惑いと共存する想い

怜の特訓はとうとう最終日を迎えた。
昨日はハルが懇切丁寧に怜にフリーを教えたらしい。(あのハルが、だよ!?人に泳ぎを教えるのなんか嫌がりそうなハルが!!)
しかし、結局怜は飛び込みまではうまくいったものの、泳げるようにはならなかったそうだ。

「やっぱり難しいよなぁ……」

「何が難しいのかしら?篠宮さん」

いつの間にか目の前には天ちゃんが。そういえば古文の時間でしたね。

「私の話、聞いてた?」

「えーっと……南総里見八犬伝ですか?」

「違います!!そんなとこやってません!もう一回説明しますから、よーく聞きなさい」

「すみません」

チラリと視線を横にやると真琴がやれやれというように肩をすくめていた。

休み時間になったところで、私は真琴に成果を聞いてみる。

「で、怜はどう?」

「県大会に間に合えばいいけど……」

難しそうなのかな……?
私の不安げな気持ちが伝わったのか、真琴は大丈夫だよと言うように私の頭を撫でる。

「結衣、今日部活来る?」

「ごめん、パス。今日は家庭科部に出なきゃ。あとでメールか電話……あ、いや、今日真琴ん家行ってもいい?」

「へっ!?」

真琴がすっとんきょうな声をあげた。そんなに変なこと言ったか?私。

「いや、ダメならいいんだけど。久々におばさんの手料理食べたいし、蘭や蓮にも会いたいし!」

「う、うちはいいけど……」

「じゃっ、決まりね!!部活で作ったお菓子持ってくから楽しみにしててね」

少しはにかんで真琴はうんと頷く。どことなく嬉しそうだ。腕によりをかけなくちゃね!!



今日の家庭科部の部活内容は焼き菓子。マフィン、マドレーヌと気合いを入れる人もいるけど私は無難にクッキー。失敗したら怖いしね……。

「結衣ちゃん、珍しいわね。誰かにあげるの?」

「あ、安藤先輩……なんで分かるんですか!?」

「だって気合いの入れ方が違うもの。この間話してた水泳部の後輩君?それとも幼なじみ君かしら?本命はいったい誰なの?」

「本命とかいません!!今日は幼なじみの家にご馳走になりにいくんで、そのお礼にあげるだけですよっ」

「あら、そんな仲なの?えーと、真琴くんとハルくんって言ったかしら。どっちにあげるの?」

「フツーに幼なじみです!真琴にあげる予定ですけど、真琴の家族みんなにあげますし、先輩が期待するようなことはありませんよ」

なんだ残念という先輩に向かって小さく舌を出す。幼なじみだからって早々甘い展開にはならない。

真琴やハルのことは昔から好きだ。でもそこに恋愛感情は含まれてない、と思う。私だって思春期の女の子らしく恋というものに憧れてるし、してみたいとも思うけれど、恋愛かそうでないかは未だによく分からないのだ。
でも、あの頃の私は確かに――

「結衣ちゃん結衣ちゃん」

「は、はい」

「クッキー、焦げちゃうわよ」

「ああっ!!」

慣れないことを考えていたせいか危うくクッキーを焦がすとこだった。そっとオーブンからクッキーを出すと、美味しそうに焼けていた。……良かった。

校門で水泳部が終わるのを待っていると「結衣!」と手を振りながら真琴が走ってこちらにやってきた。

「ごめん、待った?」

「ううん。部活お疲れ様。ハルは一緒じゃないの?」

「うん……なんか用事あるって」

「じゃ、帰ろっか」

そんな会話をしながら私は唐突に先輩に言われたことを思い出してしまった。

『本命はいったい誰なの?』

違う。そんなんじゃない。真琴は昔からの幼なじみで。でもこういうのって端から見たら、カップルっぽい……?

