或る軍人の追憶 6

© 2019 sasori_bi
 シャクラの大陸風の発音で、仮にサクラとの名前が与えられた。
 ほどなくして体力は戻り、屋敷の中を歩けるほどに回復した。そうして真っ先に経験したのは、透き通るたっぷりの湯に頭まで浸かれる贅沢だった。

(――これは)

 本当に悪くないものだと、サクラは天にも昇るような心地で思った。

 意識がない間、身体は拭われていたようだが、近頃は海水で身体を洗った記憶しかない。べたついて不快なものだったが、それ以前も川に入って水浴びをするぐらいだったので、それほど大差ない。それでも身体を洗わないよりはマシだったが、お湯の風呂はそんなものとはまるで比べ物にならなかった。
 だが、これが自分の力で手に入れたものではないことに関しては、少しばかり卑屈な思いになる。

 結局、素性がわかった後でも魔法兵の管理の記録などはなく、仮にあったとしても『ヘイムダル』と共に沈んで、今もサクラが本当に魔法兵に属していたという記録は見つからないままだ。当然のこと、軍への登録などという話も立ち消えて、仮に魔法兵に戻ったとしてもまた一からやり直しになるだろうと説明された。これはイージアスの説明でも、やってきた軍人の説明でも大きくは違わなかった。端からそれほど大きな期待をしていたわけでなかったが、その話を聞いて多少なりとも落胆しなかったといえば嘘だ。

 虚脱感と言うべきか。戦いの日々から離れて、何もすることがなくなって。ただ考える時間だけが与えられた。

 湯が冷める前に抜け出て、清潔な服を身につける。着丈を測る時に、骨の浮き出た、傷跡だらけの身体に溜め息を吐くイージアスがやけに印象的だった。けれど、なぜその表情が気になったのかは自分でもわからない。

 屋敷の中を歩いて、そこらを飾りたてる高価な調度品にいちいち冷ややかな思いになりながら、サクラはイージアスのいる書斎に戻った。
 長い髪を緩く一つに括っている。身につけているのも薄手のシャツで、袖まで捲り、本当に貴族かどうか疑わしい身なりをしている。
 彼は読み掛けの本を閉じると、サクラの姿を見て椅子から立った。

「……髪はちゃんと拭いて出てこい」

 そう言って近づいてくると、サクラの髪をぐしゃぐしゃと乱暴に拭いてくる。驚き半分と、鬱陶しさ半分でその腕を払い除けると、イージアスの青い瞳と目が合った。
 落ち着いた雰囲気は大人と紛うほどなのに、目が合うと思いのほか若いその顔立ちに飽きもせず戸惑う。気を取り直すように一つ息を吐き、サクラはイージアスの手から逃れて端的に問う。

「気になることがある」

 イージアスは特に顔色を変えることなく、書斎の机の方を指した。

「昼餉と一緒でいいか」

 大きな編み篭が置かれている。
 一言口にしてすぐ踵を返して、先ほど掛けていた椅子に再び腰を下ろす。イージアスに続いてサクラも向かいの椅子に掛けると、篭の中から取り出した軽食を差し出された。
 香草の香りが利いた、肉や野菜の具材を、薄焼きの小麦の皮が包んでいる。焼き目がついていてまだ温かい。金持ちの昼餉にしてはずいぶん簡素な中身だ。そんなことを思いながら受け取って、苛立ちと共に噛り付く。
 そうしてすぐに、腹を立てたことなど頭の中から消えた。

「……うまい……」

 思わずというような呟きが漏れた。
 向かいのイージアスが微かに笑みを浮かべる。まるで料理人の腕を誇るかのような笑みだった。

「食い過ぎるなよ。うまかろうが、病み上がりの胃に向いたもんじゃないからな」
「………………」
「聞きゃあがらねえ」

 そうイージアスが呆れるほど、サクラは夢中で軽食を口に押し込んでいた。
 真新しい野菜に、肉の甘い脂が絡んでいる。薄く重ねた皮の香ばしさも、くどくない香辛料や香草の味も、止まらないほど美味だった。腹が膨れればいいだけの食事とはかけ離れている。イージアスへの不信も忘れて、夢中で頬張った。

 イージアスもずいぶん不慣れな様子もなくその軽食を紙で包み、端から噛り付く。その姿に、ガレシアの軍人たちが歓談しながら食事している姿が重なった。それほどにイージアスは気取った態度とはかけ離れていた。

 すっかり平らげて、差し出された飲み物を口にして落ち着いた頃に、ようやくサクラは気まずい思いで本題に入った。

「ガレシアの海軍艦が沈んだんだろう」

 その話がしたかったのだ。

 乗組員の大人たちも、そこにいた魔法兵の子供たちも。大半があの天災のような魔法によって命を落とした。ガレシアを守っていた艦も沈んだ。
 だが、そのはずなのに、ガレシアの国内は思っていたような状況とまるで違っている。

