代償 9

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 大丈夫だと言葉で言ったほどには、自分が大丈夫でなかったことに、ユージオは少し遅れて気付いた。
 頭にぼんやりと掛かっていた靄のようなものは、いつの間にか鋭い頭痛に変わっていた。食欲もなく、朝餉もあまり進まなかった。

 早く山を下りた方がいいとムガンに言われた通り、このまま山に留まるのはまずいと思った。だが、探しに来たものは見つけられていない。レガ信仰についても、ヴェーダたちの家族についても、まだ何一つ調べられずにいる。このまま無為に戻るかと思うと決断が鈍った。
 食欲はなかったが、ムガンやリッカの目が気になったので何事もないように装って、出された食事をどうにか平らげた。

 片付けを手伝い、ムガンの同行を断って、一人林の中へ向かった。その頃にはただ歩いているだけで呼吸が整わず、込み上げる吐き気を堪えながら無心に歩いた。寒いはずなのに、自分の身体が熱いのか冷たいのかもわからなくなっていた。

「祠……」

 人の歩いた痕跡のような道があって、林の中に続いている。ようやくたどり着いた林の入り口で、ユージオは荒い息切れの合間に小さく呟いた。
 どこと厳密に聞いたわけではなかったので、あまり深く考えずに来たが、それほど狭い林ではないようだった。細い道がずっと奥の方まで伸びていて、見通しがきかない。途中で切れているのか、それとも道がどこかに抜けているのか。警戒する余裕もないまま、ユージオはふらふらと道なりに林の中へと足を踏み入れた。
 いつも入り浸っていた湖畔の森ほど木々の背は高くない。そのせいか頭上に広がる枝葉が日差しを遮り、薄暗い雰囲気だった。

 歩いていると唐突にがさ、と音を立て、獣が姿を現した。

「うわっ……」

 一瞬、肉食の獣かと警戒したが、鹿に似た生き物だ。少し姿形は違うかも知れないが、平地では見たことがない。ユージオの姿をちらりと確かめ、また木々の合間に姿を消していった。

 驚いたせいだろうか。ドキドキと鼓動がうるさく、なかなか動揺が収まらなかった。ズキズキと痛みを訴えていた頭から血の気が引いていくような感覚に、思わずその場に膝を突く。

「っう……ぇ……」

 ずっと胸元にわだかまっていた不快感を堪え切れず、その場に突っ伏して嘔吐した。
 ぐらぐらと視界が回っている。自分の身体がひどく重い。どうにか膝に力を入れて立ち上がったが、すぐに近くの幹に手を突いた。

「っは……まずい、かも……」

 動けない。山を下りようにも、戻ることすらできない。こんな風に、坂を下るかのようにあっという間に体調が崩れると思わなかった。
 頭に血が回らない。呼吸をしているのに息が苦しい。食べることも眠ることもままならない。頭の中に、死の気配が過ぎって消えない。
 視界が暗転する。
 そこからどうなったのか、意識を失ったユージオにはわからなかった。






 かたかたと、木が擦れるような音がした。誰かがいる気配がしている。
 ほんのりと煙の匂いがする。何の匂いだろうか。燃やすとこういう香りのする木を、セレストのどこかの店で嗅いだ気がする。
 薄ら目を開けてみるが、映る視界は薄暗い。壁に織物の幕が張られて、ほんのりと暖かい気がした。冷たいのか暖かいのか分からなかった身体の感覚が戻っている。
 強張る身体を僅かに動かして、ユージオは思わず声を出した。

「……カイト……?」

 他に寝起きの自分の傍にいる人を知らない。礼拝堂ではある程度学業を認められて個人の部屋が与えられていたし、寮に入ってからも特待生の一人部屋だ。同じ部屋で寝起きする相手など彼ぐらいしかいない。
 が、思いがけない声から返答が届く。

「起きたのか」

 どこか低く掠れた女性の声だった。
 驚いて飛び起きると、幕の向こう側にいた声の主が、布を捲って顔を覗かせる。見知らぬ老女だった。

「え、っと……あの」
「あんた、そこの林の中で倒れてたよ。見ない顔だし、またいつもの不調だろうと思って治してやったが」
「治し……?」

 と、身体を起こした拍子に、耳元にあるはずの耳飾りがないことに気付く。
 ユージオが戸惑いながら耳元に手を遣ると、幕を上げていた老女はその仕草に気付き、ユージオに背を向けた。

