先延ばしにしてきた報い
「ねえ……今日も着ていかなくたっていいんじゃない?」
「あら、だめよ!折角お母さんのもうひとつの浴衣引っ張り出してきたんだから……ほら背筋伸ばして」
「はーい……」
嬉しそうに指示を出しながらてきぱきと私に浴衣を着せるお母さんに何も言わず、ため息をつく。
今日もお祭りに、今度は真琴と出掛けることをお母さんに告げたところ昨日よりもいくらか上がったテンションで今度は別の浴衣を取り出してきた。昨日は赤地に花火の柄だったが、今日は紺地に青の紫陽花の落ち着いた柄だ。
「きっと真琴くんも喜ぶわよ」
ニコニコしながら何かを勘違いしているようにお母さんは言う。
「フツーにお祭り行くだけだよ?」
「二人っきりで?」
そう言われると黙り込むしかない。真琴が二人がいいって言ったんだ。私じゃないもん。
ピンポーン
ちょうどいいタイミングでチャイムが鳴る。私はにやにやしているお母さんに「じゃあねっ!」とだけ言うと玄関に向かった。
「お迎えありがと、真琴」
そう言って真琴を見てから私は暫し言葉を失った。
真琴は昨日までの私服と違い、今日はきちんと浴衣を着ていた。いつも真琴が着てるような服より幾分か落ち着いた色合いの浴衣はまるで真琴が知らない男の人のように見えた。
「結衣?」
困ったように私を見る真琴にハッとする。
「あ、えっと、その、浴衣着たんだね!うん、めちゃめちゃかっこいいよ!」
きっといつものように照れ笑いを浮かべてありがとうと言うのだろうと思って真琴を見ると
「……っ!」
真琴は何故か耳まで顔を真っ赤にして俯いた。
え、なに、その反応!?
「あ、ありがとう……」
漸く真琴が恥ずかしそうにしながら言う。
「結衣も浴衣似合ってるよ、すごく綺麗だと思う」
「なっ!」
顔を赤らめながらも真剣な顔で言う真琴に私もつられて顔を赤くする。
なんだこれ、なんだこれ。いつもより凄く凄く恥ずかしいんですけど……!昨日は何も言ってくれなかったくせに!
「と、とりあえず行こっか!」
「そ、そうだね」
やたらに赤くなった頬を冷ますように手をパタパタさせて扇ぐ。
お互いにギクシャクした感じで二日目のお祭りは始まった。
カランカランと下駄の音が響く。時折止まってはまた鳴り響く下駄の音は真琴のものだ。私がちゃんと歩けているか、確認してくれる。ただ、いつもみたいな会話はない。さっきの気恥ずかしさを二人して引き摺っているのか、お互いに黙ったままだ。
どうしよう。こんな気まずい感じになるつもりじゃなかったのに。やっぱりハルも誘えばよかったかな……。
「急にごめんね」
「え?」
突然の真琴の謝罪にきょとんとすると、真琴は「突然誘ったりして」と言う。
「別に平気だよ?特に約束もなかったし」
「……もしかして他に祭りに一緒に来たい人いた?」
真琴の不思議な質問に首を傾げる。他に一緒に来たい人がいたら、こうしてないし。というか、今一緒に来てるから分かってると思うけど。変な真琴。
「そりゃ真琴とかハルとか……昨日来た面子とだったら楽しいと思うし」
「凛とは?」
いつもよりほんの少しだけ鋭い声にハッとして真琴を見つめる。真琴の顔はこっちを向いてなくて、表情が分からない。
「……そりゃ来れたら楽しいとは思うよ」
昔みたいに。ハルと真琴と渚と。そこに怜がいて、コウちゃんがいて。凛もいたらきっと楽しいと思う。でもそれは今の私たちには難しい。それくらい分かってるはずでしょう?
それに凛は私に前みたいな関係を望んでいない。
私は早く凛にその答えを返さなきゃいけない。でも、どんな答えを返してもあの頃の日々が壊れてしまいそうで、怖い。
「……どうして、」
「ん?」
「どうして私達、大きくなっちゃったんだろうね」
私の言葉に下駄の音がピタリと止まる。私達の間に流れるのは遠くから聞こえる祭りの喧騒だけ。
「どうして私達、なにも知らないままでいられないんだろう」
ハルのことも。凛のことも。私自身のことも。
何も知らないあの頃のままだったら、きっと笑い合えた。
ハルは相変わらずフリーばかり泳いで、凛はそんなハルに食ってかかるように泳いで。そんな二人を真琴が楽しそうに見つめて。そこに渚や怜も混じって。
どうして今の私達はバラバラの方向を向いているんだろう。
私はこんなこと、ちっとも望んでいなかった。
凛が戻ってくればハルはまた昔みたいに泳いでくれるって信じてた。真琴だってハルと一緒に泳ぎたがってた。
私はそんな幼なじみ達の姿を思い出として残すのが、何よりも大切で、大好きなのに。
「結衣は……あの頃のままでいたいの?」
こちらを振り向く真琴の顔が暗闇でよく見えない。
「分かんないけど……でも、あの頃のままだったら、私は今も写真を続けてたよ……」
僅かに語尾が震える。楽しい祭りのはずなのに、なんでこんなに泣きそうになるの……?
