最後に笑い合った日を想う
「お兄ちゃんが鮫柄でリレーに出るの……!」
焦ったような口調でコウちゃんがそう言ったのはお祭りの翌日、週明けのことだった。
「……そっかぁ」
私の返事はコウちゃんとは反対に抑揚のないもので、コウちゃんは少しばかり驚いたように私を見つめ、何か言いかけた口が開いたが、何も言わずに黙り込んだ。
「じゃあ、私今日は部活あるから行くね」
「あ……」
何か言おうとしたコウちゃんを振り切るように私はコウちゃんから背を向けると足を早める。
今は、何も考えたくなかった。
昨日から一夜明けて真琴は何事もなかったかのように話しかけようとしたけど、私はそんなに単純に出来ていない。
徹底的に真琴を避けようと、朝も早めに出てきたし、学校では話しかけられる前に逃げてしまった。今だって部活を理由に逃げようとしている。
そんな自分に嫌気と罪悪感が押し寄せる。
真琴は何も悪くないのに、私はまた逃げている。真琴が傷ついた顔をするのを分かっていながら、私は逃げることを止められなかった。
「なーんか、今日は大人しいな」
「……」
「おーい、副部長様」
「……」
「こらっ」
「あたっ」
スパンといい音がして、頭に刺激が走った。叩かれた頭を擦りながら、頭を叩いた人物を睨み付ける。
「加賀部長……一体何するんですか」
加賀部長は丸めたノートを手で弄びながら厳しい口調で言う。
「そりゃこっちのセリフだよ。先輩を無視するとはいい度胸だな」
「何の話ですか?」
「お前ほんとに大丈夫か?」
あまり大丈夫じゃないかもしれない。
そんな言葉を呑み込んで、大丈夫です、と言う。
「嘘つけ、さっきから俺が何度呼んでもぼんやりしやがって」
「……ほんとですか?」
私の言葉に加賀部長だけじゃなく、他の部員もうんうんと頷く。
「何かあったのか?」
そう言われても言葉が出てこない。こんなこと言えるはずがないのだから。
「……なんでも、ない、です」
「お前なぁ、」
少しムッとしたように声を荒げた加賀部長に被せるように柚香先輩の静かな声が響く。
「女の子には色々な悩みがあるのよ、加賀くん。そう無理に聞こうとしないの」
「そっ、そんなつもりじゃ……」
目に見えて気まずそうになった加賀部長は小さく「悪かったな」と言う。
「いえ……心配してもらえて嬉しかったです。でも本当に大したことじゃないので……」
本当に?
大したことじゃない?
「だから気にしないでください」
一番気にしてるのは自分のくせに。
加賀部長は納得いかないような顔で「おう」とだけ言うと、自分の執筆中の原稿に戻る。柚香先輩は「無理しないでね」とだけ言うと、興味津々といった顔つきの部員を宥めに行った。
こんな調子じゃ原稿だって進まない。
書きかけの原稿を保存すると私はパソコンの電源を切る。人によっては手書き原稿の人も多いけど、私はもっぱらパソコンだ。
「ごめんなさい、体調悪いので帰ります」
「……本当に大丈夫か?」
責任を感じているのか、送ろうかという加賀部長の言葉を断って、帰り支度を済ませると、私は部室を出た。
いつもより早めに学校を出て帰ろうとしたところで、聞き覚えのある声がフェンスの向こうから聞こえてきた。確かこっちはプールだ。
葉っぱに覆われているフェンスの隙間からプールをそっと覗き込む。
「おらおらー!もっと気合い入れて行けー!」
「笹部コーチ……?」
そこには何故か大きな声で水泳部を指導する笹部コーチがいた。あんなに渋っていたのに、いつの間にコーチを引き受けることになったんだろうか。
「渚、お前膝曲げすぎ。リレーの飛び込みにジャンプ力はいらねえんだよ!」
「真琴!フォームがなってねえ。肩が入ってねえんだよ!」
「怜、タッチが合わずに流れそうならキックを打て。そうじゃねえ!遙、倒れ込みながらタイミングを計れ。違う!もっとちゃんと怜を見ろ!……っ、ああっ、もう!」
