代償 23

© 2019 sasori_bi
 地下図書館は相変わらず膨大な所蔵量で、光が入らない性質上、足を踏み入れるといつもどこか肌寒い気がする。
 照明を片手に、ノイシュに言われたように地下の三階まで下りていくと、本棚の隙間を縫って壁際まで向かった。上の本棚に続く階段を上り、壁に巡らされた足場を進む。収蔵されているのが建築関係の本ばかりなので、それらを専攻する学部のないこの学校ではほとんど無関係の専門書だ。それもあって人気が少ない。

 棚の裏には小さな勉強用の空間が設けられている。そこから梯子が続いて、さらに上の本棚への足場に上がれるようになっていた。他にも梯子はあるのでここの奥まで来る用事はほとんどないのだが、人気がないから落ち着くというのは分かる。
 そう思いながら、ちょうど棚で区切られたその場所へとユージオが近付いた時だ。
 物音がして、人の足音が続いた。

「ユキシロ? いるのか?」

 棚の陰を覗き込もうとすると、慌ただしく一人の学生が飛び出してきた。
 驚いて思わず足を止めると、上着を羽織りながら向こう側へと去っていく。その足取りが何だか慌ただしく、何を焦っているのかと不思議に思いながらその背中を見送った。
 と、今しがた学生が出て来た方から声が掛けられた。

「ユージオか」

 ユキシロの声だった。
 やはり取り込み中だったのだろうかと思ったが、呼ばれた以上は来るなということでもないだろう。
 そう思って訝りながら棚の陰を出て、何気なくユキシロがいる方を見たユージオはぎくりと足を止めた。

「な……」

 衣服を乱して髪も解けた、あられもない姿のユキシロがそこにいた。
 ノイシュの言った『取り込み中』の意味を理解して、思わず目を伏せた。いたたまれずにこめかみを押さえる。

「場所はわきまえた方がいいと思うが……」

 他に何と言っていいか分からなかった。しかし、ユキシロはまったく動じたところのない声音で返してくる。

「わきまえた上でここだ。さして人が来ない。寮も個部屋じゃないしな」
「外の連れ込み宿に行けばいいだろう……」
「そこまで手間を掛ける必要がない」

 ユキシロは答えながら下衣をようやく身に着けた。それを見て安心しながら、ユージオは渋々ユキシロに近付く。未だに上着の前ははだけたまま正そうという気配もないが、気にすまいと思いながら、脚立に腰掛けた。

 ――ユキシロが同性を好むという話は聞いたことがなかった。

「……邪魔をして済まない」
「いや。君が来るなら君の方が優先だな」
「そんなこと……今の、恋人じゃないのか」

 どことなく先ほどまでの情事の気配が残っているので、ひたすら居心地が悪い。ユージオが来たために慌てて去ったらしい学生の後ろ姿を思い出しながら尋ねると、ユキシロは顔色を変えずに答えた。

「あれが恋人だというなら、私は恋人が何人もいることになる」

 この上幻滅することもないとは思っていたが、違う方面では少し衝撃を受けた。

「……どうして恋人でもない相手と寝るんだ」
「気晴らしだ。身の回りに異性がいないと、男相手でも乗ってくる人間はそれなりにいる」
「き……」

 動揺するユージオを紫水晶の瞳が不思議そうに見る。

「君は純然たる異性愛者だったか」

 おそらく同性愛への嫌悪と捉えたのだろう。
 ユージオは首を横に振る。戒律でも禁忌扱いではないし、当然のことそれを罰する法があるわけでもない。そもそも自分のことを棚に上げて嫌悪も何もない。

「相手が同性だからどうこうというんじゃない。不特定多数が相手だから問題だと感じている」
「特定していれば君は問題がないと思うか」
「……想像で言っているから、違うなら構わないが。好意もない相手とそんなことをしても、ただ不愉快なだけのように思う」

 ただ単純に手や肩を触られるだけだって、親しくもない相手なら何となく気分がよくない。想像の範疇に過ぎないが、身体で交わろうとするならおそらく、もっと。
 眉をひそめるユージオに対し、ユキシロはああ、と納得したような声を漏らした。

「君は懸想の相手がいるんだったか」

 思い掛けない方向に話が移り、ユージオは思わずげほ、と噎せた。

「けそ……そんなこと言ったか」
「愛する者がいるからと、初めて会った日に言っただろう。ところが君は私と同じ礼拝堂育ちだ。家族以外といえば恋仲の女でもいたかと」

 礼拝堂育ちの自分たちには『家族愛』の対象がいない。いたとしてもそれは過去の記憶の中だけの存在だ。今の自分が『いる』と言うならもっと現実に即したものだと推察されるのは、自然なことだ。
 が、ユキシロの想像はそれに留まらなかった。

