聖宮の巫女 30

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 日付が変わるより少し早く、三人の人影が玄関から出て行く様子が見えた。
 制服を身に付けた学生だ。彼の学友か何かだろう。門扉を潜って道に出て行く人影を確かめて、持ち上げていた窓の日よけを下ろす。

「帰ったか……」

 玻璃の窓から離れながら、男はまるで唾棄するかのような口調で呟いた。

「イスラめ、こんな日に限って来客とは……相変わらずふざけた奴だ」

 室内にはもう一人、男とは別に男性が立っている。男よりも少し年上で、民族服を纏っている。ガレシアの一部の地方に浸透している衣装だが、セレストの町から離れているため、この町でそれほど多く見かけることはない。
 彼は訝しげにそっと眉をひそめた。

「何か勘付いているんじゃないだろうな」
「まさか。学生如きが何を見聞きするものか」

 小賢しい輩ではあるものの、これから起こることに対して何か勘付くはずがない。彼には関係のないことだ。よりによって今日ここに来たことも意味はなく、単なる偶然だろう。
 男は落ち着き払ってそう推察するが、対する男性はどこか不信の気配を表に浮かべていた。

「だが、用心に越したことはない。止めるというなら今の内だが……どうする」
「馬鹿を言え、遅らせたところで首が締まるのはこちらの方だ。それにこれ以上、黙って国の横暴を見過ごせようはずもない」

 明確な口調で言い切り、続けて「アーユス」と男性の名前を呼ぶ。
 男性――アーユスは、彼の呼び掛けに視線を上げた。咎めるような男の声音に、先ほどまでの疑念を拭ったようだった。

「お前も。今さら止めると言われて、引き下がれるような状況じゃないだろう」

 そう、アーユスも、自分も。足を止めるわけにはいかない。
 諦めのように一度目を閉じて、再びアーユスは真っ直ぐに視線を返してくる。
 その視線を受けて目を細め、男は机の円板に置かれた建物の模型を撫でる。
 四方に延びる建物。中央に丸い屋根を頂く神殿。そこからさらに廊下が続き、作りの異なる建物がぽつりと一棟繋がっていた。

「例祭の前夜なら、まだ警備も甘い。準備で城も宮もごたついているはずだ。……東の宮なら、増してな」

 そう、ここならば。
 襲撃には容易だ。簡単に立ち入れない禁足地。門は城の裏に面しており、例外なく魔法も使えない。例え王侯貴族や巫女がどれほど魔力を有していようとも、ここではそれが身を守るのに一切の意味をなさない。本来であればそれこそが巫女を守るためのものなのかも知れないが。
 皮肉なことだと思うと自然、嘲る笑みが浮かんでくる。

「本当にそれでいいんだな」
「ああ」

 アーユスの問いに、男は迷いのない口調で応じた。目的を果たすためには、聖宮の神殿でなく東の宮でも充分事足りる。

「聖宮には“老獪の魔女”ケリドウェンがいる。あの女はとかく腹の内が見えない。王妃ハリスも、魔法がなくばただの女でしかないが……警戒するに越したことはないだろう」

 本殿を狙うのであればあの女がいる。厄介な女だ。それ以外の手段がないわけではないなら、避けるのが利口だろう。

「話では、東の宮に先の巫女が入ることができないという。緊急時にどこまで禁を保っていられるかはわからないが、先手を打てば充分に隙はある」
「あの魔女なら、禁など容易く破るだろう」
「他の事ならそうだろうが。……王太子はケリドウェンの息子ではない。立場上、軽々な判断ができないはずだ」

 実母でもない以上、迂闊な行動を取れば害意があると取られかねない立場だ。そんな愚を犯す女とは思えない。ならば、二の足を踏む可能性は充分にありえた。

「……用意を進めろ」

 アーユスはにべもなく一つ確りと頷いた。言うまでもないことだろう。わかっているというような視線に、男は瞬きで応じる。
 だが、アーユスがふと何か思い出した様子で、造り物の建物へと視線を落とした。

「東の宮の巫女は、用心しなくていいのか」

 男はその問いを容易く一蹴する。

「聖宮に入って日の浅い、世間知らずの小娘だけだ。使部が何人かうろうろしているようだが……さほどの障害ではない」

 何ができるはずもない、無力な女だ。気の毒ないと言えば嘘だが――それでも将来、現王の巫女たちの思想を受け継ぐと思えば、今の内にその芽を除く罪の意識も薄らいだ。
 閉ざされた場所で、これまでと変わらず閉鎖された理念で持って聖宮を司る。巫女の着任にほとんど当人らの意思が介入していないとはいえ、おぞましく恐ろしい、物知らずの女たちだ。

 アーユスの手が模型を撫でた。触れた場所から脆く崩れて積み上がる木くずは、もう一度アーユスが撫でた手の中で跡形もなく消えていった。まるで始めからそこには何もなかったかのように。

「情報、大いに助かる」
「……それしか助力できず、お前たちには済まなく思う」

 苦痛を堪えるように目を伏せた男は、何もなくなった机の円板の上を眺めるようでいて、しかしその冷たい瞳の先はどこにも向いていなかった。薄い唇が紡ぐ声はどこか空虚で、物悲しい響きを帯びている。

「だが、志は同じくしているつもりだ。人として許されない蛮行を、これ以上黙認することはできない。調和の道を端から切り捨てて、守るほどのものか。たかが一宗教が――それが国の民を生かすとでも? この国は正気の沙汰じゃない」
「俺たちには他に道がない。だが、お前にはまだ……」
「そうして足掻いて燻っている間に、一体どれほどの血が流れる? 今までに誰かが声を上げて、現況は是正されたのか? 違っただろう。非難した人間がまた一人死ぬだけだ。立場があればすべて失ったし、家族があれば巻き添えにされた。……お前のように」

 正しい方法であるべきだというのなら、とっくにこの国は正しくなっていていいはずなのに。

「この国で――正しさは足を取られるだけだ」

 アーユスは俯いて、何も答えなかった。男もそれ以上言い募ることはなかった。何度となく繰り返したその応酬は、今でもどこにも行き場がないまま、漠然と時間に押し流されて――今回もそれは変わらず同じだった。
 男は疲れたような溜め息を小さく漏らす。表情を歪めて眉間を押さえ、崩れるように椅子に掛けた。

「今のままでは、駄目なんだ……」

 いつからか頭痛は止まない。怒りは臓腑を焼きつくすほどに燃えてなお、一向に静まる気配がどこにもない。もどかしさに増して気が滅入った。

 ――今のままでは。

 いずれ戦火がこの国を焼き尽くしてしまうと、そう思った。


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