聖宮の巫女 34
© 2019 sasori_bi『聖宮よりお召しがありました』
俯いた亜麻色の髪が掛かって、紫檀の瞳はよく見えなかった。小さな声は固く、普段の凛と張りのある滑らかな声音からはかけ離れた印象だった。
漂う緊張感のせいだろうか。すぐには彼女が何を言ったのか理解できなかった。だが、続く言葉は否応なく意味を理解させ、自分を打ちのめすには十分だった。
『後ほど両親から正式に申し入れがあるでしょうが、婚約は白紙に。……あなたとは結婚できない』
――信じていたものがあっけなく、脆く崩れていく感覚は、自分の立っている足元を揺らがせるようなものだった。
数年前に王城での晩餐会が会った折、まだ社交界に出て間もない彼女と知り合った。その後、家が取り決めた婚約者という関係になったが、互いに好意を持っていたことに気付いた両家の親の計らいだった。それ以降は何度となく連絡を取り合って、互いの家を行き来していた。家柄の釣り合いが取れていると両親は喜んでいたようだが、どうでもよかった。きっと家柄がどうでも、彼女と出会っていれば同じように好意を持っていたと思う。
彼女も同じだと思っていた。だからこそ納得ができなかった。
とっさに彼女の細い肩を掴んでいた。
『聖宮が何だ。そんな一方的な話、どうして君が受ける必要がある? 断ればいい……!』
『できないわ』
『そんなはずがあるものか! 臣下の家の婚約者を召し上げるなど、そんな無理がまかり通っていいはずは……』
パシ、と鈍い音が響いた。
遅れて手のひらに痛みが走り、掴んでいたはずの肩の感触が消える。自分の手を振り払った白い手が、強く握り締められているのが見えた。
『王太子の妻になれるかも知れないのよ。みすみす断る理由があるものですか。あなたよりも――……』
無機質な声が冷たく突き放す。自分が聞いたことのない彼女の声だった。その表情はやはり見えない。――ずっと俯いたまま、固く引き結んだ口元だけが見えていた。
『ずっといい生活ができるのに、どうしてわざわざあなたを取る必要があるの?』
微かに震えた語尾が、嘲笑だったなどとは今でもどうしても思えないまま。
『――ソフィ、』
『さよなら、ルシン。こんな非情な女じゃなくてもっとあなたに相応しい、いい人がいると思うわ』
それきり彼女とは会う機会を作れないまま、彼女が聖宮に行ったことを人伝に聞いた。
校舎の廊下を歩いていると、向こうから人影が見えた。
煌びやかな金の髪に、翡翠の瞳をした男。夜の濃藍の髪に、燭台に灯した炎のような橙色の瞳をした男。
トルカ出身の編入生、クランカイト・アステリアとユージオ・シアン。父親が言うには、特例扱いで聖宮に入った巫女の親族らしい――おそらく事実だろう。ルシンがその話題を持ち出した時、クランカイトは否定しなかった。だが、それにしてもまったく悲観する姿が見られないのは、彼らの性質によるものなのだろうか。
繰り返し思った疑問をまた心中呟きながら、ルシンが二人の隣をすり抜けようとした時だった。
いきなり眼前を何かが過ぎ去って、そうかと思えばあの美貌のかんばせが目の前にあり――壁に手を突いてルシンの行先を塞いでいる。
「ルーシーンくん。あーそびーましょー」
「止めろ馬鹿。ガラが悪いな」
溜め息を吐くユージオの声も聞こえた。そちらに視線を向けると、彼もまた窘めるような言葉とは裏腹に、クランカイトを避けた場合の進行方向を塞いでいるので、完全に共犯だった。
どうしても溜め息を禁じ得ないまま、ルシンはがっくりと肩を落として。
「……何の用だ」
前に声を掛けたのは自分の方だが、こんな威圧的な態度ではなかったような気がする。
そう訝しく思いながら用向きを尋ねると、クランカイトは楽しそうに小首を傾げた。
「手合わせしようぜ。今度は」
片方の肩に二本の模擬剣を担いで、何か考えるように一瞬だけ言葉を切ると。
「人目のないところがいいかな」
――こんなに腕が立つ男だったのかと、ほとほと思い知った。
前に手合わせを挑んた時とは比べ物にならなかった。ルシンの方が防戦一方で、気を緩めれば痺れた手のひらから今にも柄が離れそうだった。
人気のない裏庭に、打ち合う金音が何度も響く。繰り返し交えた刃の衝撃は激しく、その細腕のどこからと思うほど振り下ろされる剣は重い。どうにか模擬剣を取り落さずに済んだものの、気が付けば背中に庭木が触れて、喉元には切っ先があった。
完膚なきまでの敗北だった。
「……なぜ以前は勝ちを譲った。立場か」
腕が重くて上がらなかった。だらりと腕を下げて、杖のように模擬剣を地に突き刺す。上がった息を整えるように深く息を吐くと、クランカイトが剣を引きながら首を傾げた。
「勝っても負けてもどうでもよかった、からー」
「ふざけるな」
立っているのも億劫で、ずるずると木に背中を凭れさせながら座り込んだ。遠巻きにしていたユージオが心配そうにこちらにやってくる。その視線から逃げるように俯いた。
こんなふざけた奴らが自分の前にいると、どうしようもなく腹が立つ。
「どうして平気でいられる。どうでもいいとどうして思えるんだ」
――どうしてわざわざあなたを取る必要があるの?