「そうだな」
「魔法使いはガレシアに攻めて来なかったのか」

 ガレシアに侵攻してきた船は、その大きな障害であった『ヘイムダル』を沈めた。であればそのまま、ガレシアの国を攻めると考えるのに不思議はない。
 なのに、ガレシアの国内であるはずのこの場所は、喧騒とはまるで切り離されているかのように静かで。
 イージアスは口元を拭い、茶を一口飲み下して、一つ息を吐く。

「順番に。ここがガレシアの辺境とは伝えたはずだが」

 コン、と陶器の椀を机に置き、窓の外へと視線を投げる。サクラもそれに釣られるように窓の外を見た。

「厳密には、お前たち第一機動艦隊が戦っていた沖から最も近い陸地。俺の……ウィンデル家の領地」

 イージアスが立ち上がる。
 背の丈を超える窓を押し開き、露台へと出て行く。サクラがその後ろを追って露台に出ると、ざっと潮の香りをはらんだ風が抜ける。
 切り立った断崖のような岬。そこに建つ石造りの高殿の屋敷。その露台は、見渡す限りの海だった。

「魔法により大きな発展を遂げ、大陸の侵略を常に撥ね退けてきたガレシアで、有数の港の内の一つを抱える場所。――断崖の地、ロードレッド」

 イージアスが指さす方に、崖の狭間から船の帆が幾つも覗いている。海軍艦『ヘイムダル』ほどではないが、充分に大きな船であることが見て取れた。あの規模の商船なら、よほど大規模な隊商の船だろう。かつてサクラがいた場所とは比べ物にならないほど。

「と同時に、海軍艦『ヘイムダル』の陸上基地と、陸軍の駐屯地がある。……わかるか」
「?」
「大陸からの主要な防衛拠点。魔法で発展してきたガレシアの国の、優れた魔法使いが守る地」

 顔を上げると、イージアスの蒼い瞳と目が合う。それは海の色というより、隊商の荷で見掛けた宝石の色に似ていた。とても自分の手には届かない、高貴の色だった。
 見入っていて、次に続く言葉に対する反応が遅れた。

「敵船は追い返した」

 イージアスはそう言って、露台の柵に寄って遠く海を見据える。その背中を見ながら、ゆっくりとその言葉を呑み込んだサクラは、ずいぶん遅れて小さく声を上げた。

「……は」

 無意識にも皮肉げな笑みが零れた。嗤わずにいられなかった。

「簡単に……その程度で済むことか」

 あの絶望をもたらした船を、いとも簡単に追い返した。そんなことが出来るのなら、その連中が海の上で戦っていればよかったのだ。なのに、最前線で死んでいったのは、ガレシアの兵士よりも、金で買われた子供の数の方がずっと多かった。
 何のために命を張って、海上の最前線で敵船を食い止めていたのか。戦っていたのか。死にたくなくてもがいていただけの子供を盾にしていたくせに、本当は、ガレシアの国内には盾など必要のない戦力が揃っていたなどと。

「……俺たちは、何のために……」
「勘違いをしている」

 サクラの心境を察したか、イージアスが振り返る。
 波の音が爆ぜるように響いた。白日が照り返す露台は眩しく、水しぶきがさらに光を返してちかちかと瞬く。眩しくて目を細めたサクラには、イージアスの顔が見えなかった。

「兵二千の犠牲が出た。この大した国土もない島国で、それがどれほどのものか」

 サクラの思うように、容易に追い返したわけではなかった。それがわかったところで、何だというのか。
 虚しい気持ちでサクラは膝を崩す。嘆きも怒りも湧いて来ない。ただ漠然とした虚しさがあるだけだ。落胆で肩を落とし、俯いていた。

「ロードレッド沖の魔法兵制度は解体する。生存者は陸に連れ戻し、奴隷同然の扱いが再考される。対外防衛の見直しも計られる。それほどに――今回の侵攻は、ガレシアに大きな影響を残した」
「それがどうした。今まで何も――」

 やるせない呟きは、何の情も込められていなかった。

「知っていた、くせに。何もしなかった――くせに」

 それが今さら、魔法兵の扱いを変えようだなどと。自分が戦ってきた一年という月日が、なかったことになるなどと。
 虚脱ばかりが襲い来る。激しい感情もとうに湧いて来ない。ただ純粋な疑問ばかりが口を衝く。

「今さら変えたところで、どうなるってんだ」

 何かが戻るわけでもないのに。

 サクラの非難を受けても、彼は反論をしなかった。ただ静かに首を横に振る。伏せられた瞼に隠されたものは、一体なんだったのか。その時のサクラには気付くはずもなかったが。

「悪かった。……間に合わなかった」

 それきりイージアスはその話題に触れることはなかった。

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