優しく積もる淡い恋
ピッピッと笛の鳴る音に続いてスタートの掛け声。プールに飛び込み、競う選手たち。
観客席から次々と泳ぐ選手を見つめ、ハル達の出番を今か今かと待つ。
「次はハルちゃんと凛ちゃんの番だよ!」
渚が緊張した面持ちで叫んだ。
「松岡さんはどっちを応援するの?」
「勿論、どっちも!結衣ちゃんは?」
「私も両方」
「ハルちゃーん!ファイトー!」
渚が大声でハルにエールを送るのに続いて、私も負けじと叫んだ。
「ハルー!凛ー!二人とも頑張れーっ!」
ピッピッピッピッという笛の鳴る音に合わせて、選手はスタート位置につき、合図で一斉に飛び出した。
「速い……!」
怜が唖然と呟く。
確かに凛は前より遥かに速くなっていた。
あの時ハルと競ったときとは比べ物にならないくらい速く、ハルを追い抜き、先へ先へと進んでいく。
「凛ちゃん、前より格段に速くなってる……!どんどんハルちゃんを引き離していくよ!?」
「ストロークでハルが負けてる!?」
真琴が驚いたように目を見開く。
「そんな……、ハルっ!」
観客席からハルを必死で応援しながら私は違和感を感じた。
何故だろう。前々からこんなにもハルと凛の対決が見れることを楽しみにしていたはずなのに、全然嬉しくない。
二人は本当に戦っているの?まるで互いが見えてないかのようにがむしゃらに泳いでいるようにしか見えない。
ハルは凛に追い付こうと必死にもがき、凛はハルを振り払おうとどんどん先へ行く。
私は――こんな二人が見たかったわけじゃないのに。
「ターンに入ります!」
ハルはターンでまた勢いをつけ、凛の後を追う。
「ハルちゃんが追い上げてる!」
「ハルー!」
「遙先輩ー!」
「ハルっ!」
ハルがもう少しで追いつくというところで、凛が素早くタッチした。そして、
「よっしゃあああ!」
凛の歓声が響きわたり、勝負は決まった。
「ハルが……負けた……」
「そんな……」
「ハル……」
しかも凛と僅差とはいえ、あのタイムじゃ……
「しかも……予選落ちなんて……」
重苦しい沈黙に包まれる。
私はハルはどうしてるかと、ハルの居場所を探す。ハルはまだプールの中にいた。その前には凛が。そして――
「ハル……?」
凛に何かを言われたハルはショックを受けたように一瞬顔を強張らせた。その瞳には何も映っておらず、まるであの時のハルのようで――
『競泳は……やめた。もう泳がない』
またハルが競泳をやめてしまいそうで、どうしようもなく怖くなった。
暗い面持ちで皆が黙り込むなか、急に呑気な声が私達に掛けられた。
「おおーいたいた!悪ぃ、遅刻しちまった」
「笹部コーチ……」
「コーチ……」
「何してたの!遅いよゴロちゃん!」
渚は苛立ちを隠そうとせず、笹部コーチに突っかかる。
「遙先輩のフリーはもう終わりましたよ」
怜の言葉に笹部コーチはあちゃーと言うように顔を歪めた。
「予選見られなかったかぁ……でもまあ決勝が見られればいっかぁ」
「「「……」」」
笹部コーチの言葉に皆黙り込む。皆で顔を見合わせたあと、真琴がゆっくりと笹部コーチに告げた。
「決勝はありません。ハルは……予選で……」
「負けたのか……!?」
笹部コーチの言葉に私は現実を改めて突きつけられたようで、ギュッと下唇を噛み締めた。
ハルが負けたことは悔しいし、残念だけど、やっぱり何か納得いかない。それにあの時のハルの目が気になって仕方がなかった。
ハルの帰りを待ちながら、他の選手の泳ぎを見る。アナウンスで聞こえてきたのは御子柴くんが大会新記録を出したとのこと。
「おお、すげえな」
素直に称賛する笹部コーチの隣で、真琴がもしかして……というように言う。
「今、御子柴って……」
「あっ、鮫柄の部長!?ただの熱い人かと思ったら、実は凄かったんだ……ねえ、江ちゃん」
「……う、うん」
渚に話を振られたコウちゃんは心ここにあらずといった感じで曖昧に頷く。
その横で怜は何かを気にするようにしきりに視線をさ迷わせていた。
「どうした?」
