代償 8

© 2019 sasori_bi
 その日はあまり眠れなかった。
 夕方寝入ってしまったのがいけなかったのか、横になってからもしばらくユージオはなかなか寝付けなかった。寝付いた後も何度か目覚め、何度も無為に寝返りを打ったりしていた。
 明け方ムガンが起き出した音でまた目覚め、睡眠不足のまま寝床を這い出て起き上がった。

 忍び足で奥の部屋を抜け、入り口に置かれた灯火台を横目に、上掛けを肩に掛けたまま外に出る。
 明け方はずいぶんと空気が冷たい。澄んだ空気は少し湿っていて、下草はたっぷりと朝露を含んでいる。山の輪郭にはまだ夜の藍色が残っていて、暁の橙と混じっていた。
 けれど、冷たい空気に触れてもまだ、ユージオは頭が冴えずにぼんやりとしていた。

「眠れなかったのか」

 外に置かれた甕から水を汲んで顔を洗っていたらしい。前髪を濡らしたムガンが立っている。
 ユージオは眠い目を擦りながら答えた。

「変な時間に寝たのがいけなかったんだと思う」
「ならいいが……できることなら早めに山を下りた方がいい」

 ユージオは怪訝に思いながら「邪魔か?」と問い返した。ムガンはゆっくりと首を横に振る。

「ここに来たせいで死んだ連中は皆、よく眠れていない様子だった」
「……心配させて悪い。そういうわけじゃないと思う」
「そうか。無理はするな」

 家の傍に、丸木が横倒しになっていた。ユージオはそこに腰掛け、何とはなしに集落をぼんやりと眺める。ムガンも何をするでもなくそこに足を留めて立っていた。

「ムガン。アタルヴァで、山を下りた人はいるのか?」

 ユージオはぽつりと尋ねた。白々しいと思いながらも、他にどう尋ねていいのかわからなかった。
 ムガンは今日も不機嫌そうな顔で、しかし答える言葉はやはり淡々としていた。

「そんなもん、いくらでもいる。人も若い奴からどんどん減っているしな。こんな何もないところにいても、貧しいだけで一生楽になんてならない」
「……そうか」
「冬も厳しく、長い。今は一年で一番暖かい時期だ。お前は楽な時期に来たよ」

 ユージオは「そうだな」と短く答えた。
 調べているうち、夏季しか近付けない場所だと知ったから、期末試験もそこそこに慌てて来た。自分の体力では、冬など命を落としに来るようなものだ。
 冷たい空気に、鼻の奥がつんと痛む。ゆっくりと息を吐き出しながら、ユージオは山際の稜線をじっと眺める。

「ずいぶん空気が違う。きっと冬は本当に寒いんだろうな……」

 ムガンもユージオの視線の先を追って、遠くへ視線を投げた。

「雪はそれほど深くはない。代わりに、空気が冷たくなって、井戸も水瓶も厚く氷が張る。風がある日は外に出た途端に、一瞬で芯まで身体が凍える」

 ムガンの言葉に、その寒さを想像したユージオは無意識に、羽織った上掛けを深く掻き合せた。言葉だけでも充分に寒いのだとわかるものの、実際の寒さは想像の比ではないほどなのだろう。
 きっともっと命を蝕むような寒さだ。

「夏の間に少し天気が崩れれば、途端に食い物は減る。商人が立ち寄らなければ金も手に入らない。冬を凌げない家もある。体力のない老人と子供から命を落とす」
「……それでもここにいるんだな」
「先祖が暮らしていて、今もこの土地に眠っている。守ってやらないといけない」

 それは本当に、今生きている人よりも大切にしなければならないものなのだろうか。
 わからなかった。けれど、そんな疑問を口に出してしまうと、今のムガンの在り様を踏み躙るような気がして言えなかった。

 樹木のようにその地に根を張り、その地と生を共にする。そういう覚悟で生きているのだろう。この地を離れるということが、彼にとっては生きることを諦めることと同じであるかのようだ。
 土地そのものに神がいて、その恩恵で生きている。レガ信仰の考え方にとても近しい。なのに、ここにレガ信仰らしき存在が見つからないことが不思議でならない。

「お前にもいるだろう。親兄弟、祖父母なんかが。そういう連中が守ってきたものを受け継ぐことは、そんなにおかしなことか?」
「俺にはいない。母親が唯一の肉親で、昔に亡くなったから、先祖や血縁者を知らない」
「意外だな。てっきりいい家の子供かと思った」

 ユージオは曖昧な表情で「そんなの言われたことない」と答えた。

「えらく立派な指輪をしている」

 指摘されて、ユージオは自分の左手の小指にある金の指輪を見下ろした。混じり物のほとんどない金で作られた指輪。確かに高価だろうが、ユージオにとっては値段的な価値をあまり意識していなかった。

