或る軍人の追憶 5

© 2019 sasori_bi
「飲み物と湯を持ってくる」

 まだはっきりとしない意識の中、声の主はそう言い放って立ち去った。
 何を言ったのか、まだよく理解していなかった。だが、自分の身体が動かない危機感に迫られて、焦りがじりじりと湧き上がってくる。動かなければいけない。視界を広げて、状況を確認して、今の場所が安全かどうか確かめなければならない。他のことはその後だ。

 少年は軋む身体で無理やり寝返りを打った。身体は重いが、かろうじて動く。気を緩めれば閉じる瞼をどうにか抉じ開け、室内を把握するために視線を巡らせる。
 白が基調の美しい設え。窓を見れば、位置が高い。二階か、それ以上か。逃げるには不便だ――ととっさに思い、次に武器になりそうなものを探し始める。

 寝台のそばには水差しと小さな器。真新しい花が活けてあった。
 なぜかそれが目に入った瞬間、違和感に首を捻りたくなった。なぜそれが引っ掛かったのか、少年自身わからない。だが、その花を見た途端、奇妙だと感じて――だが、状況がそれ以上深く考えさせなかった。

 早く何か身を守るものを。そう周囲に視線を巡らせ、結局見つからず、寝台の傍の引き出しを開けてみようと思い至った。
 石膏か何かを不自然に取り付けたかのように重々しい手足を引き摺って、身体を起こす。
 どうにか寝台の上の方に座り、引き出しに手を伸ばす。だが、その取っ手に指先が触れる前に、扉が開く音を聞き取った。

「!」

 振り返れば、男性が立っていた。
 夜の海の色をした、長い髪。思いのほか若かった。二十代に届くかどうか――そのぐらいの年頃ではないだろうか。ゆったりとした衣服に身を包んではいるが、庶民や浮浪民の類でないことが一目でわかった。
 彼は少年を見て怪訝そうに首を傾げる。

「何か欲しいのか」
「……ぁ……」

 部屋を突っ切って寝台の傍に来ると、持ってきたものを背の低い棚の上に置く。
 寝台の傍の椅子に掛けると、少年の手に水の入った器を握らせてきた。触れるとじんわりと温かい。器の中の透き通った液体を見て、喉の奥のざらざらとした不快感を思い出す。思わず喉がごくりと鳴った。

 ――飲んでもいいものか、否か。何も入っていないとどう確かめるべきか。

「何が欲しい」
「……いや」

 発した言葉は声にならなかった。
 喉がかさかさに乾いて、とても声が出る状態ではなかった。そのことに気付き、同時に強烈な喉の渇きで眩暈がしそうだった。

 青年はそうか、と短く答える。

「生き長らえただけ奇跡みたいなもんだ。大人しく休んだ方がいい」

 警戒心を緩めないまま、注意深く少年は相手の青年の挙動を観察する。彼は少年に対して少しも疑いを持っている様子はなく、寛いだ様子で椅子に掛けて、引き出しの中を確かめている。彼が開けた引き出しの中をちらりと横目で窺うと、清潔そうな白い布が綺麗に畳まれて並んでいた。

「飲み物をと思ったんだが、弱った身体だ。まず白湯からだと厨房の者に言われてきた。飲むといい」

 だが、それでも口を付けない少年の態度をどう思ったか。
 青年は小さく息を吐く。蒼い瞳を伏せて、次に少年の目を覗き込んできた。

「……荒んだ生活を送ってきた子供に、急にこれを強いるのは難しいとは思うが、多少の時間はやる。速やかに覚えろ。この国では基本的に命を脅かす者がいなければ、初対面の相手、それも子供に、毒入りの飲み物を出すような風習もない」

 少年の手から器を奪うと、迷いなく口を付けて嚥下する。一口飲み、その器の液体に何も入っていないことを明らかにすると、その器を再び少年の手に握らせてきた。

 青年はにべもなく強く言葉を重ねる。

「ただの白湯だ。飢えて死ぬつもりがないなら飲め」

 限界だった。

 喉の渇きに促されるように、少年は器を口に運ぶ。暖かい白湯が一気に流れ込んできて、激しい渇きが癒える。
 飲み込むよりも多かった白湯の量に噎せながらも、少年は器の中の白湯を貪るように飲み下す。あまりに夢中で、半分ほどが零れたことも気に留めなかった。