「結衣には悪いけど……俺も凛ももう昔のままじゃいられないんだ」
「……どういうこと?」
真琴らしからぬ言葉に驚いて、見えない表情に目を凝らす。
暗闇で見えないはずなのに、私には何故か真琴が哀しんでいるように見えた。
「俺達、もう子供のままじゃいられないんだよ。結衣だって分かるだろ?」
「分かんないよ……」
駄々を捏ねるように呟いた言葉に真琴が苦笑する気配がした。しかし、その気配も一瞬で消えてしまう。
「結衣、もしかして……あの日、凛に告白された?」
「…………」
なんで。
なんで、真琴が。
「…………」
口を開いてもなんて言ったらいいか分からずにすぐに口をつぐむ。言葉が一つも出てこない。
「……やっぱり、そうなんだね」
「ち、」
違う、と言いかけて私はまた黙り込む。真琴の言う通りだ。私は凛に告白された。
でも、それでも、真琴には知られたくなかった。
「な、んで……」
漸く出てきた言葉はそれだけだった。でも答えは聞かなくたって分かる気がした。
だって私達は幼なじみだから。知りたいことも、知りたくないことも、何となく分かってしまう。
「……結衣の態度見てたらなんとなく分かるよ」
真琴は静かな声で言う。周りの音が一気に聞こえなくなる。
「凛が昔から結衣のことを好きなのも知ってたしね」
「…………」
私はそんなこと、知らない。
「結衣もあの頃は凛のこと好きだったんだよね?」
真琴の言葉は問いかけているようで問いかけていない。まるで全部知っていたかのように話し始める。
「俺、本当は分かってたんだ。それでも知らない振りをした。ハル達と泳ぐのは本当に楽しかったし、凛はすぐにオーストラリアへ行ってしまったし、これでいいんだと思ってた。俺たちはいつまでもこのままでいいんだって」
「でも、ハルは水泳を辞めた。同じくらいの時期に結衣も写真を撮ることを辞めた」
私のことまで言われて思わずドキリとする。核心に触れるような言葉に怖くなる。
「結衣は写真よりもハル達が泳ぐのを見てたりするのが好きみたいだったから……それはしょうがないかなって思ってた。ハルや結衣がしたいようにすべきだって思ってたんだ」
「でも、凛が帰ってきた」
「凛と勝負をして、負けて、ハルはまた泳ぎ始めた。結衣も段々と写真を撮り始めた。二人ともまた好きなことをし始めて、きっと元に戻れるって思ってたんだ。あの頃と同じように。でも、全然違った」
「あの子供の頃のままの気持ちではいられなくなったんだ。……凛も、俺も」
真琴が何を言いたいのかが全然分からない。幼馴染なのに。いつもはお互いが言いたいことをすぐにわかるはずなのに。
「本当はずっと言わないでおこうと思ってたんだ。結衣を困らせるぐらいなら、黙っていようって。そしたら俺たちはずっと幼馴染でいられる。あの頃のままでいられるって」
雲に隠れていた月がゆっくりと顔を出す。その光が私たちを照らし出す。
漸く見えた真琴の顔は笑っているのに、なんだか泣いているように見えた。
「だから、ごめん」
なんで真琴が謝っているのか分からない。分かりたくもない。私は、私はずっと、このままで。
「好きだよ、結衣」
今一番聞きたくない言葉を、一番聞きたくなかった人から聞かされた。
その言葉は私の知らない甘さを微かに含んでいて、何故だか泣きたくなった。
「ごめん、困らせるつもりじゃなかったんだ」
私はどんな顔をしているんだとう。真琴がそういうってことは相当困った顔をしているに違いない。
「でも、もうあの頃のままじゃいられなくなったんだ。ハルも凛も前に進もうとしていて、俺も前に進みたいって思ったんだ」
「真琴……」
真琴を呼ぶ声は掠れていて、言葉になったかすら怪しかった。それでも真琴はうん、と頷いてくれる。
「返事はいいよ。今はまだ。いつか結衣が答えてくれる気になったら、結衣の言葉で俺に聞かせてほしいんだ」
「…………」
私は何も言えない。うん、とも、いいえ、とも。どっちつかずの答えを宙に浮かせたまま、凛と真琴の言葉を聞かなかったようにしている。
「お祭り、行く気分じゃないよね」
「…………」
「家まで送るよ」
「い、い……すぐ、そこだから、一人で帰る」
「でも、」
「本当に、大丈夫だから……」
ゆっくりと、それでも真琴の申し出を断るように含んで言うと、真琴は察してくれたのか、ごめんねと謝ると、祭り会場の方へ一人で歩き始めた。
私は真琴の背中が完全に見えなくなると、踵を返して家の方向へと足を進める。
「……っ」
真琴にあんな寂しそうな顔をさせたいわけじゃなかった。私だって真琴のことが好きだ、大好きだ。大切な存在だ。
でも、それが恋なのか、真琴が抱いているものと同じ気持ちなのかと言われるとやっぱり分からなかった。
凛の時と同じだ。
違うのは真琴からはその言葉を聞きたくなかったという気持ちだけ。
昔から私にとって真琴は頼れる存在で、ハルとはまた違った幼馴染で、私が助けてほしいときにいつも助けてくれて。
だからその関係は絶対に壊したくなかったのに。
……本当は心のどこかで気付いていた。真琴が私をどう想っているかを。見て見ぬふりをしていたことに私は漸く気が付いた。
『ゆんちゃんって本当鈍感だよね!』
『鈍感すぎます。ありえない』
『……鈍すぎ』
気が付かない振りをしていたら、ずっとこのままでいられるって分かっていたんだ。真琴は誰よりも優しいから。
これは私のエゴに付き合わせ続けた罰だ。
もう、後戻りは出来ない。
だって私達はあの頃より大人になってしまったのだから。
カランと下駄の音をたてながら、祭りの喧騒から遠ざかる。
不意にあの楽しかった日々がもう二度と戻ってこない気がして、知らず知らずのうちに、私は静かに泣いていた。