サラシバ


6話 鏡は写す


*****

 別に悪気があった訳じゃない。
 ホント、何の気無しに、なんとなーく、手がそこへと伸びたのだ。今思えば、私はあの時「何か」に操られていたのかもしれない。
 ともかく私は彼女がトイレに行っている間に、彼女の引き出しを勝手に開け、そしてそれを見つけた。手の平にすっぽりと収まるくらいの、丸い鏡。裏側の、黒地に金の細工がなんだかアンティークで、とてもきれいだった。
 手に取ると、どういうわけか突然、心臓が破裂するほど、どきどき言い出した。体中が激しく脈打つのを感じた。頭がくらくらして、目もチカチカした。私は、鏡を裏返して、そこに写るはずの自分を見ようとした。なぜそうしようとしたのか分からない。しなければよかったと思った時には、もう遅かった。
 ―――真っ暗な鏡に、見開き睨むような女の目。
 なぜだか分からないけれど、私はそれを女だと思った。まずいと思った。背中の辺りと、頬の辺りがぞわっとした。今度は全身の血の気が引いた。手は冷たく汗ばみ、それでも体中まだ激しく脈打ち、心臓は暴れていた。
「横山さん」
 と、声をかけられて我に返り、気付いた時には、私は鏡を自分のポケットに突っ込んでしまっていた。鏡は何の違和感もなく、ホットパンツの尻ポケットに収まった。それから鏡は何事もなかったかのようになりを潜めて、それでも私は何かドロッとした真っ黒な、水底の泥のような冷たいものを背中に塗りたくられたような、そんな気持ち悪さを感じていた。
「大丈夫? 顔色が悪いよ?」
「うん、大丈夫……」
「本当? ちょっと座ってるか寝てるかした方がいいよ」
「そうだね、そうする」
 私は椅子に座り、そのままうなだれた。首の後ろがヒリヒリと冷たく痛む。
「どうしたの?」
 水沼さんの声が聞こえた。私は反射的に声の方を見て、水沼さんと目が合う。あの鏡、やっぱり水沼さんのなんだろうか。でもなんで? 「あれ」はなんだったんだろう。
「うん、なんか急に具合が悪くなったみたいで……」
 私はすぐに下を向いた。薄暗い何かが私の内側を満たす。
「今日、やめといた方がいいんじゃない?」
「そうだよ、横山さん。別に今日じゃなきゃいけないってわけでもないし、また今度にしようよ」
「うん……」
 こんな状態で遊びに、しかも当の水沼さんと一緒に、出かけられるわけがない。楽しく遊ぼうなんて状態じゃないのはよく分かってる。でも、出かけないとしたら、当然、みんな部屋にいるわけで、もしかしたら水沼さんと個室で二人きりになってしまうかもしれない。そうなったとしたら、けど、鏡のこと、ちゃんと訊くチャンスかもしれないけど、怖い。
 だとしたら、立ってられない訳じゃないし、外に出た方がいいに決まってる。
「いや、うん。大丈夫だよ、ちょっと休んだら治ると思うから。今日、すごく天気いいし、やっぱり今日行こう!」
「ホントに大丈夫? 無理しない方が」
「大丈夫大丈夫! ホント、平気だから」
 そうだ、それに、今日のメンバーには志摩くんがいる。志摩くんち、お坊さんやってるって言ってたし、ちょっと相談してみるのもアリかもしれない。……や、大丈夫かな、志摩くんじゃ不安だけど。あぁ、でもいつも三人してつるんでるあのメンバーみんな、同じ「お寺関係」だって言ってたハズだし、そっちを紹介してもらうものアリかな。
 うん、大丈夫。とにかく外に出て、志摩くんと会って、話してみて、それから決めよう。もしヘラヘラして話にならなかったら……藤原さんに相談してみよう。
 私はなるべく水沼さんの方を見ないようにしながら、今日持って行くお気に入りのカバンを手に取った。

*****

 横山さんは手を後ろにやり、ポケットから何かを取り出した。
 彼女の右手に収まっていたそれに、見覚えがあった。家に置いてこようと思っていたのに何故か荷物の中に混ざっていて、仕方なく引き出しの中に突っ込んで、そのまま忘れたふりをしていたものだった。
 小さな手鏡。中学の時、水を満たして月を写し、半信半疑で魔術のまねごとをしたことがある。あの時の冷たさを思い出して、私の身体はぶるりと震えた。
「それ……」
「ごめんなさい、私、黙って水沼さんの引き出し開けて、そしたらこれがあって。勝手に持って来ちゃったのも、ホントごめんなさい。でもこれ」
 横山さんが今にも泣きそうな顔で私を見る。そうか、あれを見て……だから、あんなに、怯えたり、私を避けたりしてたのか。
 彼女は、私の真実を見てしまったのだ。
「これ………何なの?」
 と、横山さんは鏡を、私に向けた。
 ほんの一瞬の出来事だった。二人は五メートルくらい離れた所にいたから、あの小さな鏡が何を写したのか、目視で分かるわけがない。想像するしかないはずなのに、私には見えた。真っ暗闇に、血走った目が二つ。あの時に見たものと同じ。私はそれに射抜かれて、呼吸を忘れて身を固くした。暗闇が、ミラーハウスの鏡の壁を伝い「乱反射」した。吸い込めば体中を汚染されるのではなかろうかと思える程の、どろりとした嫌な気配と生臭さが辺りに満ちる。
「な、なんだよこれ! おい! 志摩、どーなってんだよこれ!」
「俺にもよぅわからへんよ!」
 二人がわめく声の中、気配は場内を彷徨ったあげく此処と決めたか、私の目の前に渦を巻く。私には見えた、見えないはずのそれが。
 ―――緑の濡れ髪、鱗の身体、よどんだ水底の臭気、恨みを込めた深紅の双眸。つられるように、言葉が私の口からこぼれていく。
「るさるか……」
 そしてそれは顕れた。
(願いは叶った、さぁ、おいで)
 呪いの言葉を、声なき声が綴る。
(月が教えた、お前は導かれた。契約の時だ、さぁ、私を受け入れて)
 身体の自由は一切きかず、声のままにふらりと前へ踏み出した。

(願いは叶った)

 甘美な響きが私を誘う。誰かがわめく。邪魔をしないで。きっと私は満たされる。
 切り裂くような、悲鳴が聞こえた。

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