或る軍人の追憶 7
© 2019 sasori_bi イージアスの屋敷の中を一通り見て回ったが、ひたすらだだっ広い割には、使用人の数がそれほど多くない。そんな印象だった。金持ちが使用人をどれほど雇うのが普通なのかは知らないが、広い屋敷の割りに、人と出会う回数が少なかった。だからやけに人気の薄い屋敷のように感じた。
代わりに海の波の音が絶えず聞こえてくる。崖が高いため、建物が海に呑まれる心配はなさそうだが、露台の柵に凭れれば水しぶきを感じた。断崖に打ち付ける波が激しく爆ぜるさまが遠く眼下に見える。
日がなやるべきこともなく、あてどなく屋敷の中をさまよった。
その日は結局、イージアスは昼餉を取って外出してしまった。色々と聞きたいこともあったが、重苦しい話の後にそんな気力もない。顔を合わせずにいられることに少し安堵はしていた。
晩餐は帰ってきた彼と一緒に取った。昼餉で胃の調子を崩したため、サクラの夕食は果物や、香草がたくさん入った粥だった。それでも、癖の強くない食べやすい香草や、粥の淡く丁寧な味付けや、真新しい果物は美味で、用意された分を綺麗に平らげた。
先日まで臥せっていたが、その間に食べたものも新鮮な食材の料理ばかりだった。日持ちのする携帯食料や、乾燥させたもの、味の落ちたものばかりを食べてきたサクラにとっては、食べるものすべてが美味しくて、驚きの日々だった。どうせ何か裏があるのだろうと、素直に礼を言うことはしなかったが、内心でその食事を心待ちにしていたのは事実だ。
身体が動くようになって、湯浴みをして、歩き回れるようになって。少し考える時間ができて。
そうしてようやく、サクラは行動に移した。
「……何のつもりだ」
イージアスの寝室に入り込んで、眠っていた彼の身体の上に乗った。
気配に気付いてか、重みに苦しめられて起きてか、イージアスの不機嫌そのものの声に、怯むことなく平然と答える。
「何の目的もなく、ガキなんか拾うわけないんだから。どうせあんたもこういうのが目当てなんだろうと思って」
掛布を捲り、イージアスの寝間着に手を掛ける。イージアスはまだ眠りから覚めきらないように、重たげに瞼を擦っている。
暗がりの中、サクラは夜目に頼ってごそごそと彼の寝間着の釦を外していく。
貴族が名もない子供を手元に置く理由など、これぐらいしかない。隊商の中でもそうだった。見目の珍しい子供や、美しい子供は、商品として扱われていた。買い求めるのは大抵、肥え太って着飾った金持ちの大人だった。その後、その売られた子供の身に何が起こったかは、自分が同じような目に遭って充分に想像が付いた。
「美味い飯の礼とでも思えば、我慢もできる。まあよっぽどの変態趣味だとか、痛めつけるのが好きだとかいうんだったら、さすがに勘弁して欲しいけど……ただ寝るだけなら今さら」
ただ夜の間、痛みを我慢していればいい。相手が満足するまで。決して短くはないが、長くもない。耐えられなくはない時間だ。不快な行為には違いないが、ここ数日の食事と看病の対価であればやむを得ないし、金銭を要求されるよりかは話が簡単だ。
「それにしても、まだ若そうなのに年端もいかないガキが好きだなんて、ずいぶん性癖がひん曲がってるよな、あんた。それとも異国のガキが珍しかったか? お綺麗ぶって取り澄まして、意外なところがあるっていうか――」
すべての釦をすっかり外して、イージアスの下着に手を掛けようとする。だが、寸前でその手を掴まれ、言葉が途切れた。
寝ていたところを起こされて不機嫌丸出しのイージアスは、やはりどすの利いた声で低く呟いた。
「ああ、鬱陶しい」
まるで顔の周りを飛び回る羽虫に対したような呟きだった。
怒らせたかと一瞬気まずい思いになったが、掴まれた腕を引っ張られ、無理やり寝具に引き倒されて、サクラは「あ痛」と間の抜けた声を上げる。
そして、冷めた気持ちで、やはりこの男も上に乗るのがいいのだろうかなどと考えた。押し倒して、無力な子供を押さえ付けて。そういうやり方が好きなのだろう。そう思った。
