聖宮の巫女 4
© 2019 sasori_bi 十年ほどの間、世話になっただろうか。いや、世話になったなどという感謝はそれほど強くない。ただ、ようやくかという思いだけがユージオの中にぼんやりとある。
振り返る礼拝堂は、いつもと変わらず聖火を湛えて、重々しい。何も変わらない、嫌というほど出入りをした場所だ。縁者を亡くした孤児である自分の“家”として。
せいせいするのだろうかと思っていたが、あまり実感が湧かなかった。ここからそう遠くないアステリア邸に移るという、ただそれだけだからなのだろうか。拝火に訪れるには違いないのだから、二度と立ち入らない場所になるわけでもない。
それでも言葉だけは慇懃に、形式のような世辞を押し付けた。
「長い間お世話になりました」
手荷物はそれほど多くなかった。先にアステリア家の手配で、ある程度のものが運び出されていたし、もともと小部屋に入る程度の荷物しかなかったせいもある。長く寝起きをした場所だが、荷造りも一日足らずで終わるほどだった。
鞄一つ持って頭を下げるユージオに、見送りに出てきた司祭は困ったように微笑した。
「……結局、私はあなたのことを導く者にはなれませんでしたね」
「どういう意味でしょう」
「あなたの信頼を得ることができなかった」
ユージオは首を傾げる。向かい合った司祭は、苦い笑みを絶やさないままだ。
「今さらと思われるでしょうが、あなたには他の子たちよりずっと辛い思いをさせてしまいました。あなたは昔から大人と対等に話ができるほどに聡明でしたから、巫女たちの感情的な態度には、思うところが多くあったことと思います」
ユージオはまじまじと司祭を見上げた。
特別に庇ってくれることもなければ、感情的にユージオを責め立てるようなこともなかった。ただどこまでも中立で、憎らしいほどの信仰者で、独善的な人。そう思っていたし、今もその印象は今も変わらない。
本当に今さら、一体どういうつもりだろうか。そう思いながら、ユージオは繕うことなく「そうですね」とだけ率直に言葉を返した。
司祭は怒らなかった。どころか、やんわりと目を細めて微笑んだ。
「恨み言を受け止めなければと思っていたのですが、他には」
「なぜ最後になった今になって、それを言い出すのかと疑問が少々。他にはありません」
「あなたは弁解さえ要求してはくれないのですね」
今さら恨み言を受け止めて、それで水に流そうというのなら、それは謝罪でなく単なる自己満足なだけだ。過去のユージオが救われるわけでもなければ、今のユージオが彼らに好意を持つようになるわけでもない。それほどにここで長い時を過ごした。……数えれば良い思い出よりもずっと、悪い思い出の方が多いような、そんな場所だった。
それでも不思議と、ここでありったけの暴言を吐き捨てて去ろうとは思わなかった。ユージオは小さく嘆息する。
「責めているわけではないんです。先生には先生の正しいと信仰するものがあって、それが俺とは相いれなかったのだろうと、今は何となくそう思っています」
ブリード教を何一つ欠けのない正義だと信仰する限り、ユージオは彼の考えに賛同できなかったし、長ずるごとにその考えは確証に変わった。――ブリード教に対する疑念を拭い切れないユージオにとって、司祭の言葉はすべてが居心地の悪い思いにさせるものだった。
それも仕方がないのだ。そのいたたまれなさはユージオだけの勝手な感情で、司祭には関係のないものだ。そう割り切れば、彼に望むものはないという結論に辿り着く。
それに、思えば門限を破ってアステリア邸へと飛び出したりして、ずいぶん大胆に彼に逆らったこともある。咎めがなかったのは彼の赦しがあったからだろう。そういうふうに、教えに反抗的だったユージオが、それでも彼にいくらか目こぼしを受けていたのは事実だ。
ユージオの言葉に、司祭は苦い顔で微笑むだけだ。
「力及ばず、ここをあなたの家にしてさしあげられなかったことが残念です」
「……先生。謝辞の代わりに一つ、伺いたいことがあるのです」
「何でしょう」
ユージオは迷うようにわずかに口を噤む。
おそらく聞いてはいけないことだろう。ユージオの考え方が正しいなら、この問い掛けは間違いなく礼拝堂の守秘に触れる。ユージオこそが異端と見なされる可能性も充分に考えられた。
それでも最後だからと、わずかな隙に付け入るように、ユージオは長年抱えていた疑問を改めて彼に尋ねた。
「俺の母……アルシーナ・シアン。その――『黒魔女』という名の由来になった罪について」
司祭は微かに目を瞠る。
次の拍子には表情が翳り、目が背けられる。その些細な変化を、ユージオはつぶさに観察した。
「……禁則事項に触れます」
「わかりました。では謝罪は結構です。……他の用件はもう、ありません」
