代償 29
© 2019 sasori_bi
ノヴァリスに呼ばれたフローレインは、言われていた時間に彼女の執務室を訪ねた。
任官前に伝えたいことがある。
そうノヴァリスは言っていたものの、思い当たることはない。ゼズルカ大祐が監督役だった頃はこの執務室に来るのが億劫で仕方がなかった。その名残で足取りはどうにも重い。面倒事や嫌な話でなければいいと願うばかりだった。
ノヴァリスに勧められて向かいの長椅子に掛けたフローレインは、すぐに尋ねた。
「あの――お話と仰せになりましたのは、何でしょうか」
ノヴァリスは少しだけ困った顔をして、すぐに諦めたように息を吐いた。
「前置きを色々と考えていたのだけれど……駄目ね。何の意味もないのでしょう」
「……?」
「任官の前に知っておくべき話よ。本殿の巫女は皆が知っていること。いずれ他の神部の巫女も知ること。……だから、重荷だと思う必要はないのだけれど、聞いて頂戴」
そう言って、ノヴァリスは首を傾げるフローレインをまっすぐに見た。
「魔法の正体について、あなたに話しておかなければなりません」
フローレインは思わず眉を寄せる。
「魔法の正体……?」
「ええ。そして、ブリード教の役割についても」
役割、とフローレインはまた繰り返した。
深刻な表情をしているのだから、相応に大事な話なのだろう。だが、まるで見当がつかない。ブリード教の役割など、改めて考えてみたこともない。ただ当たり前のように身の回りにあって、生活に根付いたものでしかない。魔法も同じだ。
話が見えず戸惑うフローレインへ、ノヴァリスはまた話を続けた。
「病を患うことを、私たちは呪いを受けたと言うことがあります。聞いたことはある?」
フローレインは「あります」と答えた後、少し心許なく呟く。
「……どうしてそう言うのか、考えたことはありませんが」
「ええ。本来それは、私たちが隠しておかなければならない秘密に纏わることで、皆が語ることがあってはならない言葉ではあるのですが――広く伝わり、除くことはできませんでした」
子供の頃、ユージオの母親を陰で嘲笑する同級生が何人かいて、彼らが言っていた。異端だから、呪いを受けて亡くなったのだと。それ以外にも、身近な大人たちが日常的に使っていたから、病気になることなのだという意味はフローレインも理解していた。
だが、秘密に纏わることというのはよく分からない。
「ブリード教に関わる言葉なのですか」
「間接的にはそう。……その呼び方には理由があるの」
そう言ってノヴァリスは立ち上がり、隣接する小部屋の中から本を持って戻ってきた。
皮革の本で、題名は見えない。長椅子に戻り、ノヴァリスはその本を膝上に置いた。
「――これは、礼拝堂にも置かれている禁書です。この中にその理由が書かれている」
フローレインは形容しがたい表情で尋ねた。
「禁書とは……私が見ても問題ないのでしょうか」
「聖宮に属した以上、いずれ必ず読むことになるわ。古語だから私が訳しながら説明することになるでしょうけど」
馬鹿な質問をしてしまったなと後悔しながらも、嘲笑が返ってこないことにほっとした。
ノヴァリスは皮革の装丁を撫でる。
「経典には書かれていない、この禁書に記された秘密です。神がいれば、悪魔がいる。私たちの目には見えない仕組みが確かにこの世には存在する。……悪魔と呼んではいるけれど、本当に姿があるかはわからない。ただ、便宜上の名前です」
「便宜上の名前……姿がない? でも存在する?」
ノヴァリスは「ええ」と頷いた。
フローレインはまだ話が呑み込めず、ノヴァリスの言葉を頭の中で反芻する。
悪魔と言われると、フローレインは実在しない異形の生き物を想像する。それを示唆する悪口でもある。
経典の内容は、聖宮に入る前に礼拝堂で何度も復習した。その中に悪魔という言葉は出てこなかったはずだし、フローレインの想像する悪魔というのは禍々しい姿だ。ノヴァリスの言う、姿がないという悪魔となかなか結びつかない。
「その、分かっていなくてすみません。その……今仰っている悪魔というのは、どういうものですか。何をする……のですか?」