「結衣?」

「っ、うわっ……な、なに?」

真琴はビックリしたように目を丸くさせ

「それ、俺の台詞。何かあった?」

「な、何もない!!」

変なことを考えたせいか、意識してしまった。落ち着け私。相手は真琴だよ。そんなことあるはずないじゃないか。
それに……そうだ。忘れるとこだった。

「真琴、はい。今日作ったやつ」

素っ気なくクッキーを手渡すと真琴は嬉しそうに目を輝かせる。

「ありがとう!……結衣の手作りなんだよね?」

「そうだけど。味は一応平気だよ?多分」

「うん……ねぇ、これって俺の分だけ?」

「?真琴の分はそれだけだよ。あとはおばさん、おじさんに蘭と蓮の分!!」

「ははは……だよなぁ」

力なく笑う真琴を見て首を傾げる。変な真琴。



「ただいまー」

「お邪魔しまーす」

ちょっと久々の橘家。真琴の後ろに続いて家の中に入るといきなり膝の辺りに衝撃を食らった。

「うおっ」

「結衣ちゃんだーっ!わーいっ」

「あー、蓮ばっかり抱きついてズルいっ!蘭もー」

玄関先で勢いよく抱きついてきたのは真琴の弟の蓮。あとから妹の蘭も来て私の周りをまとわりつく。

「こらっ、蓮。いきなり抱きつくな。蘭もだ。ちょっと落ち着けって」

真琴が注意してるけど元気な弟妹たちは聞いてない。

「久しぶりだね。蘭、蓮。あ、これ私が作ったクッキー。どうぞ」

「!いいのっ!?やったー!」

「結衣ちゃんありがとう!」

喜ぶ蓮と蘭の頭を撫でてると奥からおばさんがやってきた。

「結衣ちゃんいらっしゃい」

「急にすみません。あ、これクッキーです。よろしかったらどうぞ。おじさんの分もあるので」

「あらあら、ありがとう。結衣ちゃんは家の子みたいなものだからいつでも大歓迎よ。ゆっくりしていってね」

「はい。ありがとうございます」

真琴ん家のこういう雰囲気が好きだ。兄弟家族みんな仲良くて羨ましい。

「結衣ちゃん遊ぼー」

「僕とも遊ぼ遊ぼ!」

「うん、じゃーゲームでもしよっか!」

「うわーい!蘭、準備してくるっ」

「あ、僕もー!」

元気に走り回る弟妹を見つめ、真琴はちょっとため息をつく。

「ごめんな、騒がしくて」

「いやいや、弟妹が出来たようで嬉しいよ真琴おにーちゃん」

「からかうなよ」

真琴の部屋まで行き、鞄を置いたところで蓮と蘭が元気よくやって来た。

「結衣ちゃんこのゲームしよ!」

「なにこれ……深海生物くん?これ、ハルのチョイスでしょ」

真琴がクスクスと笑いながらよく分かったねと言う。そりゃ幼なじみやってれば分かる。ハルはのチョイスは大体変わってる。大方は水に関するものだけど。

「蘭も蓮も最近ハマっててさ」

「蘭、蓮。あんまりハルの悪い影響受けちゃダメだよ」

「えー?」

首を傾げる蓮。ちょっと難しい話か。ハルには釘をさしとこう。
深海生物くん?とやらは、意外とてこずるゲームだった。真っ暗で身動きとれない中を進むとかシュールなゲーム。
ハルの趣味は未だによく分からない……。

よく分からないゲームを一通りやり終えると「夕飯よー」というおばさんの声が聞こえた。はーい!と蘭と蓮は元気よく食卓に向かう。

「蘭、蓮、片付け!……ったく」

「蘭も蓮も元気だねぇ。真琴おにーちゃんは大変ですなぁ。……でも家族ってやっぱりいいよね」

「結衣、またいつでもおいでよ。蘭も蓮も喜ぶし」

真琴は私の頭をポンポンと撫でる。全くこの幼なじみには敵わない。

「ありがと」

夕飯は冷しゃぶだった。やっぱりおばさんの料理は美味しい!それを告げると「結衣ちゃんもお菓子作り上手ね」と言われてしまった。ちょっと恥ずかしい。

「そういえば今日は怜の特訓の最終日だったんでしょ。どうだった?」

「そうそう!怜、バッタ泳げるようになったんだよ!」

「え、バッタ!?マジで!?」

バッタもといバタフライは水泳の中でも難易度が高い泳ぎ。まさかそれが泳げるとは……侮れない。ちなみに私はバッタが苦手だ。それなのに怜はカナヅチのくせにあっさりと……!

「これで大会もなんとかなりそうだな」

「……ねぇ、真琴。リレーはやるの?」

真琴は少し困った顔をして、ハルが乗り気なら、と言う。
やっぱりあの時のリレーをもう一度見ることは出来ないのかな。ハルはリレーを泳ぐこと、どう思っているんだろう。

「あー!僕のお肉〜」

「食べるの遅い蓮がいけないんでしょ」

行きなりの乱闘に振り向くと蘭と蓮が肉の取り合いをしていた。微笑ましい光景に笑ってしまう。

「こら、喧嘩するなよ。ほら兄ちゃんのやるから」

「私のもあげるよ」

「「やったー!!」」

仲良く肉を食べる蘭と蓮を見ながら昔のことを思い出す。ハルと真琴と私はいつも一緒で、遊ぶのもご飯を食べるのも喧嘩するのも3人でだった。スイミングに通うようになってから渚と凛、それに亜季と知り合って仲良くなって。

「懐かしいなぁ」

あの頃の楽しかった日々はもう、もう二度と戻らないのだろうか。

「ねぇねぇ結衣ちゃん」

「なあに蘭」

「結衣ちゃんってお兄ちゃんのこと好き?」

「ゴホッゴホッ」

「うん、まあ……って真琴大丈夫?はい、水」

「あ、ありがと……」

真琴が咳き込むとなりで蘭は楽しそうに笑う。

「じゃあ結衣ちゃんお兄ちゃんと結婚してー」

「は?」

「な、な、なに言うんだよ蘭!」

「だって結衣ちゃんお兄ちゃんのこと好きなんでしょ?お兄ちゃんも結衣ちゃん好きでしょ?だから」

蘭……いきなり何を言うかと思えば……。
真琴は顔を真っ赤にして咳き込んでるし、おばさんはあらあらと微笑んでいる。蓮はよく分かってないみたいだし。

「あのね、確かに私は真琴のこと好きだけど、好きの意味が違うから……結婚は難しいね」

「えーっ、じゃあ結衣ちゃん他に好きな人いるの?お兄ちゃんよりも?ハルちゃんよりも?」

好きな、人。
私の好きな人はいない、と思う。好きだった人ならいるけれど、今でも好きかは分からない。

私は蘭の頭を撫でると「ナイショ」と言う。今は子供の時みたいに気軽に『好き』だなんて言えないから。



私はあの頃、彼に憧れていた。夢に向かって真っ直ぐ泳ぐ彼のことが。その泳ぎ、笑った顔、いつの間にかみんなを巻き込む彼に惹かれていた。

『帰ってきたら……お前に大事なこと伝えるから。だから待ってろよ』

私は、凛のことが『好き』だった。