その拍子に眼鏡がどこかへ飛んだ。
男性はそのことに気付かなかったようで、「失礼」と一言残すと雑踏へ。仕方なし、私はほとんど判別の付かない中、自分で眼鏡を探したが、人の足に蹴られたものか、結局見つからず、あきらめて、ぼやける視界の中を歩き出した。
子供の頃から視力は悪く、眼鏡なしでは人の顔もぼんやり、看板の文字もろくに読めない私は、当然その後、迷子になった。東京駅に来たのは初めてだったし、看板の色で探そうにも、山手線は黄緑、中央線はオレンジ、総武線は黄色、くらいは覚えていたが、肝心の京葉線は分からない。もうぼちぼち待ち合わせの時刻、待ち合わせている友達の携帯にかけて、助けに来てもらおう。そう決めた時だった。
「どないしました?」
東京駅で関西弁に、メイアイヘルプユー? 的な事を訊かれて、なんだかものすごい違和感だった。いや、実際問題、東京に住んでいる人の出身地は多種多様だろうし、私なんかより東京駅に詳しい関西弁や東北弁、九州弁やイタリア語がいても決しておかしくないわけだが。
雰囲気からして、年の近い男の子だろうか。他には、関西弁で話す事と、黒い服を着ているらしい事くらいしか分からなかった。
「あはは、さては迷子ですな、自分」
頷くと、「どこ行かはるんです?」と訊いてきたので、素直に京葉線を探していると答えた。
「ほんなら多分、あっちですわ。ほら、そこに書いてありますやん」
眼鏡をなくして看板が読めず、困っているのだと伝えると、「そら難儀やなぁ」と言った。そして、一大決心をしたかのように、こう続けた。
「ほんなら俺、案内しますわ。心配せんでもえぇよ、東京駅は俺の庭みたいなもんやし。まぁ、今日初めてやけど」
無責任にへらへらと笑い、「ほな、行こか」と私の手を取った。
「見えへんのやったら、手ぇでもつないどかんと、また迷子になるやろ?」
私は、年の近い男子はこんなふうな手をしてるんだと、そんな事を考えて、何だか妙にどきどきした。
「こっちやな。なぁなぁ、ホンマに見えへんの? 俺の顔わかる?」
顔を近づけようとする彼に、素早く身を引いて、わからん、と答えると、あちゃーと大げさな声を出して額に手をやり「ほんなら次会うた時、俺のこと気付かれへんかもなぁ、そらアカンわ」と嘆くように言った。
通りすがりの親切な人が、次に会う事をどうして心配するのかと思っていると、彼は
「アカンから、今度眼鏡ある時にもっかい会おか。ほなメアド交換しよ」
あぁ、これが俗に言う「ナンパ」か、とその時になってようやく気付いた。奇特な人もいるものだ。ナンパなんて、我が生涯無縁のものと思っていた。私は、携帯を持っていないからメアドもない、と嘘をついた。
「んな殺生な。ありえへんわ、残念すぎるわ。あわわ、しかももうついてもうた」
改札の見えるところで立ち止まり、何やらカバンをごそごそやりだした。流行歌の着信音が流れ出し、アカンわ、バレてもうた、と小さく言った。
「俺な、京都から来てん。今日、修学旅行でな、三日経ったら帰るんやけど、これ携帯やから、いつでも電話したってな」
ペンを走らせ、その紙切れを私に寄越す。
「高校な、東京の高校に通うかもしれへんのよ。ほしたらキミ、東京案内してな」
そして彼は、名前も言わず、紙切れ一つを残して、携帯片手に慌ただしく行ってしまった。
私はその紙切れを、どうしても見る気になれず、こういうものはそれきりのご縁、とばかりにすぐ捨ててしまった。捨ててしまったものの、それからしばらく、あの関西弁が私の脳内を支配し、テレビで天気予報が流れれば、あぁ、京都は明日雨なのか、などど、自分の住む東京の天気以上にそれが気になった。
あの時、連絡先を素直に交換していたらどうなっていただろうとか、紙切れには何が書いてあったのだろうとか、なんていう名前だったのだろうとか、うちの学校の修学旅行が海外ではなくて京都だったら、ひょっとして運命的な再会をしたりするのだろうかとか、そんな事ばかり考えて、高校受験の冬を過ごした。
そして、ネットでたまたま見つけた「真実を写す魔鏡の作り方」なる妖しげなものを、試すに到った。
信憑性は全くないが、試してみれば真偽は知れる。かもしれない。幸か不幸か、手元には祖母のおさがりの丸鏡。私は、よく晴れた月夜の晩を待った。
知りたい、彼のことを。ほんの少しでもいい。妄想なんかじゃなくて、本当の彼を見てみたい。どんな人なんだろう。どんな顔だったんだろう。どこに住んでるんだろう。元気にしてるかな、私のことは、もう忘れてしまったかしら。
美しい月と己の思いとが俄に重なり、とある歌劇を思い出す。無意識のうちに口をついたのは、乙女が歌う愛の言葉のその対訳。うろ覚えのそれを、ぽつぽつと呟きながら、水をこぼした鏡の中に、でたらめの絵を思いつくまま描けば、水のうちに月明かりが揺れた。
いよいよ何かが写るのだろうか、期待とも不安ともつかぬ思いを胸中に抱き、覗き込めばそこは暗闇。全てを飲み込むような、無限の暗闇に、真っ赤な目が、二つ見開かれた。
背筋が凍り、あぁ、これは私が住む水底の温度なのだと知った。
その双眸の禍々しさを見て、あぁ、これが私の想いなのだと知った。
悪臭放つそれは邪悪な、月と鏡が炙り出した真実だった。
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