「遙先輩、戻ってきませんね……」
「そうだな……」
「シャワー浴びてるんじゃないかな」
深刻そうな怜の表情を見て、心配ないよというように渚が言う。
「それにしては時間がかかりすぎのような……僕、ちょっと見てきます」
「あ……待って!私も行く!」
弾かれたように観客席を飛び出し、ハルのもとへ向かう怜を見て、私は何も考えずに後を追いかけていた。
「え、あ、怜!結衣!待て!」
「ちょっとマコちゃん!?怜ちゃん!ゆんちゃん!」
「待てってば……怜!結衣!」
真琴の制止を振り切るように怜の後を追いかける。
もう、あの時のような想いをするのは嫌だ。
「待て、怜、結衣!」
控え室に入った辺りで私と怜は真琴に追い付かれてしまった。
「なぜ止めるんですか!?」
怜は必死の形相で真琴に食って掛かる。
「いやあ、だから、」
「怜ちゃん落ち着いて」
「遙先輩が心配じゃないんですか!」
「そうだよ……私、前みたいにハルの口からあんな言葉聞くの、絶対に嫌だ」
「結衣……もしかしてまだ……」
真琴が心配そうな顔をして私を見つめる。居たたまれなくなって私は視線をそらした。
その時、通路の反対側から人影がこちらへ近づいてきた。その人は――
「凛ちゃん!?」
「凛……」
凛は一瞬驚いた顔をすると、独り言のように、「そういや、お前らも泳ぐんだったな」と呟いた。
「ねえ、凛ちゃん。ハルちゃん見なかったかな?」
「ハル?」
「ハルちゃん、戻ってこなくて……」
渚がうつむきがちに言うと、凛はちょっと小馬鹿にしたように笑う。
「フッ……それほど俺に負けたのがショックだったのか。勝ち負けにはこだわらねえ、タイムなんて興味ねえとか言ってたくせに」
その時、凛の言葉を聞いていた怜がポツリと言葉を漏らした。
「……勝ち負けじゃない。なにか別の理由があったんじゃあ……」
「ああ?水泳に勝ち負け以外に何があんだ!」
食って掛かる凛に怯む怜。
しかし、そんな凛に向かって「あるよ」とハッキリと言ったのは真琴だった。
「少なくともハルはあると思ってた。だから凛との勝負に挑んだ。でもそれを最初に教えてくれたのは凛、お前だろ?
小学校の時のあのリレー。あの時にお前が、」
「知るかよっ!……とにかく俺はハルに勝った。それだけだ」
真琴の言葉を遮り、逆上する凛。そのまま踵を返し、私達の前から立ち去ろうとする。
「ちょっと待って凛!」
このまま黙って凛を行かせるわけにはいかない。凛と話したいことも、聞きたいこともたくさんあるんだから……!
「結衣……!?」
凛の後を追いかけようとする私を真琴が慌てて引き止めようとするが、その制止を振り払って、私は凛の後を追いかけた。
「凛っ……ね、凛、待って……!」
ずんずんとこちらを振り向かずに奥へと進んでいく凛の後を必死で追いかける。凛は真琴達の姿が見えなくなったところで足を止め、こちらを振り返った。
「結衣……なんだよ」
「ええと、」
何から言えばいいのか分からない。言いたいことは確かにたくさんあるはずなんだけど、とりあえず思い浮かんだ言葉を口にする。
「決勝進出おめでとう、凛」
凛は少し面食らった顔をして、「おう、サンキュ」とあまり嬉しくなさそうに言った。
「あー……その……この間は、悪かった」
散々言い澱んだあと、急に謝罪をされ、今度は私が面食らってしまった。
「え、なに急に!?」
凛は苛立たしそうに舌打ちをすると、「岩鳶SCの時のことだよ」と付け加えた。
「あ、ああ……」
「約束、覚えてないなんて嘘ついて。悪かった」
「そんなっ……気にしてないから平気だよっ」
本当は気にしてた。
凛は変わってしまった、あの頃の凛はもういないのだと思い込んだ夜からずっと。
そのあと、また凛に会って、やっぱり凛はあの頃となにも変わらないって分かって嬉しくて……でも、今日のハルとの泳ぎを見せられてまた分からなくなってしまった。
何がなんでもハルに勝とうとするあのがむしゃらな泳ぎ。勝ち誇った笑み。
――凛は一体どうしてしまったの?
