或る軍人の追憶 4

© 2019 sasori_bi
 そんな、上陸を間近に控えたある日だった。

 天気のいい日だった。空が一面青白く見える快晴で、上からの太陽と、水の反射に照らされて、船の上にいると汗が滲んだ。
 波は僅かに荒く、船が絶えず不規則に上下していた。船酔いはもうずいぶん前に通り過ぎて、ときおり船に被る水を掻き出す以外は平和だった。――双眼鏡を覗いた乗組員が大声で何事か叫び、警鐘を鳴らし出すまでは。

 その日、一隻の船がやってきた。

 『シャクラ』の名前を冠する小さな帆船に揺られながら、少年は遠くに浮かぶその船の姿を眺めた。
 五日ぶりの敵船の来訪に、空気はひりつく。慌ただしく錨を上げて一斉に船が動き出した。

 相手の船は一隻だけだった。
 遠目に砲台が見えているが、他に船影はない。一隻だけで一体何をしに来たのかと怪訝に思いながら、少年は『ヘイムダル』の動きを待った。

 火砲の射程範囲に入る前にときおり、威嚇として一発だけ空砲を打つことがある。相手が敵船か、それとも漁船かの区別が難しい時などだ。
 今日は相手の船が何なのか、判断が付かなかったのだろう。一隻だけで何ができるとも思えない。少年もそう思って、正体不明の船にじっと目を凝らす。

 空砲が鳴り響いた。轟音を轟かせ、びりびりと空気が震えた。
 それはたった一度だけで、立て続けに砲火が続くことはなかった。

「……妙だ」

 少年は呟いて首を捻る。

 波の音だけが続く。例の船は威嚇に怯むことなくさらにゆっくりと近づいてくる。火砲の射程内に入っても躊躇する素振りはない。今まで見たことのない行動だった。

 『ヘイムダル』の乗組員が警戒態勢に入った。
 今度は威嚇の空砲ではなかった。

 轟音と共に放たれる鉛玉は、敵船のそばに落ちて大きく水柱が上がった。波を受けて例の船が大きく揺れる。だが、それでも引き返していく素振りはない。
 ガレシアの船は臨戦態勢に変わる。少年も怪訝な顔をしながら帆を畳んで戦闘の準備を始めた。警告を無視して国境を越えてくるなら敵と見なすのにやむを得ない。

 だが、少年は目を凝らし、その正体不明の船を眺めて、そして息を呑んだ。

 ――まずい相手が来てしまったと思った。

 少年の目に、禍々しく大きな波が映っている。

 決して海の波に反射した日の光などではない。例の一隻だけの船を中心にして、ゆっくりと渦巻くような光の粒子の波だ。その正体を少年は嫌と言うほど知っていた。
 生きるか死ぬかの境目に長く居座ったせいだろうか。あるいは、必要に迫られたためか。
 明らかに格上の戦力を持つ相手に挑んで、敵うことはない。それを見極めるために神経を研ぎ澄ませてきた、その結果だろう。

 少年の目には魔力の流れがぼんやりと見えるようになっていた。

 ある時は白い光の波のようで、ある時は禍々しい赤黒い光の閃光でもある。色や波の間隔がそれぞれ違う。触れられる現実のものと入り混じって、そんな風に少年の目には人の持つ魔力が見えていた。
 自分の魔力と似ている形、似ている波長もある。だが、違うものが大半だ。波の広がりの大小や、流れ方、色や光の強弱。それらは個人でずいぶん違っていて、完全に同じものというのは見た記憶がない。人の顔かたちと同じように、魔力もまた人によって異なっているのだろう。

 他の魔法兵に聞いてみたところ、そんなものは見えないという。おそらく個人差があるのだろう。もともとの素質や、嫌が応にもそれを必要とした環境。そういうものが作用した結果なのではないか。後になってみればそう思うが、その時はあまり深く考えなかった。考えなくとも見えているのだから、否定しようがない。

 その船は、桁違いだった。
 遠目にもわかるほどの強大な魔力の波が渦巻いていた。

 憔悴しながら母船を振り返るが、乗組員たちはその敵兵力を取るに足りないものと見なしたようだ。戦闘態勢に入ってはいるものの、いまいち緊迫感がない。一隻程度、すぐに終わる戦いだと思っているようで、船の上を行き交う歩調もどこか緩慢だ。

 ――勝てないと、直感的に思った。こんなことは初めてだった。

 だが、母船に訴えたところで何を馬鹿なことをと一笑に付されるのが関の山なのではないか。そうも思った。魔力が見えているなどと、世迷言かと笑われるのではないか。そして、その限りなく可能性の高い予想が、少年の行動を制限した。

 意味のない訴えを、敢えてする意味があるのだろうか。
 ないのではないか。そんな無力感に、どうしても投げ出したような考えは起こる。そんな逡巡に絡み付かれて、身動きが取れなくなっていた。

 迷いの中にある内、『ヘイムダル』は敵船に向けて鉛玉を撃ち放つ。
 立て続けに数発。高く水柱が上がる。中には一、二発ほど掠ったかも知れないが、直撃はしなかった。距離が遠いせいだろう。

