聖宮の巫女 25
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一瞬切なそうに本心を覗かせたノヴァリス少副は、しかしその仮面をすぐに付け替えてしまった。普段の理知的で穏やかな顔で、何事もなかったように淡く微笑んだ。
「さっきの話の続きになりますが、近く例祭があります。街でも祭りがあるから、きっと参加したことがあるのではと思うのですが」
そういえば元々その話をしていたのだったとフローレインは思い出す。
毎年国を挙げての例祭が行われ、その日は学校も休みだった。王都では大規模な祭りが催され、いつだったか父に連れられクランカイト共々見に行った記憶がある。盛大な人出に目が回りそうなほどだった。
いつも通う礼拝堂でもその日は厳かに儀式が執り行われていた。たまたまその日に拝火に訪れると、司祭が祝詞を上げており、堂内の参列者も多かった。儀式の最中にこそこそと拝火を済ませることになるので、なるべくその日を避けるようにもなったが。
「ブリード教の祭祀であれば、聖宮が主催になるのですよね。この宮でも何か仕事が?」
「ええ。神部の巫女は参列だけになるでしょうけど、あなたには役目があります。ちょうど今話をした聖杖、それを殿下より賜る任です」
「賜る?」
例祭で魔法を使う機会はないという話だったが、聖杖の出番がないというわけではないということだろうか。
疑問に思っていると、ノヴァリス少副が頷く。
「聖宮の管理に使われる聖杖ですから。東の巫女に聖宮の管理を任せるという意味合いで、殿下から巫女の一人に手渡されることになっているんです。形式的なものなのですが」
そういう形式的なものこそ、良家の子女のように堅苦しい立場に慣れた娘が担った方がいいのではという思いを、フローレインはそっと胸の内にしまい直しながら。
「殿下に……」
耳慣れない敬称に竦む思いがした。この国の次期国王と目される王太子のことだ。別世界の人間だろうと思っていたのに、ここに来てからは存外に近くて、それを思い出すたびにひやりとする。本当に違う世界なのだなと。
「殿下に拝謁するのは初めてでしょうけれど、少々の不手際を咎めるような方ではありませんから、お見知り置き頂くといいわ。これきりではないかも知れないし」
「そう……でしょうか」
どうやったらこれきりになるだろうかと後ろ向きな考えがどうしても頭をもたげるのを、ゆるりと瞬きを一つ零して追い払う。きっと不安なのだ。未知のものにわくわくしていられるような無邪気さはどこかで手放していた。自分は上手くやれるだろうかという不安にどうしても気分は沈む。
ノヴァリス少副は思い出したように付け足した。
「それと、もしかすると例祭の後に、あなたの任官も行われるかも知れません」
まだ先だと思っていたことが急に迫ってきた驚きが表情に出た。
そんなフローレインに気付いたノヴァリス少副は、改まったようにフローレインへと向き直った。
「これはまだ決定事項ではないのですけれど、追って正式に報せがあると思って構いません。例祭が行われた後、同日に任官式が執り行われて、あなたは正式に大史に任じられます」
「……はい」
「そう不安そうな顔をしなくても大丈夫よ」
柔らかな声でノヴァリス少副は言う。宥めるような優しい声音に、自分がいかに如実に狼狽えているのか見透かされたような思いで、フローレインは唇をきゅっと引き結ぶ。深く息を吸い、動揺を訴える心臓を抑え付けた。
この聖宮ではそういう弱みを晒したくなかった。
「……急だったもので。少しばかり驚いてしまいました」
「無理もありません。日取りをどうするのか、かなり相談を重ねましたから。けれど心配ありません」
淡い水色の瞳でじっとフローレインを見据える目は、悪意でない検分の気配を含んでいる。そんな視線を物珍しい思いでじっと受け入れていると。
「きちんと学んできています。礼拝堂の司祭に施された素養と、それから学校を出ている分、基本的な教養が身についているから、思ったほど追講義を必要としません」
「!」
世辞の気配はなく、純然と事実を断じる口調で言い切るノヴァリス少副に、フローレインは思わず怪訝な顔をしていた。
