聖宮の巫女 8

© 2019 sasori_bi
 どうしても、聞けなかった。
 私がもっと早く宮に来ていれば、ゼズルカ大祐は早々に東の宮の準備を整えられたのだろうかと。

 講義の最中、何度もそれを聞こうとしながら、結局口を開けなかった。それを尋ねて、ゼズルカ大祐の機嫌を損ねるのが恐ろしかった。仮にそうでないとしても、そうだと肯定されることさえ怖かった。

 そして、自分の行動を悔いる一方で、今となってはもう取り返しのつかないことで、それほどに冷たく当たられるのは、やはり納得がいかないという気持ちも確かにあった。
 ――誰も、そんなことを言ってはくれなかったのに。

 重い修道服にずしりと肩を落として、廊下をとぼとぼと歩き、フローレインは小さく息を吐いた。
 折れた心をどうにか持ち直して追加の講義を受けてきたが、どうしても気が散漫になりがちなフローレインに対して、ゼズルカ大祐の態度はやはり辛辣なものだった。

『やる気がない者に教えるほど、虚しいことはないわ』

 否定の言葉も出ず、ただ謝罪ばかりを口にするフローレインに、ゼズルカ大祐はやはり冷たかった。
 そんなつもりではなかった。ただ、周囲に受ける嘲りや蔑みの言葉や冷たい態度が、胸を抉って癒えることがない。その胸の内を理解してくれる人間も誰一人いない。ここに来てからはずっとそんな日々で、ろくに勉学に実が入らなかった。

 ――彼女に訴えればそれは、フローレインの言い訳にしか取られないのだろうが。

 目頭がじわりと熱を帯び、フローレインは必死に唇を噛んで溢れ出そうになる激情を堪えた。たまらなくみじめな思いだった。叶うなら今すぐに、跡形もなく消えてしまいたいと思った。
 至らない自分が悪いのだろうと思っていた。自分さえきっとものを覚えれば、それほど辛く当たられることもなくなるはず。そう考え直して持ちこたえようとしても、心無い悪態を耳にするたびに向上心は挫かれた。

 神部の巫女たちはすでに部屋に戻り、就寝の用意を済ませていることだろう。人気のない廊下を一人ぽつんと進み、ろくに私物のない自室へとたどり着く。勉強は嫌いではなかったつもりだが、ここでの何もかもが大嫌いになりそうで、そんな自分を殺す消耗が積もり積もって、日ごとにフローレインを追い詰めていった。
 自室に入り、寝台に倒れ込む。重い修道服が全身を圧迫するようで、息苦しかった。喘ぐように息を吸いこんでも、呼吸が楽にはなってくれない。靄が掛かったような頭の重さも一向に去らない。

 このまま投げ出してしまえるのなら、どんなにいいだろう。
 そんな考えを過ぎらせながら、フローレインは残る力を振り絞り、もたもたと寝台から起き上がった。何もかもどうでもいいと思いながら、その実明日のことを考えている理性的な自分が残っている。そういう自分に、嫌がおうにも行動しろと急き立てられた。

 着替えて眠って、朝早くに起きて支度をしなければならない。この衣服で眠って寝苦しい思いをして、寝不足で講義の最中に眠ってしまえば、それこそゼズルカ大祐の叱責の口実になってしまう。好きでわざわざ叱りの原因を作ろうとは思えないし、そこまで居直った態度も取れない。
 そんな強迫観念に押し潰されそうになりながら、フローレインはどうにか身を起こして修道服を着替える。

 ――明日から毎日、こんな生活が待っている。

 無理だ――という諦めの感情が先に来る。そして、それでもやらなければならないという義務感に息が詰まった。

 どうにか寝間着に着替えている最中、手首の紐が引っ掛かる。
 手甲を外して現れた二組の結紐は、照明に照らされて艶やかな色を湛えていた。

「カイト。……ユージオ」

 フローレインは溜め息のような声で呟いた。

 こんな無様は見せられない。けれど、もしもここに二人がいたとしたら、きっと救いを求めただろう。もうこんな場所は嫌だと、逃げたいのだと言ってしまっただろう。――許されないことを知っていて、それでも。

 とうに心は挫かれていた。そんな考えを見透かしたかのような、不意の物音に我に返る。

「!」

 フローレインは弾かれたように顔を上げた。物音のした方へ視線を向ける。

 一つしかない窓の向こう、そこに、奇妙に蠢く影の姿を見つけた。
 目を凝らし、その正体に気付いたフローレインは、複雑な思いでその名を呼んだ。

「ネヴィン……」

 窓に手を掛け、開けてやる。

 湿った夜気が部屋に入り込んできた。跳ねるように部屋へ入ってきたネヴィンは、上機嫌に一つ鳴き、小首を傾げてフローレインを見上げてくる。黒いつぶらな眼差しを受け止めて、フローレインはようやく、苦さを含みながらも小さく笑みを零した。自分の顔がすっかり強張っていたことに今さら気付きながら。