ずっと後悔している。心残りがある。あの時どうして自分は。
「大事ではなかったのか。引き離されていい、その程度の存在だったとでもいうのか。そんな馬鹿な話があるものか」
ぐしゃりと前髪を掻き乱す。ぐちゃぐちゃに心は乱れたままだ。ずっとわだかまりが残っている。それなのに目の前には自分と同じはずの人間が、何のわだかまりもなく笑っている。
こんな屈辱があるだろうか。後悔を引き摺る空虚な我が身を思い知らされる。
「何をへらへらしていられるんだ、お前たちは……!」
ずっと後悔をしている。――どうして自分はあの時、無理やりにでも彼女の表情を確かめておかなかったのだろうか。
彼女の言葉に傷付いてばかりで、彼女の本心を確かめることすらできなかった、不甲斐ない自分をずっと悔い続けている。
俯く視界に、雑草を踏む爪先が映る。
「『何をこそこそしているか知らないが、個人の私情で不用意なことは考えるな』」
いつかに自分がクランカイトへ放った八つ当たりの言葉だった。だが、それを紡いだ声は、クランカイトのものではなかった。
ルシンが何も答えずにいると、もう一対の靴の爪先が視界に入った。かと思った瞬間、腕を掴まれて無理やり視線を上げられる。
ただし、目が合ったのは、腕を掴んだ手の主ではなかった。
「残念ながらご明察、ではあるが――あんたが言っていたのは、俺たちのことか?」
「!」
灯る燭台の炎の瞳が冷たく見下ろしてくる。動悸がしたのは本心を暴かれたせいだろう。まったく彼の――ユージオの言う通りだった。
もう一度彼女に会えれば、言葉を交わすことができればと、不用意なことばかり考えていたのは自分だ。
「俺は」
「そんなルシンくんにお届け物。妹――経由の、魔法道具経由の、さらに俺たち経由で、お前宛て」
「……は?」
ユージオに向けていた視線を、今度はクランカイトに向けると、彼の手には一通の封筒が握られていた。
何かと戸惑うルシンの表情を面白がるように、クランカイトは翡翠の瞳を細めて封筒を押し付けてくる。やむなく受け取り、胡乱にその封筒の宛名を見て――見覚えのある筆致に息を呑んだ。
見間違えるはずがなかった。
「どうしてこれを……」
「説明しただろ。妹経由の魔法道具経由の俺たち経由――ま、どうでもいいだろ、そんなこと」
掴んだ腕が放されて、思わずよろけた。どうにか踏み止まって、動揺からじっと二人の顔を交互に見るが、どちらもさほど表情を変えないまま。
「やっぱどう考えても厄介事の種だし、燃やしちまえばよかったんじゃねえの」
「人様宛ての手紙を燃やすって……よく言えたなあんたは。人の心がないのか?」
「いらんこと喋られたらもう、人の心がどうとか言ってらんねえよ。まぁた家に軍人が来る」
「またって言うな。笑えない」
ユージオの嘆息で、二人のやり取りが切れた。
ルシンは戸惑いが消えないまま、手元にある手紙を握り締め――
「……開けていいのか」
恐る恐る尋ねると、早くしろとでも言いたげな視線が返される。
まだそれほど長い時間が経ったわけでもないのに、懐かしさすら感じさせる筆致。自分の名前と、裏側に差出人である『ソフィア・シャレット』の名前が記されていた。
困惑が渦巻く中で封を剥がし、畳まれた紙片を取り出した。ゆっくりと開いて、そこに丁寧に綴られた彼女の筆致を確かめて――その時までは、何か希望のような何かが兆しているような気がした。
ずっと漠然とした絶望のただなかにいるような思いで、行き場のない、終わりもない感情をだらだらと引き摺っていた。そんな心の在り様に何か変化があるような、この手紙を読めば何か救いがあるような気がしていた。
期待と共に文面に目を通し――読み終わった頃にはもう、そんな期待は消え失せていた。
「……はは」
思わず乾いた笑い声が漏れた。
「? どうした」
「……俺は何を期待していたのかと、滑稽で笑えてきただけだ」
手紙の内容は、最後に会った時のソフィアの言葉と何も変わらなかった。
王太子は素敵な人間で、宮に入ってよかったと。生活も何不自由なく、魔法こそ使えないが幸福だと。いずれ宮の外にも出入りできそうだと――自分に少しも想いは残っていないから、自分は別の誰かを探してくれと。それだけだった。
俯いて、またへたり込んでしまいそうだった。本当に滑稽だ。彼女は望んで宮に入ったのだ。今も未練たらしく引き摺っているのは自分だけだったのだろう。――想いを通わせていると思ったのも、きっと自分の思い違いで。
「最後に会った時と同じだ。王太子はいい男で、何の不自由もない。俺は他の女を探せ、だと。……ひどいことを言う」
再び会ったところで、言葉を交わしたところで何の意味もない。邪険にされるだけなのだろう。せめてひと目と願っていたはずなのに、そんなことをしても何も変わらない。彼女に迷惑がられるだけなのだろう。
