ラスト・チャンス
くらくらする頭を押さえながら、私はハルを探し回っていた。
さっきの凛の言葉が頭から離れない。
『結衣……俺はずっと昔からお前のことが、好きだ。その気持ちは今でも変わらない。好きだ、結衣』
凛が、私を好き。
その事実にどうしても実感がわかなくて、どうしたらいいのかも分からなくて。
私、どうしたらいいんだろう。
ぼんやりと考え事をしながら歩いていたら、突然何かに躓き、思いっきり転んでしまった。
「いっ、たぁ……」
何に躓いたのかと思えば、それはベンチに座っているハルの足で……って、
「ハル!?」
「……なんだ」
ハルは虚ろな瞳でこちらを見る。その表情はどこか暗く、落ち込んでいる様子だった。
「ハル、大丈夫……?」
「そのセリフ、そのままお前に返す」
擦りむいたんじゃないのか、というハルの言葉に、今更のように膝がジンジンと痛み始める。恐る恐る立ち上がって膝を見ると、ちょっと擦りむいたようで赤くなっていた。
「別にこれぐらいなら平気。ところでハル、凛と何かあったの……?」
ハルは別に、と小さく呟くと私から顔を背けた。何を考えているのか分からない。
「ね、ハル。みんなも心配してるし、もうすぐ真琴の試合も始まるから行こうよ」
「俺はいい」
「ハル……」
まるで、昔のハルを見ているかのようだった。中学時代のあの頃のハルを。
『競泳は……やめた。もう泳がない』
凛と出会って、また泳ぐ気になってくれてすごく嬉しかったのに。なのに、なんでまた……。
「行けよ」
「え……?」
「もうすぐ真琴の試合なんだろ」
「う、うん……ハルも行こう」
「俺はいい」
ハルは頑として首を縦に振らない。
「俺がいなくても、お前がいれば充分だろ」
「そんなことないよ!真琴は誰よりもハルに応援してもらいたいって思ってるよ」
私の言葉にハルがこちらをじっと見つめる。
「真琴はハルと一緒に泳げて、また一緒に水泳部ができて、すっごく嬉しく思ってるよ。渚や怜だってそうだよ。だから、」
「ハルちゃん!ゆんちゃん!ここにいた!」
私の言葉を遮るように突然、現れた渚がこちらに駆け寄ってきた。
「マコちゃんの試合始まっちゃうよ!早く行こう!」
「え、もうそんな時間!?」
慌てて腕時計を見るともう真琴の試合が始まる頃の時間になっていた。
「俺はいい」
それでもハルは頑としてここを動かない。いい加減にして!とハルに言おうとしたとき、
「よくないよっ!」
渚にしては珍しく語気を荒げてハルに食って掛かる。私がちょっと呆気にとられていると、
「行こうっ!」
そう言って渚は私とハルの手を取ると、どこにそんな力があるのかと思うぐらい力強く私たちを引っ張って走り出した。
薄暗い建物の中を走り抜ける。光が差す出口を抜けると、まばゆい太陽の光が降ってきて一瞬目を瞑った。
「ああ、試合始まっちゃってる!」
急いでみんなのところへ戻ろうとすると聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「いっけーいけいけいけいけ真琴!」
「「いっけーいけいけいけいけ真琴!!」」
「おっせーおせおせおせおけ真琴!」
「「おっせーおせおせおせおけ真琴!」」
声の方を見ると、そこには笹部コーチ、コウちゃん、怜が必死になって真琴を応援している姿があった。
渚と二人でみんなのところへ走って向かう。
そして、プールでは懸命にバックを泳ぐ真琴の姿。
「真琴っ、頑張れーっ!!」
私も負けじと声援を送る。
こんなに力強い真琴の泳ぎを見るのはいつ以来だろう。
そして、真琴が最後のターンに入った。
祈るように手を組み、真琴の泳ぐ姿を見つめる。
真琴……頑張れ!
