聖宮の巫女 29

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 仄かな熱を残した空気の中、ブドウ酒の器を揺らして目を伏せながら、小さく呟く。

「……味方が必要だと思っている。数と、権と。どちらもだ」

 遠くを見るようなノイシュの言葉に、ユージオは目を伏せる。たった今言った言葉を翻さなければならないと思うと後ろめたい。だが――まだ、できない。

「すみません、俺は……さきほどの考えには同意します。でも、そのためにブリード教と対立することはできない」
「そう極端な話でもないが……何か都合の悪い理由でもあるのか?」

 ノイシュの問い掛けを受けて、ユージオは伺うようにクランカイトの方へと視線を向けた。その視線を受けて、クランカイトはぽんと投げ出すように容易に言い放つ。

「妹が聖宮に行きました」

 ノイシュが瞠目する。ユージオはこくりと同意のために一つ頷いた。

「……妹?」
「双子の妹がいます。こいつの幼馴染になりますね。天賦の魔法の才がありました。それに応じた魔力も」

 白鴉の魔法使い。いつしかそんな渾名で呼ばれたほどに突出した魔法の使い手で、莫大な魔力の持ち主。その才を見出され、半ば強制的に聖宮の巫女に選出されていった。
 ノイシュの面からはすぐに動揺が消える。得心がいったという様子でブドウ酒の器を置いた。

「巫女に取られたか」
「そりゃもうご丁寧に馬車のお迎え付きでしたね。軍人に囲まれた仰々しい護送で」
「それは大した厚遇だ」
「その軍人を一時的に魔法で封じ込めたって言えば、贔屓目じゃないことは理解して貰えるかと思いますけど」
「……ますます聖宮が逃したくないだろうな」

 皮肉げなクランカイトの返答に、ノイシュも苦笑を浮かべて肩を竦める。
 そういえばそんなこともあったなと、ユージオは何とも言えない表情で肩を落としていたが、急にノイシュに尋ねられた。

「ブリード教というよりも、聖宮と対立するわけにはいかないというわけだな」

 多くを説明するまでもなくユージオの立場を理解したらしいノイシュは、ユージオに微笑んで見せる。人を安堵させる不思議な魅力のある笑みだと、改めてその器の大きさを再認識しながら。

「……はい」
「そうだな。そういう立ち位置なら当然だ。俺でもそうする」
「ありがとうございます」

 ほっとしながら礼を告げると、ノイシュは微笑んでゆるりと首を横に振った。

「安心してくれ、無理強いはしない。それに、ブリード教に喧嘩を売ろうというわけではないんだ。ただ、もう少し勢力を広げて、かつ魔法の研究を進めたい。……それを阻もうとするブリード教の権を退けられる程度には」
「異教徒への弾圧が、やはり今も」
「そうだな。公にはならないが、確実にあるとだけは言える」

 俯くユージオの代わりに、クランカイトがどこか納得できていないような表情を浮かべていた。

「ずっと気になっていたんですが、それは聖宮が主導しているんですか? それとも王侯貴族? 官僚ですか?」
「王自体がその方針を指示しているらしい。他の王侯貴族はそれに従っている。聖宮も同じだろう。聖宮がもともとその方針なのか、それともただ王に従っているのかはわからん」
「妹が知ったら憤慨しそうだな。何をしでかすか」
「やはり知らずに行ったか。無理もない」
「しおらしく後悔して大人しくしているか、知らないまま平穏に過ごしてくれていればいいんですけど」

 しおらしくは到底無理だろう――と挟み掛けた口をユージオは閉じた。クランカイトも承知の上でのぼやきだろう。
 フローレインの魔力なら、その気になれば聖宮の建物の一つや二つ破壊することなど容易い。特に今は聖宮の結界を無力化する道具も身に付けている。現状を理解したフローレインが怒りに任せた行動に出なければいいのだが――そこまで幼く衝動的な性質ではないとは思うが、万が一にもだ。
 なんとも言えない視線を見交わしていると、何か考え込むように一瞬押し黙っていたノイシュが、悩ましそうに眉根を寄せて。

「ああいや待て、聖宮の巫女……」
「?」
「トルカの出身と言ったな。トルカの……聖宮の巫女」

 ユージオとクランカイトが怪訝な顔で肯定する。それを確かめたノイシュは「人違いだったらすまんが」と言い置いて、言葉を続けた。

「思い出した。どこかで聞いたと思っていたが、確か父が何かの拍子に話していた。トルカ出身の聖宮の巫女だ。協会と礼拝堂それぞれに推挙された別格の娘」

 はっとしたように目を瞠るユージオの表情に、ノイシュは「やはりか」と呟いた。どうやらノイシュも知る話だったようだ。

「あの……その節は」
「過程はどちらでもいいことだ。ただ、着任が近いな」

 協会の推挙を拒んだことについて、ノイシュは少しも気にした様子はなかった。むしろどうでもいいというように思いがけない話を口にした彼に、却ってユージオたちの方が困惑していた。