途方に暮れるルシンの耳に、小さな溜め息が聞こえた。
「本当にレインの言う通り意地っ張りな女なんだな」
「可愛げねえ女みてえだし、いっそこれを機に見切りつけちまうのも手じゃねえの」
「せっかくレインが気を回してわざわざもう一枚付けて寄越したのに、無駄にするようなことを言うな」
「人様の世話焼いてる場合かよ、あの馬鹿は」
ルシンはゆるりと顔を上げる。視線の先には二人が呆れ顔で視線を交わしていた。
「……何の話だ?」
無気力のまま尋ねると、二対の瞳が向けられる。
怪訝な表情のままのルシンに、ユージオがもう一枚封筒を取り出して渡してきた。
「あんた宛てでもう一通。こっちはこいつの妹から」
「なぜ……お前の妹から、俺に?」
「見りゃわかる」
クランカイトが素っ気なくそう言って、渡した封筒を開けるよう目配せをしてくる。
その視線に促されるまま、ルシンはのろのろと封を開けて中身を確かめた。
「『――ルシン・イングリッド様』」
中には少女らしい整った、そして少しだけ筆先が流れたような文字が綴られていた。
ソフィアの手紙を預かった、同じ東の宮の巫女です。
手紙を預かった時、ソフィアがひどい顔をしていたので、きっと手紙の内容は突き放すようなことが書いてあったのではないかと思い、補足のために筆を執りました。
不用意に私があなたのことを尋ねた時、ソフィアをひどく泣かせてしまいました。取り乱しながら、私がルシンの幸せの邪魔になりたくないからと、そう言っていました。きっと今もソフィアはあなたに好意があるのではないかな。
そうは言っても、巫女がもう誰かに何を望むこともできませんから、ソフィアはあなたに冷たくするしかできないのだと思います。あなたが、自分が幸せになることを考えてくれることが、今のソフィアの望みなのだと。
ただ、これは私のわがままですけれど、手紙の内容がソフィアの本心なのだと取り違えることだけはないよう願っています。あなたの幸せを願っているソフィアの想いだけは、決して誤解されて欲しくない。
私の身勝手に過ぎませんが、どうかそのことだけは伝えさせてください。取り急ぎ、用件までに。
「……『フローレイン・アステリア』」
決して彼らにとっても他人ではないだろうと声に出して読み上げてはみたが、思いがけない内容に、うまく声が出ていたのか自分でもわからなかった。
――顔すら見たこともない第三者の言うことだ。どれだけ信じていいのか怪しいものだし、実際に彼女の本心だと断言できる要因にはなり得ない。
そうわかっていても――納得してしまった。あのソフィアが……気位が高くていつも虚勢を張って、そのくせ本当は怖がりな彼女が、どんな思いで自分を突き放したか。一生閉じ込められて生きる生活を知っていて、待っているなどとおためごかしの言葉を欲するような、思慮の浅い少女ではなかったのに。
軽く腕を組んだユージオが、伏し目がちに小さな嘆息を漏らした。
「ちなみにだが、レインは王太子に会ったことも見たこともないらしい。それでじき大史に任命されるそうだ」
クランカイトがその品の良いかんばせでさも可笑しげにせせら笑う。
「大史が見たもことねえのに、何で他の巫女が王太子のお手付きになんだよ。盛るにしたって限度あんだろ」
「お手、付……だとか、何もそんなあけすけなことさすがに書くか。どれだけ恥知らずな女だよ。……さすがにないだろ、イングリッド」
だが、それでも何も答えないルシンに不思議そうな顔をして、ユージオは軽く首を傾げた。
「イングリッド? あんたの婚約者っていうの、さっきの手紙の女で合ってるんだよな。ああいや……それとも元婚約者?」
「婚約者だ」
自分でも思いがけないほどはっきりとした返答になった。
視線を返すと、軽く目を瞠ったユージオとクランカイトがふと、面白そうに目だけを細めたのがわかる。――苛立たしいほど好対照に優れた二人だと思っていたが、笑い方は同じなのだなと頭の片隅で少しだけ思った。
――何か悪だくみを思い付いたような子供のように瞳を輝かせるのだから、性質が悪い。
ルシンは二通の手紙をきつく掴んだまま、一つ小さく息を吐いた。何も手紙を渡す手段が一方通行なはずがないことは、彼らの様子を見ればよくわかる。
叩きのめされた後に癪だと思う気持ちもあるが、二の次だった。ルシンは灰色の瞳で真っ直ぐに二人を見据えて言い放つ。
「今も心変わりはない」
だからせめて、心だけは彼女に寄り添おうと決めた。
© 2019 sasori_bi
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