「あなたは本当に冷徹ですね。お待ちなさい」
呼び止められて、ユージオは脚を止めた。
司祭の表情はいつになく曇っている。人目をはばかるように周囲を確認し、無人であることを今一度確かめているようだ。
「なぜ知りたいのです」
「巫女たちの俺に対する態度は、俺が反抗的だということもあるのでしょうが、主に母に原因があったのでしょう。母が何かをして、それが礼拝堂の信仰に悖るものだった。だから巫女たちはあれほど母に対して怒っていた」
人体に対する禁忌の魔法の研究。それが礼拝堂に反するもので、母はそのために棄教した。――信仰に悖りながら偽りの信者を演じることができなかったのではないだろうか。そう思っているが、事実はわからない。
ユージオが知っている事実は、アルシーナが棄教し、魔法で病を直す研究をしていたということだけだ。
それがなぜ、あれほど巫女たちの怒りを買うことになったのか。改めて司祭に問い質したかった。
「その怒りが正当であるほどのことを、母が本当にしたのかどうか――俺には知る権利があると思うのですが」
しばらく無言で視線を見交わし、やがて司祭は諦めたように目を伏せた。
「……正しいですね」
わかりました、と司祭は頷いた。本意ではないことは、その表情を見ればどことなく察することができたが。
「アルシーナはあなたが幼い頃、何も持たずにこの地に流れ着きました」
「そう……でしたか?」
ユージオの記憶にないことだった。
怪訝に思いながら首を捻るが、司祭はしっかりとええ、と頷いた。記憶違いではないようだ。
「それ以前に何があったのか、どこにいたのかは、その一切を知りません。身寄りがないからと礼拝堂に庇護を求め、私たちは短い間ですがあなた共々、彼女を礼拝堂に置きました。……すぐにその薬師としての腕が広まり、一人で生計を立てられるようになって、庇護など必要なくなったのですが」
「覚えていません……」
「無理もありません。あなたは幼かったですから」
一体いつのことだったのだろう。赤子かそこらの時だったのだろうか。母は元々ここで生まれ育った人間ではなかったらしい。――それも初めて耳にすることだったが、続く司祭の言葉はますます信じられないような話だった。
「当時の彼女は敬虔な信徒でした。巫女たちは彼女を歓迎しましたし、皆に好かれていました。彼女は聡明で寛容で、洗練された振る舞いをする人で、それでいて驕ることも気取ることもなかった。多くが彼女を敬愛しました。この礼拝堂の巫女たちも、それはたいそう心酔して」
「……まさか」
「今からは考えられないことかも知れませんが。アルシーナはおよそ黒魔女などという名からほど遠い、聖人のように周囲に慕われる人でした。彼女が耳飾りを外して棄教した後も、複雑ではありましたが、誰も彼女のことを憎んではいなかった。……けれど、彼女はそれを裏切った」
一度は明るさの差した司祭の表情が、再び曇る。てっきり母の裏切りは棄教したことかと思って――今も半分はそうではないかと思っていた。だが違った。
「彼女の死後に発覚したことです。葬儀のために訪った彼女の家で、我々は――礼拝堂から紛失していた禁書を見つけました」
「!」
母の罪。異端者の黒魔女と蔑まれるようになった要因。それは――礼拝堂の禁書を持ち出したこと。
目を瞠るユージオに、司祭はゆるゆると首を横に振った。
「詳しくは話せません。ですが、ブリード教が固く禁ずる魔法に関して記されていました。一歩間違って世に広まれば、この国に大きな混沌を招くような災いの種です。私たちはそれらを守る使命がある」
ブリード教の禁忌。人体に対する魔法だ。そうユージオは確信する。
まかり間違って世に出れば、魔法による混乱が広がるだろう。ブリード教が今日まで犠牲を払いながら守ってきた平穏が破れる。その秘密が記された禁書。
アルシーナが知りたがった、魔法で病を治す術――それが、その禁書の中にあると思ったか。それとも、禁書を持ち出したがゆえに、魔法で病を治そうという考えを抱くようになったか。どちらにしても、アルシーナは恩のあるはずの礼拝堂に背いて、禁書を持ち出した。
「災いの種と知って、なぜ礼拝堂に」
「守るものを知らねば、守り方もわかりません。私たちはそれについて知っておかねばならない義務がある。けれど、何者かによって持ち出されたそれが、彼女の手元にあったのは、紛れもない事実」
つまり、各地の礼拝堂には同様の禁書が保管されており、総本山である聖宮のみならず、それぞれに耳飾りの魔法の秘密が知らされている。禁書の内容まではっきりとはわからないが、最低限それは確かなのだろう。
(もしかすると“竜の月”に関連する魔法も……)
考え込むユージオに、司祭は気付いていないようだ。