「着任……?」
「じきに大史に任じられる。一時的なものとはいえ、現時点では王太子の妃に最も近しい」

 大史。王太子の妃。
 もっともフローレインからは縁遠いと思しい単語に、二人は一瞬言葉を失って。

「……は?」
「王城は」

 礼儀も忘れてようやくというように声を絞り出すクランカイトを返事と見なして、ノイシュはあっさり言い放つ。

「彼女に最たる期待を寄せている」

 ――期待。
 それが何を意味するところなのか、すぐに頭で思い至りはしても、感情で納得するのには時間が掛かった。
 王母となる期待だ。もっと限定するなら、親の資質を継いだ王子。その身に宿す膨大な魔力を受け継いでいることが望ましい。
 それ以外はどうでもいいのだろう。家柄も教養も何もかも。そうでなければ、フローレインがそのような任に就く理由はない。
 胸の底の方から溢れてくる激情がある。ざわざわと胸の内を騒いで抑え込めない。わかっていたはずなのに。彼女が自分で決断したことだとわかっているのに、どうしてもノイシュの話を受け入れられない。――どうしようもなく許せない。
 それが巫女の役割でしかないとでもいうようで。

 だが、それまでのユージオの思考が急に打ち切られた。足音が聞こえて顔を上げると、ちょうど部屋の扉が軽く数回、叩かれる。
 ノイシュの応答を待って、部屋に入ってきたのは、整った身なりをした壮年の男性だった。

「お客人と聞いたが……」

 白髪混じりの、ノイシュと同じ朽葉色をした髪の男性だった。
 わざわざ顔を見せに来るというと、屋敷の主人ぐらいだろう。しかし、各々立ち上がろうとするユージオとクランカイトをノイシュは手で軽く制し、自分一人だけ悠然と立ち上がる。

「これは理事長、ご機嫌麗しく。よもやこちらにお出でとは」

 嬉々とした笑顔を浮かべて慇懃に頭を下げる姿に、理事長――やはりノイシュ家の当主だ――が呆れたように眉根を寄せる。が、その瞳には不思議とどこか親愛の情が感じられた。

「また帰っていたのだな、イスラ。学業を疎かにしていなければいいが。こちらは?」
「我が寮の後輩です。今後のためそれはそれは手厚くご歓待下さいまし。何しろこちら両替商のアステリア家ご令息、こちら我が校を代表するセレスターですので」

 下心しか感じられない紹介に、当主が頭を抱えて大きく溜め息を吐いている。そうも上手く取り入ってみろと言いたげな、明け透けな紹介の仕方があるものだろうか。隣のクランカイトは思い切り楽しげに満面の笑みを浮かべているのにも増して溜め息を堪えられなかった。
 当主は俯く面を上げてどうにか表情を繕うと、改めてユージオたちに向き直る。

「……愚息の教育が至らず、気を悪くさせていたらまことに済まない。ノイシュ家当主のリハルド・ノイシュと申します。我が家の別邸へようこそお越し下さった」

 ああよかった、普通の人だった――と奇妙な安堵を抱きながら、ユージオとクランカイトは椅子に掛けたまま軽く頭を下げた。改めて名前を告げると、当主――リハルドは微笑んで頷く。ノイシュと同じ、柔らかな色合いの瞳が好ましかった。

「大したもてなしもできていないかとは思いますが、不足があればどうぞこの愚息にご遠慮なくお申し付けを」

 値踏みの気配も、媚びたような笑みもない。口元を引き締めていても瞳だけ柔らかなままで、不思議と好意的な感情がわかった。言葉とは裏腹な、リハルドが抱いているノイシュへの信頼も。
 ノイシュが訝しそうに片眉を上げた。

「理事長自らもてなして下さるわけではない?」
「学友との親睦を深めるのに、邪魔をする親があるか。まったく馬鹿なことを言う……」
「そんな手ぬるい有様だから権力闘争に勝てないのではありませんかお父様」
「悪かったな。だったらお前が自力でどうにかしろ」

 息子の軽口を鬱陶しそうに――だが心の底から不快というわけでもなさそうに――あしらって、部屋の壁側にある戸棚の方へと向かった。戸棚の扉を開きながら言う。

「上階も来客がある。上がらないように」
「来客? こんなこじんまりとした屋敷に来客とは、さては密談ですか?」
「馬鹿を言え。さてはお前が密談か」
「これはまた思わぬ流れ矢ですね。誤解ですよお父様、俺がそんな素行不良だとでも?」
「素行不良でないとでも言うつもりか?」
「残念ながら心当たりがとんと」
「おめでたい輩だ」

 戸棚を閉じて戻ってきたリハルドは、卓上に瓶を置いた。
 古いブドウ酒の瓶を見たノイシュが笑う。

「これはまたずいぶん気前がよろしい」
「お客人にだ。お前はお客人のご相伴に預かる立場だぞ。はき違えないように」

 そう言うと改めてユージオとクランカイトへそれぞれ視線を向けて、リハルドはまた一礼する。

「こんな状態で申し訳ないですが、下りては来ないと思いますので。私もご挨拶のみで失礼いたします。どうぞ構わずごゆっくり」

 リハルドが退室した瞬間、堪えきれなかったようにクランカイトが声を上げて笑う。
 さすがに失礼だろう――と窘めようにも、にやにやと面白そうな笑みを浮かべるノイシュの顔を見れば、その気も失せた。

「仲が良さそうですね」

 心の底からそう思いながら告げると、ブドウ酒の栓を引き抜きながらノイシュは困ったように眉尻を下げて笑った。

「自分でも意外だが、実はそうなんだ」




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