「家に帰ったんじゃなかったの? しばらく見なかったから、そうだと思っていたのに。でも、元気そう。……よかった」

 手を差し伸べれば、その小さな身体がすり寄ってくる。

 その濡れ羽色の毛並に触れた瞬間だった。フローレインの脳裏に、鮮やかな映像として流れ込んでくるものがあった。

 ――ネヴィン。

 どこからともなく響いた声は、懐かしいとも感じないほどフローレインに馴染んだ声だった。

「カイト……」

 ネヴィンの目から見たと思しい、クランカイトの姿が視えた。
 今もまだ懐かしいとは感じない。ただ、直接顔を見られないことが不思議だという気持ちが起こった。ネヴィンの目を通してその姿を見た今も、それほど深い感慨に襲われるわけではない。けれど。

 ネヴィンの目から見た記憶の中、クランカイトは見たことのない服装をしていた。その隣にはユージオがおり、どちらも黒い燕尾服姿だ。それが例の名門高等学校の制服だったと気付くのに、それほど時間は掛からなかった。服装一つで、わずかな時間ですっかり大人びた雰囲気に変わった二人の姿に、フローレインは感嘆し、息を吐いた。
 慣れない装いに着られないのは、二人が相応の優れたものや、内面から滲む自信を備えているからだろう。気取った格好に違和感はない。むしろ、その装いのために、見慣れているはずのフローレインですら不思議と目が引かれた。二人によく似合っている。

 クランカイトは何かをフローレインに――正しくはネヴィンに向かって話していたが、内容はわからなかった。おそらくネヴィンが言葉をほとんど理解できなかったので、いくら記憶をフローレインに伝えてもそこがすっかり欠けたのだろう。
 クランカイトたちはネヴィンに何かを語りかけ、そうかと思えば二人で何やら相談していた。やがて、ネヴィンが飛び立ったことで、二人の姿は遠ざかっていく。
 小さくなっていく二人の姿が、窓の奥にある。同じ窓が幾つも並ぶ、赤レンガの大きな建物。見たことのない場所だが、推察するに二人が入った寮だろう。

 ここでの時間の流れが曖昧なせいですっかり失念していたが、もう入寮が始まったようだ。ということは、あの家にはもう両親二人しか住んでいないのだろう。母や父は寂しい思いをしているかも知れないが――二人の姿は変わりなく元気そうに見えて安堵した。

 ネヴィンの思念はそこで終わる。
 おそらくネヴィンは、あの寮からこの聖宮まで飛んできて、今ここにいるのだろう。

「……ってことは、カイト?」

 何か用事があって、クランカイトがネヴィンを寄越したのかも知れない。
 急にそう思いつき、あちこちの角度からネヴィンの身体を観察する。そうして案の定、ネヴィンの脚に巻かれた小さな紙片を見つけた。
 それを見つけたフローレインは、ずるりと窓の桟に突っ伏していた。

「いやハトじゃないんだから……」

 思わず脱力の言葉が口を衝く。
 とはいえ、ハトではここに辿り着けなかったことだろう。慣れない場所から慣れない場所へと飛び回らせるなど、利口で、意思疎通が可能なネヴィンにしかできないはずだ。

「まったく、ユージオに名前を貰っただけあって、なんて優秀な子に育ったのかしら」

 そう独り言を呟きながら、ネヴィンの脚から紙片を外してやる。丁寧に折られたそれをもたもたと広げながら、フローレインは自嘲気味にふと現実に立ち戻った。
 もしも誰かにこんな姿を見られたら、何を言われるかわかったものではない。
 そう思った途端、冷たいものが胸をひやりと刺した。孤立するあまり、気味の悪い飼い鳥をよすがにする愚かな娘だと、そう嘲られることだろう。

 浮かない顔で紙片を開き、そこに書かれた文字に目を通して、フローレインは形容しがたい表情になった。

 ――書かれていたのはたった一言。『無事を知らせろ』だ。

 クランカイトだろう。心配しているのだ。便り一つ出せない場所で、一体フローレインがどうしているのかと。だが、その一文を目にしたフローレインは、動けなくなった。

 ――ちっとも無事なものか。

 ズタズタになった心の底で呟いていた。
 クランカイトの筆致を愛おしむような感情はどこにもない。散々に踏み躙られた、どす黒い感情だけがある。すべて投げ出してしまいたいと区切りを探しながら、どうにか毎日踏み止まっている。

「……ごめんね。あげられるご褒美、持ってない」

 フローレインは悲しく呟いて、ネヴィンの羽をゆっくりと梳いてやる。
 ネヴィンの好物の木の実も持っていないし、探す時間も、その自由すら与えられてはいない。遠くからはるばるここまで飛んできてくれたのに、褒美の一つもやれない不自由さが苛立たしかった。
 ネヴィンを部屋の中に入れてやると、窓を閉めて、机に紙片を置いた。
 今日はもう眠ってしまおう。返事はまた明日書けばいい。一言、無事だと伝えればいいだけだ。何も迷うことはない。

「……お休み」

 ネヴィンが持ってきた紙片に一瞥を送って、フローレインは寝台に潜り込んだ。地獄のような朝が来るまで、何もかも忘れてしまいたい。そう思いながら目を閉じる。
 しばらくの間、ネヴィンが寝るまでもぞもぞと蠢く気配を感じていたが、意識を繋いでいた何かがふと途切れたかのように、フローレインは意識を手放した。


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