が、イージアスはサクラを上から腕で押さえ付けたまま、再び枕に自分の頭を埋める。それを見たサクラは怪訝な顔になった。
「……なあ」
「夜なんだから子供はさっさと寝ろ。俺も寝る。明日は――それこそ駐屯の幹部と話し合いがある」
「寝ろって……ちょっと」
「ったく、せっかく寝たのに起こすかお前は。……人が寝てるところを邪魔するな」
片腕で身体を上からずっしりと押さえられ、起き上がろうとしても動けない。寝ろというのはここでという意味だろうか。だとしても、何もしないのにわざわざ同じ寝台で眠る意味がわからない。
イージアスは目を瞑ってしまった。いよいよ本気でまた眠る気らしい――と思っていたが、どこか気だるげな声だけはぐちぐちと心外とばかりに発せられる。
「ついでにお前のひん曲がった考えに対して言わせて貰うと、俺は年端もいかないガキに欲情するような変態どもは反吐が出るほど嫌いだし、それと同類にされることも我慢ならない。さらに言えばお前の傷跡だらけでやせっぽちな身体には憐れみしか持てないし痛々しくて目も当てられない。そんなもんで恩義を返そうって考えも気に入らない。わかったら即刻、大人しく、速やかに、寝ろ」
一語一語区切って強調されて、もうここで寝て行けと言わんばかりに掛布の下に埋められた。息ができない。
ごそごそとどうにか身じろいで顔を出すが、サクラは困惑しきった表情で、目を開かないイージアスの顔を見る。
「だったら俺、どうすりゃいいんだよ」
好きなようにしろと言われて、急に何もすることがない。与えられるものへ払える対価など、他に何も持っていない。まるで途方に暮れるような思いで尋ねるが、イージアスがサクラの頼りない気持ちを理解してくれることはなかった。
「うるせえ……ガキは寝て食ってそこいらで遊んでろ」
投げ出すような言葉を一つ吐き捨て、イージアスはぽんとサクラの頭を撫でた。
「お休み」
それきりイージアスは何も言わなくなった。すうすうと寝息を立て始め、完全に寝入ってしまっている。
起こすなと言われた以上、サクラは声を掛けることもできなかった。ただ一言、
「……なんだそりゃ」
困惑しきりに呟いて、やることもなく天井を見上げる。
そしてやはり、イージアスの隣で身動きもできず、ただこの状況に対して大きく溜め息を一つ吐いた。
なぜ自分はこのよく知らない男と同じ寝台で寝なければならないのだろう。他に寝る場所がないわけでなし、一体これに何の意味があるのか。
「なんだこれ……」
考えたところでわかるはずもなく、さりとて堪えきることもできず、サクラは暗闇の中でぽつりと小さくひとりごちた。
「ジオ様? まだお若いのに、しっかりしてらっしゃるわよねえ」
翌朝、イージアスについて尋ねると、使用人の中でも年長の女性は、サクラの寝間着を剥ぎ取ろうとしながらそう答えた。
イージアスは夜が明けて間もなく、知らないうちに寝台を抜け出して出掛けていったようだ。朝起きるとその姿はもうなく、やってきたこの女性の声で起こされることになった。
だが、サクラは伸びてくる手を払い除けてしかめっ面になる。
「ちょっと、止めろよ。うざったい」
「まーナマイキ。一人で寝られなくて、ジオ様と一緒に寝るようなお子様が、一丁前に」
「はあ? 何をふざけたこと」
「まあ、一人で着替えられるくらい回復したのはいいことだわ。そうおし」
「無視かよ……言われなくてもやるっての」
着替えを差し出され、近くに持ってきた洗濯篭を置かれる。着替えて洗い物を出せということらしい。
サクラは大きな溜め息を吐きながら、寝間着を脱いで篭に放り入れた。女性はてきぱきと寝具の皺を直しながら話を続ける。得てして女性は饒舌だ。
「私はご両親がいらっしゃる頃からこのお屋敷におりますけれど、ジオ様がこのお家を継いだのはつい二年ほど前ね」
「へえ」
「本当によくやってらっしゃると思うわ。たったお一人で、後ろ盾もないはずなのに、お家を立派に支えてらして。まあ、お屋敷の外のことは少ししかわからないけど、少なくともお屋敷の中のことだけ言えばね」
