聖宮の巫女 32
© 2019 sasori_bi ――それとも今すぐ、あなたが代わりになる?
できるはずがないと思っても、あの瞬間、恐怖にすっかりがんじがらめにされていた。
分不相応にも大史などという大任への着任が決まっていた、訛り言葉の拭い切れない田舎娘だった。いや、実際そうなのかは知らないが、周囲の巫女たちは隙を見つけてはそう囀っていたし、彼女も俯いて辛気臭い顔をして、反論一つしないでいた。カラスを連れて宮に来たというから、それもずいぶん嘲弄の対象にされていただろうか。宮での扱いが少し違っていたことも、増してそれに拍車を掛けていたようだ。
が、別に関心もなかったし、真偽がどうだろうとどうでもよかった。友達ごっこをするために宮に入ったわけではなかったし、仲間集めに勤しむ趣味もない。宮での役割を熟していればよかったので、粛々とその立場に準じていた。
そんなある日だった。
塔を揺らすほどの轟音。天井を焦がすほど高く上がる火柱。吹き荒れる熱風の中に、炎が爆ぜた火の粉が入り混じっていた。
脚が竦みそうな恐怖に、周囲の巫女たちがざわめいていた。視界の端には、へたり込む巫女の姿も一つ二つで済まない数があった。自分もまた例外ではなく、座り込むことはなかったものの、身動きも忘れてその場に呆然と立ち尽くしていた。
目が眩むような炎の前には、金色の髪を炎に赤く染めた彼女が立っていた。その横顔が、自分の目には見えていた。
恐怖はなかった。怒りもなかった。ただ、狂気だった――何かの衝動に瞳を輝かせて笑っていた。この上なく無邪気に、それは楽しそうに。
彼女のあの瞳に射竦められて、あの時の恐怖を思い出してしまった。
少女――ソフィアは固く布を握り締めていた拳をゆっくりと解いて、知らずに詰めてしまっていた息を恐る恐る吐き出した。
普通の娘だ。なのに、それを相手にこうも恐れを抱いてしまうのは、一体どういうわけなのだろう。彼女の持つ莫大な――並みの巫女にすら及びもつかないような途方もない魔力がそうさせるのだろうか。
自分とは違う。そう彼女は言ったが、本当に――聖宮の結界すらも打ち砕く術を持っているのでは。
一瞬そんな考えを過ぎらせたものの、埒もないことだとすぐに切り捨てた。仮にそうだとして、すぐに新しい結界が張り直されるだけだ。胸の内に兆した思いに『期待』の名前を付けるよりも早く、ソフィアは首を横に振ってその考えを打ち消す。
……それにしても、弁解ぐらいすればよかったのに、なぜ意地を張ってしまうのか。
「はあ……私、何をやっているのかしら」
無駄な謹慎がわかっていてわざわざ報告する理由もない。あんな手紙、見つけて却って迷惑したほどだ。それに、カラスなど部屋に入れたせいで、万が一にも掃除に入った使部に見咎められやしないものかと冷や冷やさせられた。
「まあこれで、厄介事はとりあえず手を切れたのだから、よかうっぐ!」
「よかったまだいた……!!」
完全に油断していた背中から、突然の衝撃が襲ってきた。
よろめきながら前のめりに俯くが、原因と思しき背後の何者かに腕を回してがっちり拘束されているために、それ以上動けない。背後の声の主は少女のものだったので恐怖こそなかったが、突然のことに戸惑いは去らない。
というか、不意を突かれてものすごくみっともない声を上げてしまった。最低だ。
「ちょっと、離しなさいよ……!」
八つ当たり紛いにそう叫ぶと、あっけないほど簡単に拘束は解かれた。
ソフィアが勢いよく振り返ると、そこには想像を裏切らず、金と水色の一対の瞳がじっと自分を見ていた。拍子抜けしてしまうほど先ほどの威圧感はどこにもなく、目の前にいるのはありふれた普通の娘でしかなかった。
――いや、人に頭突きをしてくる無礼な娘ではあるが。
「何の用よ」
「謝りに。私、ひどい誤解をしてたみたいで、本当にごめんなさい」
けろりと言い放った彼女に、ソフィアはあからさまに眉をひそめた。誤解もなにも、謝られるような心当たりはない。
「何の話だか知らないわ。頭突きの謝罪なら頂くけど」
「たった今さっきの話だって。ネヴィンが教えてくれたの。猫に怪我させられたところを保護して、傷の手当をして、治るまでずっと食べ物とか面倒を見てくれたって。ネヴィン、あなたのことすごく気に入ってた」
「はあ――!?」
なぜわかったのだろう。いや、というかまるで見てきたような物言いだ。当てずっぽうにしては気味が悪いし、カラスと会話なんてできるはずもないし。もしかして魔法を使ったのだろうか。いやあればただの脅し文句に過ぎないのだから、そんな馬鹿なことがまさか――