「これは呪いの指輪だから、たぶん死ぬまで外れない」

 ムガンが訝しそうに「は?」と首を傾げるが、ユージオはそれには答えなかった。

「今日は少し外を見て歩きたいんだが。いいか」
「外? 集落の中か?」
「中もそうだけど、外も」
「何か見たいものがあるなら案内するが」
「……祠か何かが、ないかと思って」

 途端、ムガンが明らかに険しい表情をした。困惑するユージオの前に立ち、じっとユージオを見下ろしてくる。
 いつも怒ったような顔をしていると思う。けれど、本当に怒っているわけではなかったから、怖いと思うことはなかった。
 ――今は違う。怒りのような感情を面に浮かべてじっとユージオを睨み付けている。

「お前まで訳の分からないことを言うつもりか?」

 威圧されるような気迫に、ユージオは思わず距離を取ろうと身体を仰け反らせた。だが、座ったままの状態では思うに任せず、失言を警戒しながらゆっくり問い返した。

「訳の分からないこと?」
「レガがどうだの、ブリード教の信仰がどうだのと、どいつもこいつも身に覚えのないことを聞いてきやがる」
「……何の話だ」

 ムガンは舌打ちをして「とぼけるな」と低く唸るような声を出す。何がそれほど逆鱗に触れたのか分からないまま、ユージオは何も言えず息を呑んだ。
 ムガンは自分の苛立ちにはたと気付いたような顔をして、ユージオから視線を背けた。激情を堪えるように深く息を吐き、震える声で低く呟く。

「俺たちはずっと昔からブリード教を信仰している。生まれてくるよりも前からだ。なのに、よその連中はそんなはずはないだの、レガがどうしただのと、まるで俺たちが異常かのような顔をする。……おかしいのはどっちなんだか」
「ムガン……?」
「お前は知っているのか。レガとは何だ?」

 尋ねられ、ユージオは少しの間口を噤んだ。
 ぞっとした。ずっと不思議に思っていた。どうしてここにレガ信仰の片鱗が見つからないのかと思っていた。けれど、薄ぼんやりと考えていたある可能性がますます真実味を帯びて戦慄した。
 ムガンは遠くに視線を投げて、静かに言った。

「本当に……おかしいのは誰なんだかな。妙に、何かが欠けているような気がして……どうにも胸が騒ぐ。ここ何年か」

 ムガンの表情は見えなかった。自嘲の気配が声音に潜んでいる気がしたが、実際のところどうなのかは分からない。虚しく響いた声に、ユージオは戸惑った。
 いよいよ、ある可能性が真実味を帯びてきた。恐ろしい想像に、僅かに背筋が震える。――あってはならないことだ。

「何か、とは」
「さあ。何だかな。……わけの分からない感傷だ。きっと気のせいなんだろうが」

 ムガンが振り返る。どんな顔をしているのか確かめるのが少し怖いような、でも確かめなければならないような。そんな思いで顔を上げると、意外にも彼はいつもと変わらないしかめ面のままだった。
 ユージオは何と答えていいか分からないまま、軽く眉をひそめる。

「大事なことかも」
「は。なんで大事なことを忘れることがあるっていうんだ、馬鹿なことを」

 ユージオは何も言葉を返せないまま、黙って胸元を手で押さえた。
 肌に当たる硬い感触。本来は、彼らの親族がいるのなら、返すのがいいと思っていた。けれど、ここでこれを返したところで、きっと何の意味もない。これが何を意味するものか知らないなら、渡したところでただの首飾りになってしまう。レガ信仰を覚えている人が、この世で誰もいなくなってしまうような気がした。
 皮肉げに笑ったムガンは、けれど急に顔色を曇らせて。

「……そんなことがあるものか」

 まるで自分に言い聞かせるような言葉を小さく呟いた。
 ユージオは静かに立ち上がる。ムガンに向けていた視線を落として、俯きがちにぽつりと言う。

「違う山に、ここと似た名前の場所がある。そこはブリード教を信仰していないから……外の人はそこと勘違いしているじゃないか」
「……そうか」

 到底信じられないと知っていて虚しい嘘を吐いたことも、ムガンがその言葉を頭から信じていないことも、きっとどちらも理解していたのだろうけれど。
 互いにそれを暴くことはしないまま、その話は終わった。

「向こうに林が見えるだろ。あそこに寂れた祠のようなものがあったはずだ。なぜそんなものがあるのか、誰が拵えたものかもわからんが」

 ムガンの視線の先を追うと、集落から離れたところに群生した木々のかたまりが見えた。そこまではひたすら下草があるばかりの広いなだらかな斜面だが、おそらくぱっと見た印象よりずっと遠いのだろう。
 ムガンはすぐにとは言わなかった。

「朝餉を食ったら見てくるといい」

 ユージオは頷いて、ムガンに追い返されるまま建物の中に戻った。


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