人魚は醜い深海魚

深く深く、暗い海は何もかも飲み込んでしまいそうで時々怖くなる。姉様たちはどうしてここで笑って暮らしていけるんだろうか。嗚呼、やはり私が持っていないあの美しい鰭が姉様たちを美しく、輝かせているのだろうか。私は時々、酷く自分を嫌いになる。

陸には私たちのことを描いたお話があるらしい。その題は「人魚姫」。美しい鱗と尾鰭、気品ある顔立ちをした人魚の娘が人間の男に恋をするお話。恋をした人魚は溺れかけた男を救い、その男に恋い焦がれた。それだけでは飽き足りず、彼を助けた事実を伝えたくて彼に気づいてもらうために、自らの命ほど大切な声を差し出して、足を手に入れ、人間となる。しかし人間になっても、男には気づいてもらえず、人魚の娘は悲しみに暮れる。声と鰭を取り戻すには愛する男を殺すしか方法がない。それを悟った娘は自らの命を投げ出し、泡となって海の底へと消える。なんとも物悲しい話だ。
私はこの話が好きだ。陸の世界で伝わっているこの物悲しく、残酷な話が。鱗も尾鰭も家族も、なにもかもを失う惨めな人魚の娘を見て、自分を慰めていたかっただけなのかもしれない。
私たちの世界では、この人魚姫の話が実話として伝わっている。しかし、終わり方は物悲しくはなく、むしろ幸せという終わり方だ。
少し前、といっても何百年も昔の話。同じように人間の男に恋をした一人の姉様が、魔女のところへ行って、自分の宝物と交換に人間の足をもらった。なんとも美しい容姿をしていた姉様は、その人間の男に見初められ、結ばれ、幸せになったそうだ。そうだ、というのは人間の男との結婚式を挙げた翌日からその姉様は海へ一度も来ていないから。きっと、人間の男と幸せになったんだろう。そう嬉しそうに私の姉様たちはよく話す。

「あーあ、『人魚姫』の姉様の話、素敵よねえ」

「そうよね!憧れちゃう……」

「私も素敵な殿方にお会いしたいわ」

「姉様、こちらにはもう戻ってこないのかしら……お話だけでも聞きたいわ」

海の世界の人魚姫の話に色めき立つ、姉様たちはとても楽しそう。姉様たちのそんな姿を見ながらそっとため息をつく。
姉様たちはとても美しい。鮮やかな色の鱗をなびかせ、長く美しい尾鰭をくねらせる。微かな色気と華やかさを含んだその姿に感嘆のため息しか出てこない。
私は姉様のように美しくない。短く紅い尾鰭があざ笑うように付きまとう。実に醜い。
姉様たちのように何かを引き付けるような美しい歌声は喉から出ることはなく、海の上の迷い人を惑わすことも導くこともできやしない。
姉様たちのように私の血肉には不老不死などの力は何もなく、傷をつけられれば治るのに時間がかかり、姉様たちの倍は年を取るのが早い。たぶん、長くは生き永らえないだろう。
そう、私は不完全な人魚として生まれた。
海を治める父様はどこからか流されてきた私を拾って育ててくださった。姉様も変わらぬ愛情を私に向け、かわいがってくださった。それでも自分の鰭と鱗を見て感じてしまう。私は不完全な子なのだと。
だから、海の世界の人魚姫の話は嫌いだ。
美しい姉様が、人間になっても幸せになれるなんてそれこそ不公平だ。じゃあ、私はいったいいつ幸せになれるの?
それより人間が考え出した陸のお話のほうが好きだった。何もかもうまくいくことがなく、大好きな人のためを思って海の泡となった姉様。私の心を慰めてくれる唯一のお話。悲恋だからこそ生まれる美しさに私は焦がれた。
私は、あと何年、何十年かしたらきっと海の泡となり果てるだろう。そうなる前にたった一つでいいから美しいものを生み出したい。誰もが焦がれる美しさじゃなくていい。たった一人、私が誇れる美しさが私はほしかった。

そう思っていた矢先のことだった。
ほんのちょっとした好奇心で、私は陸のほうへ泳いでみようと思ったのだ。陸に住む人間を間近で、自分の目で確かめてみたくなった。
人魚は人間に姿を見られてはならない。それは古来からの掟だと、姉様たちにはきつく言い聞かせられていた。もし、人間に人魚としての姿を見られたらそれは重大な掟破り。罪を背負うものとして、もうこの海には帰ってこられなくなる。どちらにせよ、見つかれば捕らえられて、血肉を奪われるか、見世物にされるか、売り飛ばされるかだろう。世の中、人魚姫のようにそううまくはいかないのだ。
だから、本当にちょっとした好奇心だったのだ。
日が昇る前だったら人間はさほどいないはず。いたとしても、薄暗い海で見えるわけがない。そう鷹を括って、私は日が昇りきる前に姉様たちの目を盗んで、陸のほうへと泳ぎに出た。
いつもよりほんのすこし陸の近くへと泳いでいく。船も人の気配もない海は心地がいい。この辺は、魚を捕る漁師も少ないから、泳ぎやすい。
海の生物たちがすれ違うたびにこちらに関心を向けてくる。
何が言いたいの?と言うようにきつく睨むとそ知らぬふりをしてすーっと通り過ぎていく。嗚呼、この感じものすごく嫌だ。嫌な気分を振り払うように陸へ陸へと近づく。
この辺りは海の生物も少ししか見当たらない。何もいないような感覚に気持ちがよくなって一人でクスクスと笑う。そう、ここでは私一人だけなんだ。だれも私に憐みの視線を向けたりしないし、ばかにしたりしない。このちっぽけな世界でなら私は美しいものになれる。そんな気持ちに酔いしれて、私は油断してしまったのだ。

「君、だれ……?」

服を着たまま膝まで海に浸かった青年に、私は姿を見られてしまった。