 一息吐くと、少し意識が冴えてくる。青年は空になった器におかわりの白湯を注ぎ、盥に手ぬぐいを浸す。

「無駄なことで神経をすり減らして、回復を遅らせることはない」

 湯で濡らして絞った手ぬぐいで、ぎこちなく顔を拭われる。不慣れな手つきだが、清潔な布と、海水ではなくお湯で顔を拭われれば、さっぱりとして快い。
 喉を潤して、ようやく声が出るようになった。少年は遠慮がちに問いを掛ける。

「あんたは……何だ」
「海岸に打ち上がっていたお前を拾った。ちなみにここはガレシアの辺境とでも言うのか」

 注がれた白湯を舐めながら、少年は僅かに眉を潜めた。

 海岸に。――海。その単語を聞いた瞬間、頭の中に海での戦いの日々が閃いた。
 そうだ。自分はガレシアの魔法兵で、大陸からの軍艦と戦う日々を送っていた。

 だが、ここはどうも船の上ではないようだ。波の音もしなければ、不規則な揺れもない。少年は再び部屋の中を見回して、そのことに今さらながら驚いた。

「先日、海軍艦『ヘイムダル』が沈んだのは聞いたし、おおかたそこの魔法兵の生き残りと踏んで、海軍に問い合わせてみたが、管理がずさんなのか名前も所属もわからなかった。そのくせ軍紀だから身柄を渡せの一点張りで話にならないもんで追い返した。……兵士の扱いが知れる」
「沈んだ……」

 海軍艦『ヘイムダル』。その名前を聞いて、意識を失う直前の出来事をぽつりぽつりと思い出す。
 そう、あの大きなガレオン船が傾いて、沈むのだと思った。途方に暮れながら自分はそれを見ていた。だが、完全に沈む光景を見る前に、自分は黒い闇の中に引きずり込まれて――

 海に溺れたのだ。そうようやく気付いた。

「そうだ、あの敵船……。俺は」

 とんでもない魔力の魔法使いが乗っていた。
 たった一隻だけで何ができるのかと高をくくっていた軍人たちも、雷のような光を受けて慄いたことだろう。そしてそれは、自分も同じだった。
 あの降り注ぐ白い光を思い返し、少年は僅かに身震いする。あまりに強大なものを前に、なすすべもない無力さと絶望感が胸を支配する。あれを思い出すと、無意識に身体が強張って、息が詰まる。

「――名前は?」

 急に問われ、少年は顔を上げた。青年は蒼い瞳でじっと少年の顔を眺めている。その視線には敵意の類の、不穏なものは感じ取れない。
 名前。名前などそもそもない。物心ついた時にはすでに隊商にいて、大勢いるただの子供の一人でしかなかった。魔法兵であった間も同じで、名前と言えるようなものといえば、一つしか思い当たらない。

「『シャクラ捌号』」
「識別名だな。名前ですらない」

 だが、これで所属はわかりそうだと、青年は頬杖を突いて呟く。

 その言葉を聞いて、また海での日々に戻るのかと、少年はなぜか落胆したような思いだった。
 あの戦いの前に、自分は正式にガレシア軍になるのだという話を受けていたが、それを言った人間もおそらくあの時に沈んだだろう。正式に決まった話だったのかどうかもわからない。今となっては軍艦が沈んだ騒ぎでうやむやにでもなったのではないだろうか。また自分は魔法兵に戻って、戦場の最前線で生死も定まらない日々を送ることになるのだろうか。

「……なぜ拾った」

 半端に慈悲を掛けて、また生き地獄に戻ることになるのなら、いっそ意識がないうちに死んでしまった方がよかった。そんな悲観的な思いになるほどに、あの日々を――おそらく恐れているのだろう。どれほど恐ろしく、おぞましく、嫌でたまらなくても、他に行けるところなどない。だからあそこにいるしかなかった。けれど、この上あの生き地獄が続くというのならば、とても耐えられそうにない。
 俯く少年の耳に、彼の答えが返ってくる。