鬼のゴローと呼ばれた指導の厳しさは健在らしい。ひとまず水泳部はうまくいっているようで、安心してその場を離れた。
「……あとは私の問題だけかぁ」
ボソリと呟いた言葉は私の中に深く沈み込んでいく。
……いつまでも逃げ続けられる問題じゃない。
その数日後、私は何故か笹部コーチの家に呼びだされた。
「お邪魔しまーす……」
玄関が開いていたので勝手に上がりこみ、奥に向かって声をかけると、「おう!上がれ」と返事が返ってきた。
奥からは何かを作っているような音と、美味しそうな匂いが漂ってくる。
「こっちまで来てくれねえか、今手が離せないんだわ」
「あ、はーい」
笹部コーチの言う通りに奥まで上がり込むと、そこには何故かこの暑い時期に鍋を一心不乱に作っている笹部コーチがいた。
「あのー、笹部コーチ……?」
「ちょうどいいとこに来てくれた、お前確か料理できたよな。ちょっと味見てくれねえか」
「はあ……」
笹部コーチに言われるままに鍋やら食べ物やらの味を見たり、火加減を調節したりする。本当に何をしているのか、さっぱり分からない。
「笹部コーチ、私なんで呼ばれたんですか?」
「あれ、言ってなかったか」
聞いてないです。とりあえず今日この日時で来てくれしか言われてないです。
「悪かった、つい言ったもんだとばかり……今日は水泳部で鍋をやろうと思ってな。お前には連絡つかないからって俺が呼ぶことにしたんだった。最近、顔見せねえって後輩たちが心配してたぞ」
私は思わず黙り込む。水泳部には今はなるべく近づきたくなかった。でも笹部コーチの好意を無下にする訳にもいかないし、なによりそう言われると弱い。
「なんかあったのか?あいつらに言えないことなら俺に相談でもいいぞ。ま、俺はあんまり役に立たないかもしれないけどな」
ははっと笑いながら、笹部コーチは手際よく鍋を作っていく。その手つきを見ながら、私は不思議な気持ちでその姿を見ていた。小学生の頃、笹部コーチはコーチだった。ピザ屋のバイトじゃなかったし、岩鳶SCのコーチだった。
なのに今はピザ屋のバイトで、岩鳶水泳部のコーチだ。
年月は環境を変えてしまう。ならば人なんて簡単に変わってしまうのかもしれない。
「笹部コーチ……笹部コーチは今、楽しいですか?」
気がついたらそんな質問がポロリと零れた。
「あ?」
怪訝そうな顔をする笹部コーチに私は慌てて取り繕う。
「ご、ごめんなさい、変な意味じゃなくてその、笹部コーチは私の中でコーチのままで……」
ごにょごにょとよく分からない言い訳をする私に笹部コーチは何故か「すまんなぁ」と謝ってきた。
「え?」
「ずっとお前たちのコーチのままでいたかったが……結局スイミングクラブも潰れちまって、今はしがないピザ屋のバイトだしな。がっかりしただろう」
「そんなことないです!ただ、笹部コーチは怖くないですか……?」
笹部コーチはきょとんとした顔つきで手を止める。
「怖いって?何がだ?」
「……昔と、変わってしまうこと」
年月がたてば人が変わるのは当たり前だ。
なのに、私はそれを受け入れることができない。
今までが居心地が良すぎたせいで、あの頃のままでいたいと願ってしまう。
それは変わってしまった人達への裏切りだろうか。
ピーターパンを夢見る年頃でもないのに、私はピーターパンが羨ましくて仕方がない。
「結衣……お前、やっぱり何かあったろ」
笹部コーチの言葉に私は視線をそらす。グツグツと煮えてきた鍋から美味しそうな香りが私の鼻をくすぐると、そんな気分でもないのにお腹はちゃんと空いてきた。
「あいつらと何があったかは知らないが……ちゃんと言いたいことは言った方がいいぞ。あとあいつらが言いたいこともちゃんと聞いた方がいい。後から後悔したところで遅いからな」
「……はい」
「ま、大丈夫だろ!お前たちは昔から仲がいいからなぁ」