「ただ、それにしては女の影がないから、そうだな。……もしかすると彼か。アステリア家のクランカイト」

 好奇心というより、ただ純粋にそう思っただけなのだろう。熱のない呟きに、ユージオは一瞬息を呑み――すぐに落ち着きを取り戻した。
 否定しようかとも迷ったが諦めた。どうせ彼にとってはユージオという人間の情報が一つ増えた程度のことで、それ自体に彼自身の興味や関心が向けられることもない。

「……仕様がないだろう」
「何をもって特別なんだ?」

 ユージオは少し困って首を傾げた。
 彼が興味を持つとしたらその理屈や根本的なところだ。明確な定義や、区別。論理的な――恋情。
 だが、説明し得ないものだ。

「一人しかいないから、何かと比べようがない」
「そういうものか。君はもっと整然と答えるものかと思ってた」
「不甲斐ないだろう」
「いいや。概ね誰しも要領を得ない。好悪は千差万別で一般化されるべきものでもない。何を好ましいと感じるのかは個人の――心なのか、脳なのか、それらに左右されて共有が困難だ。だから私たちが個別の人間である限り、理解できる日は来ない。――おそらくそうである方が、存続という種の目的を果たすために正しい」

 好悪や行動が単一化されてしまったら、脅威に対してただ一つの対抗措置しか持てなくなる。同種が全て同じ行動を取るようになれば、一つの理由で全てが滅ぶ。今よりもっと脆くなる。もっとも、必ずしも理由はそれだけではないが。
 だからユージオの言い分が分からないということを、彼は責めない。

「幾ら発達した言語を獲得していようとも、私たちは根本的には理解し合えない。言語化が難しいことならば増してそれが正しい。君が例外ではなかっただけのことだ」
「……そうだな」

 落胆しているのかと思ったが、ユキシロの表情は普段通りだ。何か納得したというような気配はあるかも知れない。ただ、ユキシロが真実どう感じているのかは分かったつもりでいるだけのことで、実際は彼自身しか分からないものなのだろうとも思った。
 そういうものなのだろうとも。

「特別な人がいないのか。誰も」
「ない。身も蓋もないことを言うと、それがある利点がよく分からない」

 ユージオは思わず利点、と口の中で呟いた。

「自分の感情を律することができないから、だから仕様がない。それがそもそも不思議だ。私にとっては皆が個体であるという以上の差異はない。優劣もない。相手が誰でもどうでもいいし、言い方は悪いが替えがきく」
「……そう、だな」
「惰眠に耽るにしたって限りがある。起きている間中止まらない思考を一時手放せる代替手段で、私にとってあの行為にはそれ以上の意味がない。ついでに相手が同性だと、受動的に事が済んで楽だ」

 受動的、の意味を理解したユージオは思わず両手で顔を覆う。要らないことを知ってしまった――とここに来たことを大いに悔いた。
 けれど、彼の誘いに応じる人間をまったく理解できないわけでもない。
 柔らかそうな黒い髪と、目を惹かれる瞳。ガレシアの人間とは少し違う白い肌の質感。異国を思わせる容姿はある種魅力的で、触れてみたいと思う人間がいるだろうとは想像ができた。
 とんでもない暴露をした当人であるユキシロは、まるで気にした様子もなくまた言う。

「相手が不特定であることも、各自の時間的な制限が少なく、私にとっては合理的だからだ。……とはいっても、君が私のことを性的にふしだらな人間だと軽蔑するのも無理はないと思うが」

 特定の誰かに依拠する必要がない。だから、その刹那に都合が合う誰かであればいい。そういうことだ。
 そもそも彼と自分では、根本的にあの行為の理由が異なっている。だから正しくも分かり合えない。
 そう頭では分かっていても、もどかしくは思う。

「別に軽蔑しているわけじゃない。……ただ、寮長はユキシロのことを懇意に思ってるけど、それもユキシロにとっては他の人と同じなのか」
「ノイシュのことか? 寝たいと言われればまあ、断る理由もない」
「聞きたくなかったな……じゃあ俺も他の人と同じなのか」
「君は」

 と、珍しく一瞬返事に詰まらせた後、ユキシロはなぜか困惑しているように。

「私にとっては希望だ」

 そう言って、いっそう自分でも困ったような顔をした。
 発言したユキシロ自身その調子で、ユージオの方もその唐突すぎる言葉に困惑するしかできない。

「希望?」

 ユキシロは何か考えるように首を傾げて、やがて何か納得したように一つ頷いた。紫水晶の瞳を細めて、今度は崩れるように笑う。

「誰でも替えがきくと言ったが、現時点で君に類する人間が他にいない。だから私にとって君の替えはいないことになるな。これは君の言う特別じゃないんだろうが、君を別格だと思ってる」
「……俺もユキシロみたいな人間は他に知らないから、それはお互い様だと思う」
「そうだな。そして、私の身勝手だから、君に重荷に感じて欲しくはないことだ。君がどう生きるのかを想像するのが、私は楽しい」

 ユージオは怪訝な顔で首を傾げる。

「……何だそれ」

 ユキシロはそれに微笑を返すだけで、何も言わなかった。



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