この出会いこそが致命傷
見られた、見られた、見られた!
青年に姿を見られたことで私は頭がいっぱいになってしまった。少し気分が高揚して、浮かれていたせいか、私は近くまで青年が来ていたことに気が付かなかったのだ。
嗚呼、なんて馬鹿な事をしてしまったんだろう!
「あの、」
パシャりと音を立てて、青年が一歩近づく。その水の波紋が私に迫る前に、私はくるりと翻すと沖のほうへと泳ぎ始める。捕まったりしたら、終わりだ。人魚の血肉を狙う人間がたくさんいることは姉様たちから聞いている。一刻も早く、この場を去らないと。
「待って!」
青年の鋭い声に驚いて、私は思わずひれを止めてしまった。あ、と気づいた時には青年はすぐそばまで迫っていた。もう、お終いだ。
でも、これでよかったのかもしれない。ちっぽけな世界で優越感に浸るのも、広い海の世界で孤独になるのも、どちらも私が望んでいることじゃないから。
観念して、青年の方を振りむく。
青年は茶色い髪をぐっしょりと濡らしており、私を追ってきたせいか、海水は彼の腰まで飲み込んでいた。
深い海の底と同じ色の大きな瞳は私をじっと見つめており、深海と同じ色の瞳にとらわれるとその場から動くことができなかった。
「……いだ」
青年が何かをつぶやいた。そして、その深い海の色をたたえた瞳から涙が一つ、二つとこぼれる。
「え……?」
「綺麗だ」
青年はほほにこぼれた涙をぬぐうと、瞳にはその滴を浮かべたまま、もう一度はっきりと口にした。
驚いた私の醜い姿を瞳に映して。
「あ、の、」
青年の言っている意味が分からず、私は尋ねようとして言葉を止める。
こんなことをしている場合じゃない。早く、早く、逃げないと。
それでも私はこの場を動くことができなかった。
だって、涙を零す彼の姿があまりにも美しかったから。あんなに美しいと妬ましくさえ思う姉様たちよりも、彼はとても美しかった。
「……あ、あ、ご、ごめん」
暫くしてから彼はハッと気づいたように、ごしごしと手で瞼を擦る。
「いきなり泣いたりして、気持ち悪かったよね」
「いえ……」
気持ち悪いのは私でしょう?
そう言おうとして、私は口を動かす。それでも、なぜだろう、彼を目の前にすると思うように言葉が出てこない。
何か言おうと思っても、口を動かしても、声が出ない。まるで声を取られてしまった姉様のよう。
突然のハプニングに頭が付いていけないのかもしれない。
「……俺はエドワード。君は?」
「…………アカネ」
「アカ……アカネ、か。綺麗な、名前だね」
彼……エドワードに名前を尋ねられ、なぜか私はすんなりと名乗ってしまっていた。
彼は私の名前を聞くと優しく柔らかく微笑む。
とても、変な人間。
普通に私を見たら、驚いたり、気持ち悪がったり、捕まえるものじゃないの?
「アカネ、えーあー、君はその……人魚、なの?」
エドワードは言いにくそうに口ごもりながら私に聞いてくる。私の気味の悪い尾鰭を見て、人魚かどうか戸惑っているんだろう。当たり前だ。
「……そうともいうし、違うともいう。気持ち悪い鰭を見れば分かるでしょう」
自嘲気味に笑いながら、私は鰭を見せつけるように彼の目の前で跳ねて見せる。
その時、白んでいた空のずっと向こうから、眩しい朝日が一面を照らした。
「……っ」
眩しい光に思わず目を細める。ますます嫌な光り方をする鰭に嫌気がさして、私はすぐに鰭を海の中へ隠そうとする。
赤い短い鰭は太陽の光に触れると色をオレンジへと変える。もっと、綺麗な色ならいいのに。深い深い海の色がよかった。
「……綺麗な色だね」
朝日を見ながら眩しそうにエドワードが言う。とても楽しそうに口元を緩めて、私に微笑みかける。
「……そうかしら」
赤は苦手な色だ。血の色、死に近い色。姉様とも似つかわず、暗い深い海とも合わない色。
「君は温かい色が苦手なの?」
深い海の色をたたえた瞳をこちらに向けて、エドワードが尋ねる。その瞳の色は光を招き入れて淡い色へと少しだけ変わる。
「……自分の身に纏っている色は嫌いよ」
独り言のように吐き捨てる。彼の瞳のような色は羨ましい。なんて美しい色をたたえているんだろう。
人間の男という事実も忘れて、私は彼をじっと見つめる。
その視線に気づくと彼は照れたように笑い、濡れた髪をかき上げる。茶色い髪が光に当たってすぅっと薄い色へと変わる。ため息が出るほど、素敵な色だ。
「勿体ないなあ」
「え?」
「君の色は俺が今まで出会ったきたもの、見たものの中で、一番、綺麗だ。それを君は分かっていないんだね」
エドワードの言葉に私は眉を寄せる。彼が何を言っているのかがさっぱりわからない。
同情しているのだろうか、憐れんでいるのだろうか。この呪われた色が美しい?そんな馬鹿な。
彼の真意を探ろうとじっと注意深く観察してみたけれど、どう見ても本当のことを言っているようにしか見えずに混乱する。
彼が私を見る目はとても優しい。慈愛に満ちた深い感情をこめている。その視線に私は耐え切れずに顔をそむけた。
彼がどういうつもりか知らないけれど、取って食おうという気は少なくとも今はないみたいだ。なら、とっとと自分の元いる世界へ戻らなければ。
くるりと背中を向けて、海の中へ飛び込もうとすると、また同じように焦った声が私を引き留めた。
「あっ、待って!」
「今度は何?捕まえて血肉をもらう?それとも売り飛ばす?」
私の言葉にエドワードは目を丸くすると、慌ててぶんぶんと首を横に振る。乾ききれてない水しぶきがこっちにまで飛んできて、私は少しだけ目をつむる。
「そうじゃないよ!ねえ、また会えるかい?」
「人間に会うのは掟で禁じられているの。見られるのも話すのもダメ。こんなこと、バレたら海にいられなくなってしまう」
「そうか……じゃあ、俺は今日何も見ていない。話もしていない。ただ、ここへやってきて独り言を言ってただけだ。それでもダメかな?」
「……私、朝日は嫌いなの。夜中……誰もいない海ならここまで来れる日がいつかはあるかもしれないわ」
私が小さく言った言葉に彼はぱぁっと顔を輝かせる。海の底を照らす太陽の光のような笑顔。
心がわずかにじんっと温かくなる。
「俺は夜中毎日来るよ。ここへ。一人で。独り言を言いに」
「……そう」
こんなの一時の戯れだ。私も彼も本気にしてない。だって彼は人間で、私は人魚。本来交わることのない種族なんだ。人魚姫みたいに声の代わりに足をもらって陸に上がったり、逆に彼が人魚になることなんてできやしないんだから。
私は今度こそ背中を向けるとぽちゃんと小さな音を立てて、海の底へと向かう。
その背中を追いかけるように、「またね、アカネ」という声が響いてきた。