「探し物はこれだろ。邪魔だからちょっと外してただけだ」

 傍にある机の上に手を伸ばしたかと思えば、ユージオの方にぽんと何かを放る。見下ろしてみると、見慣れた耳飾りだった。
 未だ事態が掴めないまま、ユージオは寝床の中から起き上がる。
 ひどい頭痛が止んでいた。息も苦しくない。吐き気も収まって、辛かった不調がずいぶん楽になっていた。

「助けて、頂いたんでしょうか。ありがとうございます」
「……えらく若いね」
「学生で、昨日調査に来たのですが……」

 集落の中ではずいぶん騒ぎになったようなので、知らない人がいるとは思わなかった。
 老女が木の器を差し出してくる。中には色のない液体が入っていた。ユージオはそれを大人しく受け取り、一口飲み下した。白湯だった。
 ほっと息を吐き、改めて女性を見る。

「ユージオといいます。あなたは」
「アルマナ。恩になんて着なくていい。たまたま近くで見つけて、まだ息があったから捨てて置けなかっただけだからね」

 総髪は白く、深い二重の奥の瞳も濁った灰色をしている。肌はやはり日差しのために浅黒く、服を何枚も重ねて首まで覆っている。その耳に、耳飾りがなかった。
 アルマナと名乗ったその女性は、疲れたように息を吐いて椅子に掛けた。

「荷車があっても、運ぶのに難儀したわ。その間あちこちぶつけただろうけど、まあ命があるだけマシだろ」

 ユージオはその言葉に首を傾げながら、自分の服の裾や袖を捲った。あちこちに青痣が出来ている。建物の中、他に人の姿はない。彼女一人でユージオをここまで運ぶのはさぞかし大変だっただろう。
 苦笑いしながら頷く。

「助かりました。本当に死ぬかと思ったので……」

 アルマナは「死ぬよ」と素っ気なく言い切った。にべもない言葉でも決して脅そうという気配はないのに、無遠慮なほど明け透けで、ユージオは一瞬ぞっと背筋が冷えた。

「あんた、いつ山を下りるつもりだ。治したところで一時しのぎさね。長居はしない方がいい」
「一時しのぎでも、治す方法があるんですか」

 気を取り直したユージオはすぐに問い返した。
 ムガンには死んだ人がいると聞いている。ただ、一時しのぎだとしても処置の術があるのだとしたら、原因はわかっているはずだ。どうして呪いなどと呼ばれて命を落とすことがあるか疑問に上る。
 アルマナは眉をひそめた。

「変なことを聞くね。そんなもん、聞いてどうする」
「興味が……あるので」
「そう。でも、大したことはしてない。先祖から伝わった治癒魔法がいくつかあってね、山の下の連中が使うような魔法よりずいぶん粗末なもんだろうけど」
「治癒魔法……」

 あの時、何かの拍子にヴェーダも言っていたことがあった。故郷には医者がおらず、治癒の魔法を使える人に診せるのだと。ムガンは治癒の魔法については何も言わなかったが――知らないのだろうか。

「やはり呪いじゃなかったんですね」
「私は治し方を知ってるだけで、どうしてそうなるのかは知らない。呪いかも知らんね」
「アタルヴァで、他に治癒の魔法を使える人はいるんですか」
「いないんじゃないか。何年か前には少ないがいたはずだが……どうしたんだろうね、ありゃ。いつの間にだか、すっかり忘れちまってたようだし」
「……アルマナさん、は」
「さんだの敬語だのはお止め。そんなご大層な人間じゃない」

 ムガンもそうだったか、ここの人たちは基本的に丁寧な言葉遣いを嫌うようだ。確かに皆ぶっきらぼうで素っ気ない言葉使いをするが、そういう環境というだけであって、決して悪意があるわけではないのだろう。

「呆けたにしたって若いのまですっかりいかれてる。いや、向こうにしてみれば私の方がいかれたってことになってるんだろうが」
「いかれてる、って……」
「さてね。気が付いたら皆揃って妙な教えに浸っていて……。さて、こんな婆と話していると、あんたまで変な目で見られる。動けるなら早く戻りな」
「待ってくれ」

 ユージオは自分の襟元を緩めて、温まった紐を引っ張り出した。
 いつも下げている《地の底》への鍵は置いてきた。紐に下がっているのは白い獣の角だけだ。
 それを見たアルマナが軽く目を細めた。驚きこそ少ないが、意外そうな表情をしている。ユージオはどう説明すべきか考えながら、ぽつりと尋ねた。

「……知って、るんだな」

 アルマナは顎の下まで覆っていた服を押し下げて、首元から手を差し入れた。襟から引き出された紐にはやはり、彫り物が施された白い角が下げられていた。


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