「私たちの管理が甘かったことは、反省すべき点です。ですが、理由はどうあれ、彼女の行為は礼拝堂に背くものでした。巫女たちは敬愛したぶん、強く裏切られたように思ったことでしょう。無論、あなたには何の咎もないことではありますが、それで片付けてしまうにはあまりに落胆が大きかった」
「……だから裏切ったと、そう言われるように?」
「到底信じられなかったし、信じたくないとも思いました。ですが、事実を求めることも、憤りの矛先を向けることも……彼女はすでに亡くなっていて、我々には何一つできませんでしたから」
だから、それらがユージオに向いたのだろう。
司祭はそう露骨な態度ではなかったが、巫女たちは少なくともそうだった。ユージオに対してきつく当たり、黒魔女の息子だと詰った。その理由が――母の背徳行為のためだった。
司祭は僅かに微笑む。その表情は、どこかやるせなさを感じさせるものだった。
「なぜ彼女がそのようなことをしたのかも、私たちは終ぞ知ることができない……」
亡くなってしまったアルシーナ。けれど、司祭や巫女たちはアルシーナから、何かしらの釈明を求めていたのかも知れない。その裏切りに足る理由を知りたかったのかも知れない。
――お前の母さんは、お前を残して死ぬ気なんかなかった。
クランカイトがくれた言葉を思い出す。死後、黒魔女と謗られることになっても。アルシーナは足掻いた。それが自分のためだけとは、思い上がりに過ぎないかも知れない。けれど確かに生きようとしたのだろう――自分の信じた神に背いてまで。
「母は……」
「何度も言いますが、そのことであなたに咎はありません。ただ、頭では理解していても、巫女たちは……あなたの顔立ちやその聡明さに、アルシーナを彷彿して、どうしても感情的になってしまうのでしょう。論理的でない、まったく理不尽な感情論で、あなたには理解に苦しむことかも知れませんが……」
濃藍の髪も、茜色の瞳も、そっくり母から譲られたものだった。それを見るほどに、巫女たちは敬愛した者の理不尽な裏切りを思い返した。きっとそういうことなのだろう。
「それほどに、皆がアルシーナを好いていました」
そして、慕うほどに裏切りに哀しみ、傷ついた。
「それが、あなたにしたことを赦される理由には、決してなりませんが。ただ、そういった経緯があるということだけは、確かにあなたには知る権利がありましたね。……長い間、辛い思いをさせたこと、本当に申し訳なく思います」
「いえ……」
ユージオはどうにかそれだけを答えた。
去り際に思いがけない話を聞かされて、どう受け止めていいかわからない。自分がまったく知らなかった母の一側面だ。自分が知る母は優しくて、鷹揚で、時に豪胆で――いつも笑顔だった。病床にあってまで、なお。
「母は、あの……事実はわからないのですが」
そんな母が、この国の平穏を掻き乱すような真似を望んでしたとは、どうしても思えない。
「きっと……この国に災いを齎したいとは思っていなかったんじゃないかと」
「ええ」
司祭はゆるりと笑った。それは寂しさを感じさせるものではなく、ユージオに向けた温かみが感じられた。
「わかっています。彼女はそんな人ではなかった。私たちは彼女のすべてを知っているわけではありませんが――少なくとも、私たちが敬愛した彼女が偽りでなかったことは、冷静に思い返せば、よくわかります」
信頼をされていたのだ。そう思って、ユージオは困ったように眉尻を下げた。
「……はい」
なんだか、今までで一番、腹を割って話したような気がした。ユージオ自身、ふてくされていたのかも知れない。どうせこの礼拝堂の人間は、自分のことを敵視して疎んでいるのだろうと諦めていたのかも知れない。
改めて事実を問い質してみれば、ほんの少しだけユージオの想像とは違っていた。母に対して――一概に憎悪だけではない感情があったようだ。母が犯した罪のことも。
「改めて、高等学校合格、おめでとうございます。拝火の折には、きっと顔を見せてくれますか」
司祭は慈しみの籠った瞳を細めて笑う。伸ばされた手が、ユージオのつむりを撫でた。アルシーナと同じ夜空の色の髪を、どこか懐かしむかのように。
「本当に、今さらになってしまいましたが。私たちが覚えている、彼女の……アルシーナの話をしましょう」
幼かったユージオが覚えていない、他者から見たアルシーナの一面を。
ユージオは戸惑う子供のように、触れてくるその手をどうしていいかわからないまま、頼りなく眉尻を下げて答えた。
「はい」
改めて聞いてよかったと、ユージオは心の底から思い、ゆるりと目を伏せた。
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