 どうするのかとつぶさに相手の様子を見ていると、敵船上空に魔法陣が構築されていく。

 魔力の波が集まって、収束する。見たことのない巨大な魔法陣だった。おそらく船一隻の全長を優に上回っただろう。視界を埋め尽くす魔法陣の光に、一瞬何が起きたのかわからなかった。
 目にしただけで畏怖し、絶望の淵から突き落とされるような思いになる。そしてそれは、その場にいた者すべてに共通することでもあっただろう。

 真っ先に我に返った少年は、慌てて船の上に魔法陣の防御壁を作り出す。

「ッ防御陣――――」

 稲光のような閃光が空を一面埋めた。
 直後、轟音と衝撃が襲う。火砲の雨でさえ悠長に感じるほどの、凄まじい魔法だった。雷のような光の十や二十が一度に降り注ぎ、轟音を上げながら立て続けに水面を貫いていく。

 よほどの高温だったのか、水柱と共に水蒸気が広がる。一面に白く霧のように掛かり、ほとんど視界が利かない。敵船の姿が完全に霧の中に消えていた。
 運悪く直撃していれば、原型どころか肉片一つ残していなかったことだろう。水柱に突き上げられ、あるいは高波に覆われ、何艘か船が転覆していたようだった。

 帆船『シャクラ』も大きく揺れる。防御の魔法は意味を成さなかった。襲い来る攻撃の数も、そのたび間欠泉のように噴き上がる海水も、人一人の魔法などひどく矮小なものに感じられるほどに、すべてが天災のように激しく。

 ――神の怒りがあるのなら、きっとこんなふうなのだろう。

 信仰とは無縁の少年ですらそう思うほど、その景色はあまりに苛烈だった。

 光の矢は降り止まない。どれほどもう止んでくれと願っても、絶望し、戦う気力など根こそぎ奪われて、船にしがみ付くだけであっても。白い霧の中で、何度となく無情に白く光が閃き、轟音と衝撃が走る。
 水蒸気の霧の中で薄ぼんやりと、母船『ヘイムダル』の影が見えていた。その巨体は水柱に重心を奪われ、軋むような不気味な音を立てながら、ゆっくりと不自然に傾いていく。そしてそれは、もはや立て直すことなど不可能なほどに、深く歪にその船体を傾げて。

 沈むのだ。そう思った瞬間だった。

 突然全身に衝撃が襲い、息ができなくなった。

 ――何が起こったのかわからなかった。
 視界が暗転し、もがいても身体は自由にならない。どころか強く押し潰すような圧力が掛かり、四肢が引き千切られそうだった。ごぼりと喉に塩辛い何かが流れ込んできて、どれだけもがいても呼吸ができない。
 空気のない闇の中に放り出されたようだった。

 海に投げ出された。そのことに気付く間もなく、深く海の中に引きずり込まれ――
 そのまま少年の意識は途絶えた。







「――――……で……」

 ふと、人の声が聞こえたことで、朧気に意識は覚醒する。
 だが、真っ先に取り戻したのは、頭の中心を貫くように走る全身の激痛と、喉の奥に染みる不快な塩辛さだった。

 瞼が重くて持ち上がらない。わずかに取り戻したほんのわずかな五感は、ほとんどが痛みに占められて、そばに誰がいるのか、何の会話をしているのかなどは、考えることさえしなかった。

「――すから、彼は――――で、その詳細を――」
「だからそれは――――――。何度も――――。――だと」
「それでは軍紀が――」
「――――――だと言って――――」

 激痛から逃れるように、意識はふつりと途絶えた。誰が何を話しているかなどどうでもよかった。確かめようにも身体が動かない。瞼が重くて開けない。全身が鉛か何かになったかのようだ。

 そこからどれほど時間が経ったのかはわからない。すとんとその間だけ時間が切り取られたように、少年は眠りに落ちていた。

 どれだけ時間が経ったのか、再び痛みで意識が覚醒した。ちくちくと全身に針が刺すような痛みだ。だが、今度は腕がどうにか動いた。
 ぎこちなく軋む腕で、開かない瞼を擦った。貼り付いたように持ち上がらない瞼を何度も擦り、ようやく僅かに目が開いた。だが、焦点が合わない。白く濁った視界は、薄ぼんやりと膜が被っているかのようだった。

 瞬きするごとに、ゆっくりと膜は剥がれ落ちて、視界が明朗になっていく。白く光が目に差し込んできた。
 だが、その景色を確認するより先に、聴覚は誰かの声を拾い上げる。

「――起きたか」

 不思議と耳に馴染んだ声が聞こえた。知らないはずの声なのに、初めて聴いたと思えなかった。――いや、仮に知っていた声だとしても、ろくに働いていない思考の中では、とてもそうとはわからなかっただろうが。
 少年はぎこちなく身体を動かして、引き寄せられるように声の方へと顔を向ける。相変わらず視界はうっすらとぼやけている。映るものすべての輪郭が曖昧で、区別がつかない。
 けれど、一つだけはっきりわかったものがある。

 ――夜の海の色。

 目を覚ました少年の目に一番初めに映ったものは、船の上で見た景色に似た、濃藍の鮮やかさだけだった。
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