屋敷付きの使用人で、外に出ることが少ないという。屋敷の中をまとめ上げるのが主な仕事で、外に小間使いに出るのはもっと若い使用人の仕事らしい。
聞いてもいないのにぺらぺらと語って聞かせてくる女性に、サクラは相槌も打たず耳半分でその話を聞き流す。一つ尋ねると十返してくるようなお喋りだ。イージアスもよくこんな女を使用人に使っているものだとげんなりする。
女性の一人語りめいた話は続く。
「あの頃は本当にひどかったのよ。休息もなく働かされて、夜中に起こされて何か命令されるようなことが、ほとんど毎日で。身体を壊したり、気持ちを病んで辞めた者が何人もおりますもの。大旦那様から、主人がジオ様に代わられてからは、ずいぶんよくなって。皆が安堵しておりますわ」
「死んだのか」
「誰が?」
「大旦那様っての」
それにしても、ずいぶん早く死んだものだ。イージアスを見る限りはまだ若く、貴族というのが意外に思えるほどだ。そんな青年の父親なら、まだ死ぬような歳でもなさそうだが――などと考えていると。
女性の表情が曇る。先ほどまでとは対照的に語り口は重々しく、最低限のことしか答えなかった。
「横領の噂が流れて、領主の務めを果たされるのが難しくなってしまわれて。街外れのお屋敷で、ご夫婦で隠遁のような生活をされているわ」
サクラは怪訝な顔をした。横領の噂が立つことなど、珍しくもない。領地の不満が溜まればどこでも出てくるような、ありふれた噂だ。それがどうして、隠遁生活にまで至ることになるのだろうか。
「噂だけで?」
「……ジオ様はご苦労なされてるってことです」
話を変えるように振り返り、女性はサクラに指先を突き付ける。
「いいこと、あなたもあまりジオ様を煩わせないの。本当なら、あなたと食事を取ってる時間なんてないほどお忙しいお方なんですからね」
「頼んでない」
「本当に口の減らない!」
そう嘆くように声を上げながら、女性は洗濯篭を抱える。ついでのように椅子に掛かっていたイージアスの寝間着を放り入れた。
「朝餉は用意してありますから、顔を洗ってからいらっしゃい」
そう言って扉の方へ向かっていく女性の、丸みを帯びた後ろ姿から目を背け、サクラはふと寝台のそばに目を止めた。
引き出しの上には花瓶が置かれている。中にはまだ水滴を帯びた瑞々しい生花が活けられていた。大ぶりの豪奢な花だ。野辺の花とは比べ物にならない。
だが、サクラはその花を見て、また違和感に首を傾げる。
「この花……」
「ああそれ、ジオ様宛に好意で届けて下さる領民がおりますの」
女性がサクラの独り言を聞き取って振り返る。聞いてもいないのに本当にお喋りな使用人だ。
だが、呆れるよりも花に意識がいって、さほどそのお喋りを気に留めることはなかった。サクラは相槌のようにぼんやりと一つ首肯する。
「ジオ様がまだ主人になられる前に、出入りだった庭師と掛け合わせて作った花で。その庭師が育てて売り始めて、ジオ様がその花の流通に一役買われて……今ずいぶんガレシア国内の富裕層に人気がある花なんですって」
生気を感じさせる、瑞々しい赤い色。不思議と血の色は連想しなかった。ただ自然と目が引き寄せられる。そんな引力を秘めていた。
そのかぐわしい香りを確かめた後、サクラはぽつりと尋ねた。
「ガレシアでは寝所に花を飾るもんなのか」
女性は何度かきょとんと瞬きし、不思議そうに首を傾ける。
「別にガレシアに限った話でもないでしょう? 花ぐらい、どこにだって飾りますわ。綺麗ですもの」
――その理由は単純で、サクラが知らないだけだった。
花を愛でるような感性の人間も、そんな人間の寝所も。
見慣れた人間にとって何一つ不思議はないような光景なのかも知れない。けれど、サクラを寝所に呼び立てた下卑た人間たちは、総じてそのような殊勝な趣味はなく、従ってサクラもまた、寝所でこんな光景を目にしたことはなかったということだ。
それに思い至ったのは、サクラがその屋敷でもうすぐひと月を過ごすという時分。
イージアスが提示したひと月という時間が迫る頃だった。
© 2019 sasori_bi
prev / next