或る軍人の追憶 9
© 2019 sasori_bi ウルスラ、と。
吐息のような声がか細く呼び掛けてくる。
それを自分の名前と認めた上で、青年は返事をせずに一瞥だけをくれた。
「……の、馬鹿……」
寝台の上で、イージアスがウルスラを睨み付けてくる。震える声は怒りよりも、どちらかというと縋るような印象が勝った。だが、その内心はきっと怒りが占めているのだろうと思いながら。
ウルスラは頬杖を突き、悠然とイージアスの姿を見下ろす。どこか鬱屈を含んだ面差しで、口元だけはゆるく笑みをかたどっていた。
「どうです、王城に出回ってる魔女の霊薬とかいう俗な代物は」
「な、にが……魔女の――」
言葉は最後まで続かなかった。
服は乱れて、髪もすっかり解けている。その前髪の合間から、上気した肌が覗いていた。その呼吸も整わず、ときおり熱っぽい吐息を漏らす。
やはり薬の効果が出ているらしい。ウルスラはイージアスのしどけない姿を見下ろして、すっと目を眇めた。
王城内の貴族たちがこぞって耽っている薬だった。害がない程度に魔法で成分をいじってあるだけで、元は大陸産の植物の実から作られる薬だ。催淫効果を謳ったものだが、意外と眉唾物でもなかったらしい。
――そんな低俗なものがこのひとにも効くのだなという白けた気持ちで、不思議といっそ笑いすら込み上げた。
「あんたの嫌いな王城は、こんなことばっかり熱心ですね。貴族は女の数と搾取の方法ばかり競って、民のことなんざ考えちゃいない。取り澄ました貴族夫人も、ちょっと引っ掛けるとすぐ股を開く淫売揃いだ。醜い嫉妬に、足の引っ張り合いに、貶し合いに――人間性の底辺が揃っていますね、ここは」
くすくすとウルスラは笑みを零す。どこか無垢な子供を思わせる悪戯めいた声が、静かな寝室に密やかに響いた。
「馬鹿馬鹿しくて笑っちゃいますね。あなたと、駐屯の軍人たちの守るものが、そんなものだなんて。……ねえ、聞いてます?」
「……る、さ……」
「怒りましたか? ……なら、もっと抵抗しなくちゃ。こんな馬鹿馬鹿しい薬一つで、簡単に抵抗もできなくなるんじゃ、犯してくれと言ってるようなもんですよ、あんた」
ウルスラの手が、イージアスの髪をひとすじ掬い上げる。アイスグリーンの瞳を伏せて唇を寄せた。その仕草はあくまで恭しく、動作の端々に崇拝じみた感情が滲んでいた。
イージアスに触れるウルスラの手も、まるで紙ほど薄い玻璃でも扱うかのように、その手つきは慎重だった。その動作が、わざと怒りを誘因するかの露悪的な言葉とは裏腹で。イージアスが拒絶に迷うほどに丁寧で、下卑た劣情すらも感じ取れないその手で触れながら、最低な物言いでイージアスを貶めて――そして、彼自身、そのことにまるっきり自覚がないようだった。
いっそ戦慄が走るほどに。寒気を感じるほどに。――屈折しているのだ。とうに。イージアスと出会った時には、すでに。
「……にが、薬、一つ……」
妙な薬を飲ませて、好き勝手身体に触れて、散々に昂ぶらせて。そのまま指一本触れなくなったウルスラに、恨みのこもった呟きを漏らす。だが、そんなイージアスの声は甘く掠れて、ほとんど声にはならなかった。
ウルスラはイージアスの睨むような視線を満足そうに受け止めて、笑みを深めた。
「……さて、突っ込んで欲しくてたまんないってとこでしょう? お望みどおりにして差し上げますよ。ねえ、ジオ様」
イージアスの顎に指を掛け、軽く上向かせる。流れ落ちた前髪の奥にある蒼い瞳は、涙を帯びて艶やかだ。
ゆっくりとイージアスの薄い唇を親指でなぞる。指の腹で柔らかい唇の感触を愉しみながら、試すようにイージアスを見下ろす。
「……なに、を」
「だから、口でしてくれます? 涎でべたべたにしながら、口ん中いっぱいに頬張って、音立てながらいやらしくしゃぶって下さい。できるでしょう?」
興奮を示した屹立を、彼の口元に押し付ける。それと共に、わざと露骨な言葉で問い掛けると、蒼玉の瞳に嫌悪の色が浮かぶのがわかった。
ウルスラの手から逃れるように首を横に振る。だが、その動作一つにもろくに力が入っていないことが明らかだった。
「――いや、だ」
「じゃあ暇を持て余したご婦人か、好色な貴族男でも連れてきましょうか? そのままではお辛いでしょうし。……まあ、ちょっと変わった性癖かも知れませんけど」
加虐趣味だか衆人環視だか、変わった異常性癖を持っている人間は噂で大体聞こえてくる。王城内の狭い人間関係は濃厚で、隠しておけるものではない。そういう人間にちょっと声を掛けて連れてくればいい。抵抗もできない今の状態では、きっとなされるがままになるだろう。
「それで俺は退室するといたしましょう」
イージアスの顔が葛藤に歪む。唇を噛み締め、不快そうに眉をひそめていた。
こんなのは、ほとんど選択肢など与えていないのと同じだ。だから、彼が顔をしかめる理由が、単に躊躇のためだけだろうというのはわかっていた。わかっていて脅すウルスラの悪趣味を、イージアスはきっと怒っているだろう。奉仕を強いられる屈辱を、唇を噛んで耐えているのだろう。
やがて、イージアスが諦めのように視線を落とした。小さく息を吐いた理由は、嘆きだったのか、または他意などなかったのか。
迷うように唇を解き、また噤んで、ごくりと喉を鳴らす。何度かそうして迷った後、覚悟を決めたかのようにおずおずと屹立に舌を這わせた。
その瞬間に見せる、どこかもういいとでも言いたげに投げ出した表情。自尊心を手折られるかのような、あるいは無残に踏み躙られるかのようなその痛々しさに、ウルスラの背筋をぞくぞくと痺れが這い上がってくる。
ウルスラはうっそりと笑った。
「……あなたほど高潔な人間を、俺は他に知りません」
ウルスラの目に映る彼は、いつでも美しい。
王城に渦巻く醜く欲深い嫉妬や愛憎、権力闘争などに何一つ染まらない、清廉潔白そのものの貴族。ロードレッドの領民に慕われる正しき領主。その志のために肉親さえも追い落とし、家族を作ることさえ遠ざけた孤高さも――そばで見るほどに心を引かれた。崇拝し、心酔した。
それと同時に、貶めたかった。人間の醜い欲とは無縁かのようなかんばせを歪ませて、犯して、穢したかった。完璧な人間などいないのだと確かめたかった。冒涜したかった。けれど。
「あなたは本当に美しい」
どれほど手酷く穢しても変わらず美しいままの彼に、安堵している自分がいる。その矛盾を、不思議なことにウルスラは自分で不快だと少しも思わなかった。
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