「……本当は覚えてたんだ、お前との約束。ただ、アイツと決着をつけるまでは前に進めねえって思ってた。それだけだ」
「うん……」
「俺はハルとの勝負に勝って、きちんとけじめをつけた。だからお前との約束を果たす」
「凛……」
食らいついてくるような真っ直ぐな視線に捕らわれ、なぜだか逃げたくなった。
「お前、昔っから本当変わんねーよな。小さい頃の約束きちんと守ってさ……そんなお前だから俺は……」
「凛?」
凛はそこで口を閉じ、しばらく視線をさ迷わせていたが、急にまた真っ直ぐな視線で私を見つめた。
無意識に背筋がピンと伸びる。
私、緊張しているみたい。
凛は小さく息を吸い込むと「結衣」と私の名を呼んだ。
「な、何?」
「長い間待たせて悪かった。正直、お前が待っててくれるなんて思いもしなかった。だから、あの時約束覚えててくれたって知って、嬉しかった」
「凛……」
「結衣……俺はずっと昔からお前のことが、好きだ。その気持ちは今でも変わらない。好きだ、結衣」
真っ直ぐな瞳と言葉に一瞬心臓の鼓動が止まった。
やがて動き出した心臓の鼓動はいつもより激しく高く鳴り響く。
好きって……凛が、私を……?
そこまで考えたとき、頬が熱を持つのが分かった。
凛の眼差しを受け止めきれず、思わず俯く。
何が、何だか、わからない。
ハルのことがあって、皆でハルを探しに来て、凛に会って、だってもうすぐ真琴の試合が始まっちゃうのに。
私、何してるんだろう。
「あ、あの……」
何か言おうと思ったけど、言葉が出てこない。
真っ直ぐ見つめてくる瞳を見るたびに息苦しくなる。
凛は、本気なんだ。
「結衣」
凛がこちらへ近づいてきて、私の手をとる。思わずビクリと反応してしまう私の手をギュッと握り、凛は私を逃がさないように顔を覗き込む。
「お前、好きなやついるのか?」
私は黙ってかぶりを降る。
うまく答えられない。
「別に今すぐ返事をくれとは言わねえ。だから、ゆっくり考えとけ」
私はまた黙って頷く。
その返事でも満足したらしい凛は私の手を離すと、「じゃあな」と言ってどこかへ立ち去ってしまった。
頭の中がぐるぐるする。
凛が、私のことを好き?
さっきのことは本当に現実だったんだろうか。まるで夢を見ていたようだ。
誰かが誰かに恋をするということに憧れていた。
でもそれは本の中の話や、ドラマや、周りの同級生のことばかりで、私にとっては現実味なんてなくて。
誰かを好きになるということも、多分幼い頃に抱いた淡い恋心くらいで。
確かにあのとき私は凛が好きだった。けれど今は、と聞かれると、よく分からないとしか言えない。
凛のあの眼差しは本気だった。
本気で人を好きになるということはどういうことなんだろう。
いくら、小説で真似事みたいなことを書いたって私はそれがどういうものかちっとも知らないのだ。
遠くから歓声が聞こえる。そろそろ真琴の試合が始まってしまうかもしれない。
私はその歓声から逃げるように、ハルを探しに奥へと進んだ。