或る軍人の追憶 3

© 2019 sasori_bi
 夜の内に船が来ることはない。
 夜の海は真っ暗だ。どこまで行っても建物がなく、したがって当たり前のこと街灯の灯り一つない。灯りをともしながら近付いて来れば、遠目にもすぐに船の位置がわかる。消してしまえば自分がどこに進んでいるか、どこに敵の船がいるか、味方の船がどれかもろくにわからない状態だ。奇襲にもなるが、それ以上に遥かに危険が多く、その危険を冒してやってくることは稀だ。

 満月が出ていれば、海と夜空の境目のないひたすらに濃藍の世界だ。波が穏やかなら、甲板の上で静かな時間が過ごせた。

 海に月の白い光が反射して揺れるのを、ただ何とはなしにじっと眺めていた。命を脅かされるこの場所での、ごく希少な憩いの時間だった。
 戦闘時の帆船でなく、寝起きする場所として許された補給船の上で、少年はぬるい麦酒を喉に流し込む。

 合わない魔力を無理やり身体に流し込んだせいだろう。昼間の戦闘の後、敵船の撤退を確認した少年は、真っ先に船から身を乗り出し嘔吐した。今はもうずいぶん楽だが、あれからしばらく船の揺れすら疎ましく感じるようなめまいがあった。
 それも含めて慣れたことだ。
 中には自分と近い魔力の者もいて、そういう人間相手の時には、ここまでひどい反作用が起こらない。だが、相手を選んでいられる状況でないのも事実で、異質な他人の気配が自分の中に混じる不快も、合わない魔力を無理やり魔法に変換する無茶も、その後のひどい反作用も、必要と判断すれば迷わずそれを選択した。

 例の少女は補給船の一室に籠ったまま出てこない。人が死ぬのを見るのも、死ぬかも知れない恐怖を味わったのも初めてだっただろう。初めて魔法兵として戦場を経験した子供にはよくあることだ。
 誰も慰めなかったし、他の誰でも同じことだ。監督役としての『ヘイムダル』の海軍は、子供たちの親でも何でもなければ、仲間ですらなかった。
 売買された命の金額さえ、火砲一つを下るかも知れない。そんな使い捨ての魔法兵の子供に一人ずつ目を配るような酔狂がいるはずもない。名前すらないのがその証だ。
 ただ、長くなれば相応の面識はできてくる。

 夜風を浴びに来た軍人が、酔いに赤らんだ顔で上機嫌に声を掛けてくる。

「シャクラ」

 少年はその呼び掛けに顔を上げた。

 自分の名前ではない。だが、自分を識別する名称ではある。
 魔法兵が乗るぼろ船の一艘、『シャクラ』に振り分けられた八人目の魔法兵。正しくは『シャクラ捌号』が識別名だったが、一から七がいなくなり、そのうち『シャクラ』に乗るやたら運のいい生き残りとして海軍たちに顔を覚えられ、捌号を省略して船の名前で呼ばれるようになった。そのために、実質それが少年の名前のようになった。
 少年は素気無い態度で酔っぱらいの海軍を見上げる。

「何か」
「お前な、返り血まみれじゃねえか……流すぐらいしたらどうだ」
「海水で流したところで、何の意味があるんだ」
「幽霊みたいで薄気味悪いんだよ」

 甲板の柵に凭れて、軍人が溜め息を吐く。何しろ死人が多く出る海だ、幽霊話の怪談には事欠かない。乗組員の中には幽霊を見た恐怖で職を辞した者までいるという。
 少年は眉一つ動かさず、黒ずんだ血に塗れた自分の姿を見下ろす。

「まったく、肝が据わってるからかね。勝った人数が多すぎて、大した儲けにならない」
「何の話だ」
「今日はシャクラの捌号が生き残るか、否か」

 賭けの対象になっていたらしい。死ぬ方に掛ける人間が少なく、勝っても掛け金に色が付いた程度だったのだろう。娯楽の少ない船の上で、少年の生死は軍人たちの娯楽になったらしい。
 隣に腰を下ろした、麦酒くさい呼気の海軍の言葉に、少年は眉をひそめる。
 その凍てつくような表情に、さすがにまずいと思ったか。軍人はばつが悪い顔をして言い訳めいた言葉を続けた。

「悪かった、そんな顔をするな。俺たちも別に、賭け事などにお前らの命を軽々しく使おうなどというつもりはなくてだな、その……」

 しどろもどろの反応に、少年は嘆息する。

「本当ここは、まともな飯ぐらいしかいいとこがない。乗組員も含めて」
「クソガキめ」
「どっちがクソだ」
「……違いねえなあ」

 軍人は否定せず一つ溜め息を吐いた。自覚があるだけマシとは思うが、結局その程度の扱いであることは同じだ。
 だが、そう思っていると、軍人は急に形容しがたい表情で、口ごもりながら首を横に振った。

「いや、俺が言いたかったのはそういうことじゃなく、だな……その」

 奇妙な反応に、少年は眉をひそめる。てっきり軽口の一つでも返ってくるかと思ったが、そうではなく、困ったような顔で頬を掻きながら。

「出世の話だ」
「は?」

 少年が軍人を見上げる。何かの悪い冗談かと思ったが、どうもそうではないらしい。
 思いがけず真剣な眼差しと目が合って、少年は困惑しながら次の言葉を待った。

「まだ内示段階だが、もう半月ほどで一度陸に戻る。そうしたらお前は魔法兵でなく、正式に海軍に登録される。ガレシアの国籍もな」
「……出世? 俺が?」
「おめでとう」

 いつ冗談だと茶化されるのかと備えていたのに、しばらく待ってもその言葉が来ることはない。
 聞いたことはある。中には魔法兵としての働きを認められてガレシア軍になった人間もいると。だが、そんなものは今の生活から逃げ出したい、子供たちの理想でできた与太話だろうと思っていた。
 だが、軍人の顔は、少年の鈍い反応に怪訝そうだった。

「まさか知らないってことはないだろ? 喜べよ。まったく待遇が違うぞ?」

 思っていた反応と違ったのだろう。顔を覗き込まれて、少年は鬱陶しいという反応を示す。

「軍人になりたいわけじゃないし」
「そういうこと言うかねお前は。推薦の甲斐がねえよ」
「……そう言われても」

 今よりいい生活ができるのかも知れない。けれど、人並みの生活というものをそもそも知らない。だから、喜びなどよりも、何か面倒くさいことでもあるのではないかと憂鬱な気持ちになった。
 だが、ようやく軍人の言葉が嘘や冗談の類でないとわかる頃には、ぽんと手を頭に乗せられた。

「それまでに少しは敬語を使えるようにしておけよ」

 ひらひらとそのまま手を振って立ち去ろうとする。
 その後ろ姿を振り返り、少年は何とはなしに問いを掛けた。

「陸に戻ったら、真水に浸かるぐらいはできんのか」

 特に期待して投げた問いではない。ただ単に、どうせ海水で流してもべたべたで不快なだけだし、真水で流したいものだと思っただけだ。
 だが、意外にもその質問が茶化されることはなかった。軍人はしたりという顔で笑って見せた。

「真水どころか、たっぷりの湯に頭からつま先まで浸かれるってもんだ」
「それは……」

 少年はふと言葉を切って、口を噤む。嬉しくないという態度や反応をしていたが、投げられた返答を聞いて考えはわずかに変わる。
 少し悪くないと思った。
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