そんなはずがない、という疑心がどうしても頭をもたげた。自尊心が擽られるのを、きっと何か意図があるのだろうと悲観で上塗りしてごまかしてもいた。そう宥めすかして大役に任じて、失敗して恥をかかせたいのかも知れないなどと自分に言い聞かせる。
ノヴァリス少副は淡々と、何の悪意も善意も含まない口調できっぱりと言い放った。
「務めを果たすのに何の不足もないと判断した、その結果よ」
「光栄……です」
その言葉をどう受け止めていいかわからない内に、ノヴァリス少副は閉じた教本の底を叩いて纏めている。
「今日はもう時間だし、終わりましょうか」
お疲れ様、また明日、と立ち上がるノヴァリス少副に、フローレインも慌てて立ち上がり深く頭を下げた。
教本を抱えながら講義室を出て、ノヴァリス少副とその場で別れる。この後もノヴァリス少副は何か仕事を抱えているのか、自室がある方へ戻る気配はない。ほとんど一人で神部の巫女たち全員の面倒を見ているのだからきっと多忙なのだろう。
手を焼かせていることに何とも言えない罪悪感を持ちながら、自室へ向かう廊下を重い修道服を引き摺るように歩いていると。
ふと、背筋にぞわりと違和感を認めたフローレインは、その場に急停止してぱっと後ろを振り返った。
「また……視線」
視線を感じた。何の感情も読めない、ただ強烈に貫かれるような視線を。
だが、フローレインが振り返った廊下の先には誰もいない。使部の姿一人、その気配すらもないのに、間違いなく誰かが自分を見ていた気がした。
それもまるで、いつの間にか背後に大きな獣がいて、ふと気付いたらそれが自分を見下ろしていたかのような、そんな――思わず足が竦んでしまいそうな視線なのだ。それを、いつからかたびたび感じるようになった。振り返るたびにそんな普通でない視線を向けてくる者の姿はなく、気のせいなのではないかと未だに迷っていたが。
――ああ本当に、ここに来てから自分はどうかしてしまっているのではないだろうか。
そんな憂鬱な思いで再び廊下を進もうとした瞬間、身体に軽い衝撃を受けた。
「あ、ごめんなさ……」
ちょうど曲がり角から誰かが出てきたのだ。
よそ見などしていたせいでぶつかってしまったが、向こうも出会い頭でのことだったようで、先んじてフローレインに気付くこともなければ、とっさに避けることもできなかったようだ。
「きゃ……」
二、三歩後ろによろけるように下がった少女の、長い髪が目に入る。
柔らかな亜麻色の髪だ。相手が俯いていたため、それが先に目についた。だが、続いてすぐに同じ修道服を身に付けていることに気が付く。
同じ神部の巫女だ――と複雑な思いでフローレインが気付いていると。
「……失礼いたしました」
落ち着き払った第一声に、貴族の令嬢だと苦く思った。ごく直感的な印象に過ぎないが、それが意外と大きく逸れることはないことを知っている。この場でか、あるいは後々、陰で果たして何を言われるものかと構えてしまう。
だが、相手と目が合った瞬間に、フローレインの頭からはその思考がすっかり抜け落ちていた。
「…………?」
目の前に立つ少女の紫檀色の瞳。その奥に誰かの姿が見える。
青年だ。自分たちと同じ年頃だろうか。精悍な印象で、黒っぽい制服を身に付けている。短い髪だが、色はわからない。だが、瞳の色の灰色は不思議なほどにはっきりわかった。
――誰だろう。
思わず自分の目を擦るが、今度は何も見えなかった。ただ目の前に神部の巫女の姿があるだけだ。彼女は短く詫びたきり、フローレインの姿など見えていないかのようにするりと脇を通り抜け、さっさと廊下の先へと向かっていく。
その後ろ姿を怪訝な目で見送りながら、フローレインは一人で首を傾げた。
「あの制服、カイトたちが着ていたのに似ているような……」
そう呟きながら、自分の瞼にそっと自分の手で触れる。
知らない顔だった。たぶん、自分の知り合いの中にあの人はいないだろう。それにしてはやけに顔の造作ははっきりしていた。
「ああ嫌だ。……とうとう幻覚……?」
それにしては、自分の空想とは思えないほど明確な人物像だが――他に説明しようがない。どうしてあんなものが見えたのだろうと、自分で自分が信じられないような思いで溜め息を吐いた。
「しっかりしなくては」
自分に言い聞かせるように呟いて、フローレインは自室へ戻るべく目の前の角を曲がった。
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