目覚めたての光
合宿二日目の朝はすごく晴れやかだった。
そのわりになんとなく夢見が悪くて、大分早く目覚めてしまったのである。
「ふぁーあ……あふ」
はしたないと思いつつ、大きな欠伸を連発しながら、枕元に置いておいた携帯を見ると、時刻は6時ちょっと前。起床時間は7時だから二度寝するにも物足りない。さて、どうしようかと思いながら、部屋の襖を少しだけ開ける。
「うわ……」
朝に見る海はとても美しかった。昨日とはまた違う顔をみせながら、穏やかに凪いでいる。日差しがキラキラと反射して光がこぼれ落ちるようだ。
天気もいいし、海は綺麗だし、このまま部屋でぐずぐずしているのは勿体ない。私は着替えると、片手にカメラを持って部屋を出た。
砂浜を踏むとキュッキュッと音がする。近所の砂浜とはまた違った感覚で、私はちょっと笑った。
水泳部の皆はまだぐっすり寝ている頃だろう。昨日は厳しい特訓の遠泳で疲れているだろうし。
砂浜を踏みながら、私は海に向かってシャッターを切る。澄み渡った海と空は水平線を越えて入り交じるようだ。カモメがすーっと空を飛ぶ。その姿を見て、私は思わず呟いた。
「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」
若山牧水の有名な一句。私のお気に入りだ。そんなことを思いながら、ファインダーを覗き、シャッターを切る、切る、切る。
風景画は撮りやすい。なにも考えなくてもそのまま自然体の姿で映ってくれるからだ。だけど、私はまだ迷っている。
やっぱりあのリレーを引きずっているのだろうか。私を虜にした、皆のリレー。あの泳ぎ。
ハルの泳ぎはイルカのように綺麗で素早く、真琴の泳ぎはシャチのように大きく力強い。渚はペンギンのようにすいすいと伸びるように泳ぎ、凛はサメのように荒々しく食らいついてくる。
あのリレーをフレームに収め、私のものにしたとき、私は虜になった。そして写真の魅力に取りつかれた。写真は美しい一瞬を形にして残してくれる。なんて素晴らしいものだろうと。
それから凛がオーストラリアに行ってしまい、私達は中学生になった。岩鳶中学校にはやっぱりハルも真琴も一緒で。その頃の私は思春期特有の気恥ずかしさというか、そんなつまらないものに捕らわれてハルや真琴のことをいつの間にか避けるようになっていた。そんなことからか、スイミングスクールにも行かなくなった。ハルと真琴とはクラスも違ったから、自然と話すこともなくなって。ただ友達の亜季はいつもハルと真琴のことを話してたから、二人がどうしているかなんてことは自然と耳に入ってきた。
ハルと真琴が水泳部に入ったこと。水泳部で色んな揉め事があること。二人とも頑張って特訓に励んでいること。
亜季から二人のことを聞くたびに、私は置いていかれる気持ちでいっぱいになった。自分から避けたくせになんて勝手なことを。でもあの頃の私は今ほど大人になれなくて、理不尽な気持ちを燻らせていた。
そんな時、唐突に真琴が話しかけてきた。
『結衣ちゃん』
『……なに、橘くん』
『あのさ、見に来てほしいんだ』
『なんの話?』
『今度、またリレー泳ぐんだ』
『……ふうん。それで?』
『だから、見に来てほしいんだ』
『なんで?』
『……またあの時の景色、見せてあげたいから』
そう言ってはにかむように笑った真琴の顔を今でも覚えている。
大会ではハル達は見事にリレーを泳ぎきった。その時のリレーは前よりも力強く、熱く、私の胸を焦がした。ファインダーの向こうに見える景色に魅せられ、私は夢中でシャッターを切った。その時、私は初めて気付いた。
――私はみんなの泳いでいる姿を撮るのが好きなんだ。
それから暫くして、ハルは競泳をやめた。
水泳部をやめ、ハルは誰かと競って泳ぐことを一切しなくなった。最初は水泳をやめたのかと思ったけど、夏には普通に海で泳いでいたから、水泳をやめたわけじゃないことは分かった。そうこうしているうちに、スイミングクラブまで潰れてしまい、ハルは本当に競泳をやめてしまった。
さすがに心配になって、真琴に理由を聞いてみたけれど真琴もわからないみたいだった。私は思いきってハルに聞いてみた。ハルは一言、『自由に泳ぎたいから』とだけ言ってあとは一切語らなかった。
ハルが競泳をやめて以来、私は写真に前ほど熱中出来なくなってしまった。何を撮ってもピンと来なくて、私を惹き付けるものはなく、ただファインダーの向こうの景色は色褪せていった。
あれ以来、私は写真を撮ることをほとんどしていない。別にやめたわけではないのだけれど、何となく中途半端になってしまった。それはやはりあの頃のことを引き摺っているからだろうか。それともただ単に写真に飽きてしまった私の言い訳なのだろうか。
「あれ……?」
遠くの海に何やらよくわからないものが浮かんでいるのが見える。視界にちらつくそれは、
「ハル……?に、真琴に渚に怜……」
四人とも晴れやかな顔で沖へ向かって泳いでいる。朝早くから遠泳の練習だろうか。やる気があるのはいいけれど、体力持つのかな。
「何やってんだ、あいつら……」
不意に側で聞き慣れた呆れ声がした。振り向くとそこには凛がいた。って、
「り、凛!?」
「なんだよ」
「ご、ごめん。ちょっとびっくりして……えーと、おはよっ」
「ああ……はよ」
挨拶を返してくれるだけ、前よりマシになった、かな。
凛は髪をちょこんとポニーテールでくくり、ランニングスタイルの格好をしている。そういえば小学生の頃から走り込みしてたっけ。それにしても……
「ふふっ」
「……なに笑ってんだよ」
ちょっとムッとしたような凛の声に私は慌てて言う。
「ご、ごめん。あのね、そういう髪型してるとコウちゃんに似てるなーって」
「似てねーよ」
「えー、似てるよーやっぱり兄妹だね」
「っるせ……お前、こんな朝っぱらから何やってんだよ」
「ん?ああ、天気いいし、景色もいいからちょっとカメラに収めようかと」
「まだ続けてんだな、それ」
凛がカメラを指差して言う。私はちょっと苦笑して、まあ一応ねと言った。
「凛のこと撮ってあげようか?」
「……勝手にしろよ」
凛はそう言うとそのままスピードをあげ、私の横を通りすぎていく。遠ざかっていく背中に向かって私は叫んだ。
「……っ、凛!大会、頑張ってね!」
凛は軽く片手をあげると、そのまま走り去り、あっという間に見えなくなってしまった。
気がつくと海の上にハル達もいなくなっていた。朝練は終わったのだろうか。
何となく夢見心地のような気分がする。昔のことを思い出したからかな。それとも凛と前みたいに普通に話せたから?
