聖宮の巫女 20
© 2019 sasori_bi
初級《錬金術師》最年少合格者、ユキシロ・ヴァレンシア。
ユージオが錬金術師試験を受ける数年前にその記録を残していった彼は、ユージオと二つ違いの学生だった。
名前だけは知っていた。張り合おうという気持ちはなかったが、試験を受けようとした時にそういう人がいるということを知った。世の中、天才と呼ばれる人間がいるものなのだなと他人事のように思ったものだが、その彼がこの学校に在籍していたとは思いもよらなかった。
――だが、考えてみれば不思議はない。国内で高等教育機関は限られているし、その片手ほどの数のうちの一つに、偶然当たっただけのことだ。何も驚くことはない。
それでも何となく納得がいかない思いが幾つも浮かぶのは、腑に落ちないことがあるからだ。
ユージオは膨大な蔵書量を持つ薄暗い地下図書館の階段をひたすら下っていく。
図書館の石壁そのものが張り出しているような階段が、図書館の四方の壁に沿ってひたすら斜めに巡らされていた。それを一段一段下りて行くだけでもなかなかの距離だというのに、貰った地図は最下層である地下五階の、さらに半階層下った位置を示していた。なぜこんな半端で不便な場所に好き好んで出入りしようという人間がいるのか、心底不思議でならない。
ユージオは昨日ノイシュから手渡された封筒の中身を右手に持ち、自分の目に見えるよう紙片を持ち上げた。
招待状の中身は青インクで描かれた魔法陣だけだった。魔力を注いでみても起動しない。もう一つ何かの形で魔法陣があって、それと照らし合わせて初めて作動する。単一では意味を成さない魔法陣。そういう手合いのものらしい。
地下五層にも渡った図書館を底まで下りてみると、最下層と思しき階層に辿り着く。その階に降り立ってみたが、この先に下る階段はもうない――とその時は思った。だが、一通りその階層を歩いて見て回ってみると、本棚に隠れて、五階層の隅を四角く切り取ったように階段が降りているのを見つけた。
半端に踊り場のような場所があり、そこで階段は途切れている。そこまで下りてみると、不自然に本棚が一つ置かれていた。並べられた本は張りぼてで、実際は木に着色されているだけの本を模した飾りだ。
どう見てもこれだろう――と思いながら、ユージオは近付いて触れてみる。何の変哲もない、だが図書館には明らかに不似合いな飾り物の本棚。悪戯にしては意図が不明瞭だ。
――と、急に右手に持っていた魔法陣が起動した。紙が青く炎を上げる。
「!」
驚いて手を離したユージオは、石畳に落ちた炎が燃え広がりはしないかと思わず身構える。石の上なら心配ないだろうが、木棚や埃に火が付けば、図書館に燃え広がるのはあっという間だ。
だが、床に落ちた瞬間、青い炎が導火線を辿るかのように床全体に広がっていくのを見て、ユージオはその考えを改めた。
炎の痕には魔法陣が、青く光って起動する。薄暗い図書館の中に慣れた目が、突然の閃光に眩んだ。
――害はないとは言われたが。
目を開けていられない。腕で目元を覆って光を遮っていると、やがて瞼の裏を青白く染めていた光は、ゆっくりと収まってゆく。
訝りながら腕を下ろしていくと、またあの慣れた薄暗がりに、行き止まりの景色が視界に映る――と思っていたが。
「な……」
踊り場の下に階段が続いていた。先ほどまで圧迫感を与えていた行き止まりの壁は消え、階段が下りて行く先には、図書館の灯りが届かない漠然とした暗闇がある。
「下りろ、ってことか……」
手の込んだ隠し階層だ。ノイシュや招待状の示す《地の底》はこれなのだろう。
偽物の本棚は精緻な魔法道具だった。普段は先に続く階層を隠しており、例の招待状の鍵がなければ先に続く階段が現れない。もともと校舎の一部として造られた階層だが、始めからなにかの意図で隠されていたか、あるいは長い歴史の中で何者かが改造したか。後者の方が有力な気がする。
本棚に手燭が一つ置かれているのは、使っていいということだろう。ユージオは遠慮なく手に取り、魔力を流して灯りを点ける。ようやく足元が見える程度の手燭の光を頼りに、階段を下った。石壁に手を突きながらになるのは、どうしても手燭の心許なさのせいか。