「魔法の根源に関わるもの。概念です」
概念、とフローレインは繰り返す。
「私たちは神様から魔法の力を授かっている。それは世界を豊かにするため、神の代行という役割を人間が与えられているから。――そう教えられて育ったことでしょう」
「はい」
「でもそれは偽り」
「……偽り……」
子供のころから、ずっとそう教えられてきた。
神に似た姿を持つ人間に、最高神アスラが授けた特別な力なのだと。人間はその力で自然を守り、自然と共に生きていかなければならないのだと。――生まれてから今の今まで、皆に言われてきたことだ。
それが嘘だなど、驚くような話だった。しかし、フローレインは不思議と腑に落ちた。
ふと思い出す記憶がある。まだ中等部に在籍していた頃だ。ユージオがそれに対する疑念を口にしていた。
だからだろう。心の底から信じていたはずなのに、どこかに引っ掛かっていたのは。
『そもそもどうして人間だけなのかと、礼拝堂で説教を聞くたびに考える。数多の生き物がいる中で、人だけがどう違う。言葉を使う? 知恵がある? ――それじゃ納得がいかない』
それが嘘だというなら、理由はなぜなのか。
フローレインは尋ねた。
「――魔法とは、何ですか」
今になるまで、深く考えることはなかった。ユージオやクランカイトは疑問を持っていたようだったが、話を聞いてもフローレインの理解は追い付かなかったし、難しい話で片付けていた。だが、それが今になってようやく身に迫ってくる。
ノヴァリスは「魔法とは」と眉をひそめる。
「私欲のままにこの世の法則を捻じ曲げる悪魔の力」
「悪魔の力……」
ひどく忌まわしい響きだと感じたのは――きっと気のせいではないのだろう。
先ほど悪魔は存在しているか分からないと言っていた。ならばその力というものは、同じく概念の話になるのだろうか。だが、実際魔法は存在している。
怪訝な顔のフローレインにノヴァリスは続けた。
「天則を歪めて私たちは欲望を叶える。そしてその代償に、呪いがこの世に生まれている。目には見えないけれど、確かに存在しています」
「呪い?」
「ええ。私たち聖職者が語る悪魔とは概念であり仕組みであって、存在を指すものではありません。人間の我欲を利用して災いを招く、人間ありきの存在」
ユージオがいつかに話していた。魔法は異常なのだと。人間にとって都合がよすぎる、無から有を生み出すのに代償がないのはおかしいと。その懸念は決して杞憂ではなかったのだ。
神の力などではなく、人間が悪魔の力を利用して天則を歪め、何か代償を支払っている――そういう話だ。
「これが、魔法の真実。だからこそ魔法は人間のみが使うことができるのです」
「なぜ……偽りを広めてきたのです」
「……争いを避けるためです」
ノヴァリスは苦しげに顔を歪めた。
「呪いというのもまた、形がありません。目に見えるものでもない。ただそれは、天則を捻じ曲げた歪みが生む、禍の種のことを指します」
「魔法の代償……ですね」
「ええ」
私欲のままに魔法を使い、天則を捻じ曲げて、代償が発生する。それがノヴァリスの言う呪いだ。
「病のことを『呪いを受けた』と呼ぶのは、古い疫病に起因して根付いたものなのでしょう。呪いというのは本来もっと大きな災いを指しますから、病そのものが呪いであるというのは誤解ではあるのですが」
「疫病?」
「呪いが重なれば、世は乱れる。天災が起こり、水や木々が枯れ、動物が絶えていく。病は広がり人心が荒れる。目に見えない形で、確かに世界を禍が侵していく。魔法を使えば使うほどに呪いを生み出し、私たちはこの世を壊していく。天則を犯し続ける罰を――人間は受けるのです」
「それは……」
矛盾しているような気がする。
今、このガレシアは魔法の力で発展し、豊かさを享受している。ノヴァリスの言う禍など知らない。けれどたった今、代償が発生するのだと言ったばかりだ。
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