笹部コーチは豪快に笑う。その笑い方を見てると少しだけ安心できた。
ピンポーンとチャイムが鳴り響く。
「お、来たみたいだな。悪いがちょっと出てくれるか」
「あ、はい」
真琴たちときちんと顔を合わせるのはなんだか久しぶりでちょっと緊張する。渚たちには心配かけてたみたいだし、ちゃんと謝らないと。
玄関先まで行って扉を開けようとした瞬間に、勝手に扉が開いて「お邪魔しまーす!」と渚が元気よく先頭を切って入ってきた。
「お、よく来たなー」
奥から笹部コーチの声がする。それに返事しようとした渚はぴたりと動きを止めて目を丸くした。
「あれ、ゆんちゃん!?」
「あ、ははは……その、笹部コーチに呼ばれて、ね」
「じゃあゴロちゃんちゃんと呼んでくれたんだー!ゆんちゃん、最近全然水泳部きてくれないんだもん」
「渚くん、玄関先で立ち止まらないでください。結衣先輩、お久しぶりです。部活お忙しかったみたいで、すみません……」
渚の後ろからひょっこりと顔を出した怜が挨拶をして、渚に続いて家の中へと入って行く。続けてコウちゃんと天ちゃんがきて、そして真琴とハルが顔を出した。
「……結衣来てたんだ」
「う、うん……」
どうにも気まずくて黙り込む。そんな私たちの様子を訝し気にハルは見つめていたが、何も言わずに家の中へと入って行った。
玄関先に残されたのは私と真琴だけ。何を言っていいか分からずに、私は逃げるように「笹部コーチの手伝いがあるから……」とだけ声をかけてさっと中へと戻る。
……本当に、どうしたらいいか分からない。
「なぜ……この真夏に鍋を……」
みんなが座る居間のテーブルのまんなかでぐつぐつ煮えたぎっているのは鍋。このくそ暑いのに、鍋。真琴が汗を額から垂らしながら、みんなの気持ちを代弁する。
「そりゃあ、水泳選手のスポーツ栄養学的な見地からに決まってんだろ。俺特製タンパク質ミネラルたっぷりの笹部鍋だ」
「鍋するならせめてエアコンを……」
渚が暑さに耐えかねて提案するが「んなもんねえよ」と言われてしまう。
私はお皿をみんなの前に並べながら熱い中ぐつぐつと煮えたぎるカニを見つめていた。
何故カニ鍋なんだろう……
「やっぱりやめにしませんか……」
「何言ってんだ絶対うまいから、さあ食え」
怜はしぶしぶとメガネを曇らせながら笹部コーチから皿を受け取る。
天ちゃんも訝し気にしながら鍋を口にした途端に「ほんと、おいしい!」と歓声を上げた。
「でしょう?この鍋、俺が水泳部だった時に開発したんですよ」
なぜ水泳部なのに鍋を開発したのか謎しかない。
「あ、これトマト鍋だ」
コウちゃんも嬉しそうに言う。
「結衣ちゃんも手伝ったんでしょ?」
「うん、手伝ったって言っても笹部コーチの言う通りにしただけで、大したことしてないけど……あつっ」
鍋の具のイカを食べてたら何かが中から出てきた……と思ったらもち米だった。いかめしまで入ってるとは笹部鍋は何を目指した鍋なんだろうか……。
そんなことを考えていると渚の後ろに積み上げてあった雑誌がどさっと崩れ落ちた。
「すまん大丈夫か」
「あら、大変」
笹部コーチと天ちゃんが雑誌を拾い上げて片付けている間に渚が雑誌をぺらりとめくる。
「なにこれ」
「何年も前のバックナンバー……?」
「笹部コーチ、ひょっとしてこういうの捨てられないタイプですか?」
はたから見る限り、グラビア雑誌みたいだけどお気に入りの子でもいたんだろうか。そんなことを考えながら鍋をつついていると、天ちゃんが突然「カニが燃えてますカニ!!!!!」と叫んだ。
カニは燃えてないけど熱さでどうかしちゃたんだろうか天ちゃん……。
鍋のあとはキンキンに冷えたスイカを食べながら、水泳部のみんなが持ってきた花火をやることにした。
「ついたついた!ほらほら怜ちゃ〜ん!」
「ちょっとこっち向けないでください!」
渚と怜は花火を持ったまま、はしゃぎまわっている。