「そろそろ戻んなきゃ」
もうすぐ朝食の時間だ。
部屋に戻ると、天ちゃんはまだぐっすりと寝ており、コウちゃんはちょうど起きたところだった。
「おはよコウちゃん」
「結衣ちゃん……おはよう。どこか行ってたの?」
「うん。ちょっと朝の散歩にね。もうすぐ朝食の時間だよ」
「うん……支度してくる」
「私は天ちゃん起こすよ」
コウちゃんが支度してる間に頑張って天ちゃんを起こし(暫く寝惚けてたけど)、漸く三人揃ったところで宿の朝食を食べに行く。
「いい天気ねえ。ほんと来てよかったわ。ご飯も美味しいし」
「そういえばあいつらご飯どうしてんだろ……?」
「遙先輩も真琴先輩もいるから大丈夫じゃないかな?」
「ハルはともかく真琴はぜんっぜんダメだよ。料理しないからね。お弁当もおばさんに作ってもらってるし、元々真琴はそんなに器用じゃないし」
「そうなの!?真琴先輩、お料理出来そうなのに……」
「へぇー橘くん意外ねえ。七瀬くんもすごく器用で驚いたけど」
そんな会話をしながら朝食を食べ終え、ハル達のもとへと向かう。
早朝から頑張ってたみたいだし、今日の合宿もいいペースで出来るんじゃないかな……
「……なにこれ?」
ハル達のテントへ向かうと、テントはもぬけの殻で、テント側では砂浜で寝ころびながら四人仲良くぐっすりと眠っていた。しかも全員水着姿。早朝練を終えて疲れているのだろうか。しかし、これじゃあ本末転倒だ。
「あらぁ……」
「みんな……何やってるんですか?」
「一夜越し?」
「一夜越しとか凄くないですか……さっき散歩してたときに見かけましたけど、早朝練習してたみたいで」
さすがに見かねたマネージャーのコウちゃんが声を張り上げて起こそうとする。
「はいはい、練習はじめますよー!」
『……』
「みんなぐっすり寝てるねー」
「ちょっと……皆さん聞いてるんですか!?起きてくださーい!!」
ピクリとも反応しない皆にコウちゃんが更に声を張り上げるが反応なし。天ちゃんはクスクスと笑ってるし。
さすがにコウちゃんが気の毒なので私も手伝うことにする。
「ハール、起きてー」
ハルの身体を揺さぶるが反応なし。
「ハル……今日の朝食は鯖だよ真鯖」
「っ……本当か!」
「あ、起きた」
鯖、という言葉に反応して、ガバッと起き上がるハル。まさか本当に鯖で起きるとは……。
「で、鯖はどこだ」
「ハル?寝惚けてる?ちょ、揺すんのやめて」
私を揺さぶりながら鯖はどこだと言い続けるハルの頬を私はつねる。
「……痛い」
「ハル、目ぇ覚めた?」
「ああ……」
そんな調子で全員起こしたけれど、何故か皆へとへとで、とりあえずみんなの朝食を用意することになった。
「結衣……おはよぉ」
「おはよう真琴。随分とお疲れだね」
「え?あ、ああ……ちょっと昨日の疲れがね」
「早朝の、じゃなくて?」
「え?」
「ううん。なんでもない」
「……今日も、いい天気だね」
そう言って海を見つめる真琴は昨日までとは違う、優しい顔をしていた。穏やかな顔つき。
前まで海は苦手だったはずなのに。
「真琴……何かあったの?」
そう聞くと真琴はちょっと驚いた顔をして、どうしてそう思うの?と聞いてきた。
「なんていうか……前とは違う顔をしてるし。うーん、私の勘だけどさ」
そう言うと、真琴は穏やかな笑みを浮かべて海を見つめながら言った。
「前よりさ、海が怖くなくなったんだ。……みんなが、一緒だから」
「そっか……良かったね、真琴」