そして、ゴールした真琴は僅差で優勝タイムを逃した。
「ああ!マコちゃん惜しい!優勝タイムにギリギリ届かない……」
「あともうちょっとで決勝に行けたのに……」
みんながそう言って悔しがる中、私は少しだけ晴れやかな気持ちでいた。
また、真琴の本気の泳ぎを見れたんだ。
それだけで嬉しくなる。
「よぉし、次は僕の番!」
意気込む渚に笹部コーチが気張ってこい!とエールをおくる。
「渚、頑張ってね!」
「もっちろん!」
渚は元気に返事をすると、プールへと向かった。
「ただいま」
そんな渚とは入れ違いに真琴が戻ってきた。決勝に届かなかったとはいえ、どこか晴れ晴れとした顔をしている。
「お疲れ様です、真琴先輩」
「惜しかったですね、あともう少しだったのに……」
「うん、まあ、でもとりあえずやれることはやったつもりだよ」
真琴はそう言って微笑むと私の方を向く。
「お疲れ様、真琴」
「うん。あのさ、結衣」
「ん?」
「ハルを連れてきてくれたのって結衣?」
「とゆーか、渚かな。渚が引っ張り出してくれた。ハルに会ったの?」
そう尋ねると真琴は嬉しそうに笑った。やっぱりハルとずっとずっと泳ぎたかったんだ。そんな真琴の顔を見て、私まで嬉しくなる。
「次は渚の番だろ?応援しないとな」
「うん!」
ピッピッと笛がなる。パチンと音が鳴るように頬を叩き、気合いを入れる渚。やっぱり少し緊張してるのかな。大会なんて久しぶりだろうし。
合図とともに一斉に飛び込む選手たち。
それを見て、私達は勢いよく応援する。
「「いっけーいけいけいけいけ渚!」」
「くっ……だめだった!」
渚が悔しそうに俯く。惜しいところで優勝タイムを逃した渚は歯痒そうに唇を噛んだ。
その時、怜がすくっと立ち上がり「いよいよ、僕の出番ですね」と自信満々に言う。
「怜ちゃん、大丈夫?」
渚が心配そうに聞く。そんな渚とは対照的に怜は胸を張って言った。
「任せてください、こう見えて本番には強いですから」
「本番には強い、ねえ……」
プールサイドで準備をする怜を上から眺めながら呟く。表情は見えないが、動きといい、仕草といい、あれはどう見ても緊張している。
よーいの掛け声で一斉に飛び込む。よし、飛び込みはうまくいったし、フォームも完璧!と思ったが、どうにも怜の泳ぎがちょっとおかしい。
「あれ……怜くん、ゴーグルが!」
「ずれてる!」
コウちゃんと渚が心配そうに声をあげる。
「飛び込んだときにずれたんだ……」
「ちょっと泳ぎづらそうだよね……」
それでも頑張って必死に泳ぐ怜。最初の頃は金ヅチだったのに、こうして見るともう立派な水泳選手だ。
笹部コーチの掛け声に合わせて、皆で必死に怜を応援する。
「「いっけーいけいけいけいけ、れーい!」」
「すみません……完全に僕の力不足でした」
結果、怜も優勝には届かず、岩鳶高校水泳部は惜しくも県大会敗退となった。
「そんなことないわよ。自己記録を更新したし、大したものだわ」
「ゴーグルさえずれてなきゃ優勝出来たかも」
天ちゃんと渚が労うが、怜は自分が成果を出せなかったことが、悔しいみたいだ。
「いえ、さすがにそこまでは……」
ちょっとへこんだ様子の怜が気にかかる。初めての大会にしてはよくやったと思うけどな。
「まあ、いずれにせよ、みんなよく頑張ったわ!本当にお疲れ様」
「やりきったって感じだよね」
「ああ、また別の大会目指して頑張ろう」
対照的に渚と真琴は力を出しきった様子。ちょっと残念そうに、でも晴れた顔をしている。
「そういえば七瀬くんは?」
天ちゃんの言葉に唐突にハルのことを思い出した。真琴の試合以来、ハルの姿を見かけていない。
「ハルは、その、」
なにか言おうとするが言葉がうまく出てこない。そんな私を見かねてか渚が「一人で先に帰っちゃったみたいで……」とフォローしてくれる。
「そう……それなら仕方ないわね。松岡さん、あとは」
「はい……」
天ちゃんとコウちゃんのやり取りで、私は今朝聞いたことを思い出した。