下ばかり見ていたが、ふと頭上を見上げると図書館の灯りが見えない、完全な暗闇の中にいた。視線を落としても、階段がどこまで続いているのか見えない。まるで闇の中に閉じ込められているか――あるいは、黄泉路を下っているかのようにも思えた。
どれほど階段を下りてきただろうか。
踊り場と同じような平たい石畳に辿り着く。壁伝いに手燭で周囲を照らしてみると、木の扉がぽつんと一つあった。
湿気のせいかひんやりとした金属の取っ手を握り、手首を捻って押してみると、鍵も掛かっておらずすんなりと開いた。隙間からは明かりが漏れて、階段と違い室内は照明があることが窺い知れる。もしかすると無人ではなく、人がいるのかも知れないとも思った。
日の光のような眩い照明ではない。夕暮れ時の橙色のような淡い照明だ。扉を押して室内に入れば、誰かが持ち込んでいるのか、独特の茶の香りが染み付いて、入った瞬間ふわりと鼻をつく。
扉の中は書斎のような空間が広がっていた。天鵞絨張りの長椅子に、壁を覆う本棚。奥には何かが積み上げられた山があるようだが、布が被せられていてその正体はわからない。棚に囲まれた勉強机が雑多な本や紙で埋まっている様子もあり、対して、几帳面なほど綺麗に片付けられた個人用の机もある。談話室のようにも見えるが、個室のようにも見える、そんなちぐはぐな設えをしていた。
使っているのは一人ではない。布が被せられている付近はどうかわからないが、机の上に埃は積もっていないので、放置されているわけでもない。思い思いに場所を決めて、何人かが思う通りに使っている。そんな空気だ。
「っ……!」
だが、ぐるりと室内を見て歩いていたユージオは、急に人の気配を感じて振り返った。
それまで部屋の探索に集中していたが、呼吸の音に気付いたのだ。振り返り、物音の先を探して――そして、長椅子に横たわる人の姿を見つけて、ユージオは動揺に跳ねる心臓を思わず押さえた。人がいるかも知れないとは思ったが、入ってすぐには気付かなかったため、実際にいるとなるとそれはそれで心臓に悪い。一人勝手に驚かされたような思いで近付いた。
そして、そこで眠る人を見て、思わずというように呟いていた。
「異国の……」
なぜ、とはうまく説明できない。けれど、ぱっと見た瞬間にただなんとなく、顔の造作がガレシアの人間と違うだろうかと思った。
髪の長さはユージオと同じほどだろうか。長椅子から零れた緩い癖のある髪は、ユージオの濃藍よりもいっそう深い黒だ。それとは対照的に肌は白く、ガレシアの標準的な肌の色より色素に乏しい。個性に因るものか、あるいはそういう血に因るものかは判別できない。
ユージオの声に反応したか、瞑られていた長い睫毛がぴくりと揺れた。
ゆっくりと見開かれていく瞳は、焦点が合っていない。ユージオの姿を視界に入れながらも、その存在に気が付いていないかのようだ。
「あの……」
無言のまま時間を掛けてやおら起き上がる彼に、ユージオは声を掛けながら思わず後ずさった。なんとなく遠ざかってしまったのは、気圧されるような何かが彼にあったからだが、それが何なのか、その時のユージオにはわからなかった。
何度か瞬きを繰り返していたかと思えば、焦点の定まった目はようやくユージオを見た。
紫水晶の色だ。
「君だな」
第一声はそれだけだった。
困惑するユージオに微笑み一つ見せず、彼は視界に被さる自分の髪をくしゃりと掻き上げる。
「招待に応じて貰ったこと、感謝する。この場所で見慣れない顔を見るのは久方ぶりだ」
では、やはりこの人が――と、戸惑いの中で彼の顔をまじまじと見ていると、彼は自分の向かいの長椅子を指した。
「まあそこの辺りにでも掛けてくれ。すでに君の理解は及んでいるだろうが、名乗らない無礼は望むところではないので一応」
眠りから目覚めた途端に、自分の調子でつらつらと言葉を連ね始めた彼に、どうしても戸惑いを禁じ得なかった。
彼は指で軽く髪を梳り、机の上に置かれていた結い紐を手に取ると、後ろで一つに括った。クランカイトやノイシュのようなぱっと見の華やかな印象ではないのに、よく見ると端正な顔立ちだとわかる。そんな不思議な印象の人だった。
「ユキシロ・ヴァレンシアだ。ようこそ栄えある《地の底》へ、ユージオ・シアン」
その耳に、飽きるほどに見慣れた耳飾りの存在はなかった。
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