落ち着け、とソフィアは自分に言い聞かせた。カラスを拾った時だって周辺に誰もいないことは入念に確認したし、怪我をさせたのが猫かどうかも知らない。手当てだって自室の中のことだ。他人の目があったはずはない。となるとこれは、適当なことを言っているだけだろう。きっと。たぶん。
「あなたが外とのやり取りなんて危険なことをしているから、その証拠を掴まえてやろうとしただけで――」
「いや、何でそんなに頑ななの。ネヴィンのことカラスの『スーちゃん』? って呼んで可愛がってくれてたじゃない。ネヴィン、それは自分の名前だってちゃんと覚えてたみたいで、私に教えてくれ――……」
「嘘でしょうあなた人の部屋でも覗いたの!? 気味が悪いわね……!!」
「覗いたりしないわよ、気味が悪いなんて失礼だなあ……」
呆れたような返答が寄越されたが、釈然としないのはこちらの方だった。なぜこの奇妙なえこひいき娘ときたら、そう見透かしたことを言うのだろう。いや、事実だ。それは認める、だがしかし、どこから知られた。使部だろうか。いや、使部たちは喋らないし、特定の巫女をひいきもしない。となるとやはり、あのカラスが情報源と考えて間違いないか。
「あのカラス、あなたの使い魔か何か……?」
「使い魔って、何それ。普通のカラスだよ」
「普通のカラスは会話しないわよ!!」
「いや会話っていうのとは少し違うんだけど、意思疎通っていうか……とにかく、本当にありがとう」
目の前の彼女はふにゃりと相好を崩した。
俯いていた暗い顔とも、箍が外れたような嘲笑とも違う。年相応の、ありふれた普通の少女の笑みだった。きっと本来の彼女はこういう笑い方をするのだろうと、今自分に向けているのが素の表情なのだろうと、すんなりそう思った。
「……お礼を言われるようなこと」
「それに、勘違いでひどいことを言ってしまってごめんなさい。ネヴィンは雛の頃に拾って、それからずっと一緒だったから、怪我をしていると思ったら取り乱してしまって」
「どうりで……懐こいカラスだったわ。カラスなんて真っ黒で気味が悪いと思っていたのだけれど、慣れてみると意外に可愛かった」
あまりうるさく鳴かないのに、声を掛けて挨拶をすると返してくれるのが愛らしかった。つぶらな黒い瞳も、眺めている内にだんだん愛着が湧いていた。
自分が褒められたわけでもないのに、彼女はくすぐったそうにまた笑う。
「そうなの。それに頭もいいから、あまり手が掛からなくて。……手紙はね、兄弟に持っていってくれているの。黙っていてくれていたんでしょう。それもありがとう」
「……面倒だっただけよ」
「それでもよ。何かお礼を考えるわ」
「賄賂じゃないんだから、要らないわよ」
「じゃあ、ネヴィンのお礼だけ考えさせてね」
彼女にとっては本当に家族のような存在なのだろう。そこまで不要だと言い募る気はさすがに起きず、ソフィアは「好きにしたら」と嘆息混じりに短く返す。それで彼女の気が済むのであれば、好きにさせた方がいいのだろう。
彼女は一つ頷いて、自分の胸元に手を当てる。
「たぶんもう知っているかも知れないけど、私はフローレインっていうの。あなたは?」
「……ソフィア。ソフィア・シャレットよ」
「ソフィアね。……うん……」
変わった目の色をしているなと思ったのは、その瞳がじっと自分の目を覗いているせいだ。
居心地が悪いと感じたのは、どこか――自分の頭の中でも覗いているかのような、目が合っているのに合っていないような、奇妙な視線だったからだろう。
黙って人の目を見て、一体何を考えているのかと質そうとした時だった。フローレインが先に口を開いた。
「ねえソフィア、違ったら本当に申し訳ないのだけれど……」
遠慮がちな、歯切れの悪い物言いだった。
何を言い出すのか覚悟すらないうちに、フローレインは続けて驚くような言葉を発した。
「もしかして、セレストの学校に、男の子の知り合いがいる……?」
衝撃が走った。
誰かがぶつかってきたわけでもないのに、頭を殴られたように何も考えられなくなった。驚愕に言葉もでなかった。
ただ、自分でも知らないうちに。唇だけは声もなく動いていた。
(なぜ)
フローレインはソフィアの驚愕をどこかぼんやりと、見ているようで焦点の合っていないような瞳で捉えたまま。
「灰色の目をしてる」
ソフィアの脳裏に、灰色の瞳をした哀しそうな彼の顔が鮮やかに浮かんだ。
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