「お前の知る範囲はどうだか知らないけど、俺の領地はあいにく子供が死にかけて倒れているような治安の悪い場所じゃないからな」
「俺の――」
「見かねて拾ってきたってのは、理由になるか」

 少年は薄く笑う。

「貴族か」

 お偉い貴族様が、気まぐれに慈悲を掛けたつもりで、また地獄のような劣悪な環境に追い遣るのか。そう思った。
 不自由な船の上で敵船に怯えながら、使い捨てのような命で戦わなければいけないみじめさを、知りもしないくせに。何不自由なくすべてを持っていて、恐ろしい思いをすることなく優雅に着飾って贅沢をしているような人間が。救ったつもりで余計なことをするものだと。
 皮肉げな呟きをどう取ったか。青年は顔色を変えずに節くれだった指を三本、少年に見えるように掲げる。

「他の質問は後だ。ひとまずお前の選択肢を三つ、説明しておく」

 青年は少年の反応などいちいち取り上げることはしない。

「一つは軍属の魔法兵に戻って戦場で戦うか。今までの生活に戻るだけだな。ただ、お前のいた『ヘイムダル』の部隊はほぼ壊滅。魔法兵の配置は海の上でなく陸に変わるだろうが、魔法兵であることには変わりない」

 船が沈んだことを、今さらながら少年はまざまざと思い知る。愛着などはなかった。恨みかというと、よくわからない。ただ、自分を『シャクラ』と呼んで、見込んで推薦してくれた海軍の男たちが死んだと思うと、なんとも言えない気持ちだった。

 青年は一つ指を折る。

「一つはガレシアの礼拝堂に行くか。子供を保護している場所で、孤児が大半だ。成人するまで三食食えて学校に通うぐらいはできるだろう。お前のような戦場の出身で馴染むのは難しいかも知れないが」

 子供に囲まれて生活するのは、隊商時代で慣れているはずだった。だが、青年はそう思わなかったらしい。後から思えば、平和なガレシアの国だ。やはり平和に暮らしていた子供たちに囲まれ、急に安穏とした生活に放り込まれれば、青年の言う通りきっと馴染めなかっただろうが。

「もう一つは」

 尋ねると、青年はまた一つ指を折る。

「ここに残ってガレシアの国民になる」

 少年は怪訝な顔をした。

「……礼拝堂と何が違う」
「時間をやるから自分で確かめろ」

 選べと迫るわりには投げ出したような返答に、少年は訝るよりも苛立ちを覚えた。他人事だと思って、人生を左右するような選択を適当に迫るようなふざけた人間だ。貴族というのはこうも傲慢なものなのだろうかと。
 何不自由なく育って、孤児の魔法兵一人の人生など簡単に振り回すことができる人間。そうに違いないと思った。

「……時間、な」
「静養しながらひと月ほど考えて、結論を聞く。決まらなければしばらくここに残る」

 理解したかと問われ、少年は曖昧に頷いた。とりあえず考える時間が与えられるようだ。その間どんな扱いを受けるかわかったものではないが、今までと比べて特別ひどくなければ、大抵のことは耐えられるだろう。

 ――夜の海の色の髪。深く濃い藍色。

 あの穏やかな夜の海を思い出させるその色は、何故かいくらか少年の警戒を緩めた。
 青年はやはり、ずいぶん若かった。まだ二十歳にも届かないのではないだろうか。未だ彼の素性を測りかねていると、彼は蒼い瞳をふと細めた。

「イージアスだ。とりあえずそう呼べ」

 長ければジオでいい、と。

 穏やかな声はやはり、潮騒のように耳に心地よく。
 気が緩んで、重く圧し掛かってくる瞼を抉じ開ける気力もなく、少年はそのまま再び眠りに落ちた。
© 2019 sasori_bi

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