私達にはもしかしたら明日があるかもしれないんだ。
天ちゃんはそのまま可愛い愛車で帰ってしまい、笹部コーチは何故かバイト先のピザ屋のバイクで帰っていった。
ひぐらしの鳴く声が響き、もうすっかり日が暮れ始めていることを告げる。
ちょっと切ない気分のなか、渚がポツリと呟いた。
「終わっちゃったね」
「ああ」
「でもやっぱり僕達も地方大会行きたかったです……」
怜はまだ悔しそうに言う。あれだけ必死で努力したんだから当然か。自分の納得のいく泳ぎが出来なかったのかもしれない。
「あれだけ頑張って練習してきたんだから誰か一人くらいは行けるかもって思ってたけど、現実は厳しかったか」
真琴もちょっと残念そうに言う。そこに滲み出る悔しさと諦め。真琴からすれば、ハルとまた泳げたことで十分だったのかもしれない。
「水泳は奥が深いです。やはり理論だけでは勝てない。燃えてきました!」
終わったと分かっていながらも水泳に闘志を燃やす怜に、私は思わず微笑んだ。意外と、怜もハルに負けず劣らず水泳バカだ。
「まあ今さら燃えてもしょうがないけどね」
渚が苦笑しながら言った台詞に、当然コウちゃんが意を決したように言った。
「……いいえ、しょうがなくありません」
驚いたようにコウちゃんを見つめる皆に向かって私も言う。
「そう、終わってない。まだチャンスがあるって言ったらどうする?」
「それってどういう、」
真琴の声に被せるようにコウちゃんが勢いよく言う。
「まだ明日があります!大会二日目!」
「だって僕たちのエントリー種目は全部今日で終わっちゃったんだよ!?」
「二日目は確か個人メドレーとあとはリレー……あっ、江ちゃんまさか!?」
察したように目を見開く真琴。その姿を見てコウちゃんは皆に向かって頭を下げる。
「ごめんなさい!皆さんに内緒でメドレーリレーにエントリーしてました!」
「「ええええーっ!?」」
「先生には言ってあったんだけど……」
「ごめん、私も知ってたんだ」
「結衣まで!?」
私の言葉に真琴が驚く。
「それじゃもし、リレーに勝てば」
「地方大会に出られます」
緊張した面持ちの怜の言葉を引き継ぐようにコウちゃんが言う。
それでも真琴や渚は急な展開についていけないみたいだ。
「無茶だよ!急にそんなこと言われても俺達、リレーの練習なんかなにもしてこなかったし!」
「どーしてもっと早く言ってくれなかったの?」
渚の言葉にコウちゃんは困ったように「だって遙先輩、リレーは気が進まないみたいだったし……」と眉を下げる。
そんな中、怜は決心したように唐突に「やりましょう」と一言告げた。
「え、怜ちゃん!?」
「これは僕達に与えられた最後のチャンスです。例え練習してなくても、やってみる価値はある!」
怜の言葉に渚と真琴が顔を見合わせる。
「私からもお願い。もう一度だけこの皆で泳いでみようよ。真琴、渚、あのときの景色、もう一度だけ見せて」
「結衣……」
「ゆんちゃん……」
私の言葉に二人は頷くと、「行こう!」と言って走り出した。
大会の会場からほぼ全速力でハルの家へ向かう。ハル帰ってるといいけど……。
いち早くハルの家へ着いた怜が玄関を開けようとする。が、鍵が掛かっていて扉はガチャガチャと音がしたまま開く気配はない。
「ダメですまだ帰ってない、みたいです」
ハルのことだから居留守という可能性もある。そう思ってか、怜が歯切れ悪く返す。
「ねっ……はぁっ……裏口……!」
息を切らしながら私が裏口の方を指差すと、「裏から入ろう!」と言って皆で裏口へ回り込む。
そこから勝手にハルの家にあがり、二階、お風呂場、キッチン、居間、と皆で探したが、ハルの姿はどこにも見当たらなかった。
「帰ってくるまで、待ちましょう」
そう言って怜が腰を下ろす。ハルが帰るまで長期戦に持ち込む気なんだろうか。
「ハルちゃん、リレー出てくれるかな……」
不安そうな渚の言葉に、私はどうしようもなく不安になってしまった。