「ちょっと渚危ないよ!花火けしかけるならもっとこうねずみ花火を足元にとか……」
「結衣先輩!何言ってるんですか!」
1年組とわーきゃー言いながら、ふと真琴の方を見るとハルと静かに線香花火をやっていた。
……何話してるんだろう。
前はあんなに距離が近かったのに、今はすごくすごく遠く感じる。
それは、私のせいだけれど。
「あー笹部コーチどうしたんですかこれー!」
コウちゃんが何かを持って嬉しそうにこっちにやってきた。
「なになにどうしたの?」
「何か見つけたのか?」
不思議そうにする子供組に比べてなぜか
「おいなに勝手に……!」
「ちょっと松岡さん!?」
と慌てる大人組。
さっきから妙に笹部コーチと天ちゃんが怪しいんだけど、どういう関係なんだろう……。
コウちゃんが持ってきたのは岩鳶SC時代のアルバムだった。
「おおー懐かしいー!江ちゃんも写ってる!」
「あ……」
そこに写ってたのは今は懐かしい頃の私たちだった。
ハルがいて、真琴がいて、渚がいて、凛がいて、コウちゃんがいて、私がいて。
みんな楽しそうに笑っていた。あの頃はただただ楽しかった。
「これクラブの裏でバーベキューやった時のだ〜!」
懐かしい写真を見るたびに胸がきゅぅと苦しくなる。
なんで今はみんなで笑っていないんだろう。なんでこんなに距離が遠く感じるんだろう。
「あ、それ私知らない!」
「凛ちゃんが転校してくる前だね」
「七瀬くん、このころから大人びてる」
「写真に写るときくらい笑えよなぁ」
「ハルちゃんはいつも心で笑ってるんだよね」
コウちゃんは必死で自分や凛が写っている写真を見つけ出そうとして、渚は写真を見るたびにいつの頃かをみんなに言う。天ちゃんも物珍しそうに見ていて、笹部コーチも懐かしそうにしている。真琴はみんなの様子と写真を見てうれしそうにしていて、ハルはいつもと変わらない。
私?私はみんなみたいに笑って写真を見れない。複雑な気分でアルバムから目をそらし、なんとなく怜の方を見た。
なぜか怜は苦しそうな、不機嫌そうなそんな表情を浮かべていた。
怜……?
「これ、小5の夏の大会の時のだ!」
真琴が声をあげたのは小5の大会の写真。ハルはこの頃から入賞の常連だった。私はそうでもなかったし、真琴は時たま優勝するレベルだった。
「この時もハルちゃん優勝したんだっけ」
「あれ、これ、お兄ちゃん……?」
コウちゃんがまじまじと覗き込む片隅に、見覚えのある赤い髪。
凛だ。この頃の凛は知らない。大会で時々見かける男の子ってだけだった。
それ以降は凛が写る写真がどんどん出てきた。
「おっ、この辺からは凛も写ってるな」
「転校してきたころだ!」
「そっか……そういえば凛って変な時期に転校してきたよね。小6の冬って……」
大雪でみんなで雪だるまを作った写真、強化合宿で張り切る写真、卒業前に岩鳶SCでやったパーティーの写真……どれもみんな笑顔で楽しそうに嬉しそうに笑っていた。
「懐かしい、な」
あの頃をこんなに懐かしく思うほど私たちは遠くまで来てしまった気がする。
もし叶うなら、私はもう一度だけあの頃のみんなに会いたい。
『見たことのない景色見せてやる!』
笑顔で私たちにそう言った小さい男の子も、そんな少年に憧れを思い抱いていた少女も、少年に引っ張られるようにリレーを繋いだ仲間たちも今はどこにもいない。
「結衣、どうかしたの?」
真琴がおずおずと小声で聞いてくる。心配そうな表情を浮かべて、私の瞳を覗き込む。
「……ううん、ただ懐かしくなっただけ」
私は潤んだ瞳を誤魔化すように目を伏せる。今でも思いだせるあのキラキラした日々。
私はハルと真琴とずっと一緒で、渚や凛も加わって、みんなで見たことのない景色をずっと見れると、あの頃はそう思っていた。
ううん、最近まで思っていた。
凛が私たちの前に現れたあの日までは。