ハルにとってリレーとは特別なものだ、と少なくとも私は考えている。リレーに関してだけはフリー同様並々ならぬ執着心を燃やしていた。でもそれはハルにとって大切な仲間とのこと。今のハルが、今のこのチームで泳ぐことを受け入れてくれるだろうか。
時計を見て待つこと一時間。外はすっかり暗くなり、時間も遅くなってきた。
「帰ってこない……」
「どこいっちゃったんだろう……」
心配そうにコウちゃんと渚が言うと、不吉な顔をして怜が「まさか……」と呟く。
「って怜ちゃん、不吉な顔して不吉なこと言わないでよ!」
「そうだよ、怜。そんな不吉すぎること言わなくてもさあ……」
「まだ何も言ってません!でも……」
まだ帰らないハルに不安そうな怜。そんな怜に真琴が声を掛ける。
「大丈夫だよ。ハルはそんなに弱くない」
「……」
本当にそう、なのかな。
「そうだ、携帯!電話してみればいいんだ」
渚が急に思い出したかのように皆に言った。一年生達はちょっと安心したように電話をかけようとする。
「あ、ねえ、ちょっと」
「早くかけてみましょう」
「ダメだ出ないよ」
「ねえ、ハルは携帯、」
「メッセージを残しましょう」
私の言葉を聞く様子もなく、一年生達は皆録音メッセージを吹き込む。
「ハルちゃん、今どこにいるの?」
「早く、帰ってきてください。皆心配してます」
「遙先輩、ごめんなさい!私、勝手にメドレーリレー、エントリーしちゃったんです……」
「そうなんだ、だからハルちゃん、明日皆で泳ごうよ」
「僕なら大丈夫です。理論は朝までに完璧に叩き込んでおきますから!」
「って怜ちゃん、それ失敗フラグー……」
そんなことを言っている間に時間になってしまったのか、渚は残念そうに携帯を切った。
「こんなぐだくだなメッセージで遙先輩、帰ってきてくれるの……?」
「大丈夫!こんなメッセージだからこそ、きっとハルちゃんの心に響いてくれる!……って、ハルちゃん携帯置いてってるー!?」
見るとテーブル脇には無造作に置かれたハルの携帯。やっぱり、そうだと思った。
「ハルは普段から携帯をあまり持ち歩かないの。メールも返さないし。ってさっきから言おうとしてたのに」
うなだれる一年生を見てると可哀想になってくるが、こうなってしまっては仕方がないかもしれない。残念だけど、ハルはきっと……。
「今日はもう遅いよ。皆帰った方がいい」
真琴の言葉にコウちゃんが食い下がろうとするが、真琴は首を横に振ってキッパリと告げた。
「多分、ハルは泳がない。棄権しよう」
「……結衣ももう帰った方がいい」
「私、家近いもの」
「結衣」
「それにハルの帰り、待っていたい」
私の言葉に真琴はもう何も言わず、ハルの携帯を持つと玄関へと向かう。そこでハルが帰るのを待つつもりなんだろうか。
「なんだかんだ言って、真琴が一番ハルとリレー泳ぎたいんじゃない……」
どのくらいたっただろうか、がらがらと玄関の開く音がして、私はハッと目を覚ました。いつの間にか居間でうたた寝をしてしまっていたらしい。
慌てて玄関へ向かうと、そこにはハルがいた。
「結衣……」
「おかえり、ハル」
ハルは驚いたように突っ立っている。そんなハルに、私は玄関先でぐっすり眠ってしまっている真琴の手からそっと携帯を取ると、ハルに渡した。
「なんだ……?」
「いいから、メッセージ聞いて」
ハルは黙ってメッセージに耳を傾ける。そして、僅かに表情を変えた。驚いたような、何かを得たようなそんな表情を。
そして、寝ている真琴を揺さぶり起こす。
「真琴、真琴」
「ん……ハル……?」
眠そうな顔でハルを見つめる真琴。まだ夢うつつのようで、ぼんやりしている。
そんな真琴に向かって、ハルは一言だけ告げた。
「泳ぐんだろ、リレー」
ハルがそう言った瞬間、真琴は驚いたように目を見開き、それからぱあっと顔を輝かせた。
そんな真琴の様子と、ハルの言葉に私も嬉しくて、嬉しくて堪らなかった。
――もう一度、見れるかもしれないんだ。あの時の景色。