変わっていく君、変わらない私達
「結構……荒れてるね」
真琴がひきつった顔で言った。声が微妙に震えている。まあ、怖がりな真琴はそういう反応になるだろう。私達が通っていた岩鳶スイミングクラブは予想以上に荒れ果てていた。外観はひどいもので窓ガラスは割れてるは、ペンキは剥げてるわ、おまけにインクが雨かなんかで流れ落ちたのか怖いことになっている。
「こりゃすごいねー……真琴大丈夫?顔青いよ?」
「だ、大丈夫……」
……大丈夫じゃなさそうだね。
「はい、これ一応。お清めの塩」
渚が白い粉を取り出す。……塩?どうすんの?
「実はここ……出るらしいんだ」
「脅かすなよ!!」
「本当だよ?」
「えぇっ!?」
真琴がビクリと体を震わせる。もう泣きそうだ。
「この間も影が動くのを見たとか、すすり泣く声が聞こえたとか……」
「あー、それ私も聞いたことある。クラスの女子が言ってたよ。火の玉が蠢いてたとか、水音がどこからともなく聞こえたとか……」
「水……」
すかさず反応するハルの横で「へ、へぇ〜……」と言いながら、建物を見上げる真琴。顔色が若干青白い。
「大人しくしててね」と言いながら渚は私達に塩をまく。この服、気に入ってるからあまり塩まみれにしたくないんだけど。
「……っ!おい」
何かに反応したかのようにハルが私達を呼び止める。まだ建物に入ってないのにお化けでも見たんですか遙さん。真琴はすっかりびびって「ひぃ」と小さく叫び声をあげている。なんでもいいけど重いから私にしがみつかないでほしい。
「どしたのハル」
「これ……塩じゃなくて砂糖」
……さとう?だと?
「……なーぎーさー!!私の服、砂糖まみれになっちゃったじゃん!」
「まぁまぁ、落ち着いてよゆんちゃん!ほら、行こう!!」
私の怒りをはぐらかしつつ、はりきって先を行く渚に慌てて着いていくと、真琴がピタリと側によって来た。男女逆な気がするのは気のせいだろうか。
「まぁ、こういうのって気持ちの問題だし、塩でも砂糖でもどっちでもいいよね」
「いくない!蟻が寄ってきたらどうすんのよ!」
「ベタすぎ」
「ボケとしては古典的すぎるよね……ってうわあああ!なにぃ!?」
いきなり何かの物音がしたと思ったら、真琴がぎゅっとしがみついてきた。重い。暑苦しい。
「……真琴、重い。とゆーかこういう場合、私がしがみつく側じゃない?」
「ご、ごめん。でも……」
渚の方を二人揃ってみると、渚は「あー……空き缶蹴飛ばしちゃった」と言った。
しかし、そう言う渚の顔が真っ暗な闇の中から懐中電灯によって照らし出されている。
……怖いよ、渚。
「お前……わざとやってるだろ!!!」
ですよねー。渚は怖いの好きだもんね。
「マコちゃん、本当昔から怖いのダメだよね」
「知ってるなら、やるなよ!!」
「ごめんね」
全然反省してない声で謝る渚。そのまま、鼻唄でも歌い出しそうな雰囲気でどんどん進んでいく。
私はしがみついてくる真琴を引きずりながら渚の後を追う。
スイミングクラブの中を歩いて回っているうちに懐かしい気分を思い出した。取り壊し前と言っても、中は思ったよりかは綺麗で、あの頃の面影を残していた。
「うわ〜懐かしい!!」
渚が歓声をあげる側で真琴も嬉しそうに「中は思ったより荒れてないね」と言う。
「ここって休憩室じゃない?アレあるかなぁ……」
「アレって?」
きょとんととした顔で聞いてくる渚達を手招きして私は壁際に進む。
「これ、僕達がリレーで優勝したときの写真!」
「そうそう。懐かしいなぁ……。本当に凄かったよ、あの時のリレー」
『見たことのない景色見せてやる』
ハルに向かってそういいきった凛は、リレーで素晴らしい景色を見せてくれた。手に汗を握るようなあの感覚、一人一人の泳ぎ、みんなで繋ぐ一本の道。
あの忘れられない瞬間をどうしても形にしたくて、たまたま持ってきていたカメラで、夢中でシャッターを切った。
懐かしいな、と思い出していると、隣でハルがじっと写真を見つめていた。
「ハル?どうしたの」
「……」
「ハル……ハル、行くよ」
真琴の声にハルはハッとするとそのまま踵を返す。その後ろ姿がどうにも寂しそうに見えたのは私の気のせいだろうか。
「目印ちゃんと残ってるかなぁ」と不安そうに呟く渚の声に私はここに来た本来の目的を思い出した。
「あ、そっか。トロフィー取りに来たんだっけ」
「もう!ゆんちゃん忘れてたの?」
「えへへ」
会話を続ける私と渚の後ろで真琴はハルにくっつきながら、びくびくと歩いている。どんだけ恐がりなの。
「真琴がそろそろ限界みたいだし、とっとと見つけて帰ろ――ん?」
廊下の向こうからこっちへ近づく人影が見えた。足音が静かに響き、その人物はゆっくりとこちらへ向かってくる。
真琴は「ひぃっ」と短い叫び声をあげるとハルの後ろに隠れた。私はそのまた後ろに隠れて縮こまる。
「よぅ」
表れたのは帽子を目深に被った男の人。ストリートっぽい雰囲気を漂わせている。この辺じゃ見かけない感じだ。
「誰?」「わかんないよ!」とこそこそ言い合う渚と真琴の前でハルはその人を食い入るように見つめていた。瞳に不思議な色を浮かべて。
しかし、どこかで見たことある気がする。誰だろう。黒い服、低い声、ギザギザの八重歯、赤い髪……まさか
「まさか、ここでお前らと会っちまうとはな」
そう言ってその人は帽子の後ろを軽く引っ張りパチンと鳴らした。その光景が小さい頃のあの光景とはっきりと重なる。
「凛……?」
「凛!」
「凛ちゃん!オーストラリアから帰ってきたんだ!!」
渚は嬉しそうに凛にまとわりつく。私も凛に話しかけようとして、
「――っ」
な、に、その目。
凛はいままでに見たことのない眼差しでハルを見つめていた。またハルもその視線をそらさずに真っ直ぐ見つめ返す。
怖い。凛が、凛じゃないみたい。
「ハル」
渚と真琴が嬉しそうに話しかけるのを遮って、凛はハルだけに話す。まるでハル以外は興味ないと言うように。
「お前まだこいつらとつるんでたのか?……ハッ、進歩しねぇな」
「凛……どうしたの?」
そこにいるのは間違いなく凛なのに明らかに私達が知ってる凛とは違った。
戸惑う私達に構わず凛とハルは話を続ける。
「ちょうどいい。確かめてみるか?勝負しようぜ」
そしてそのまま二人は廊下の奥へと進んでいく。
「……なにこれどゆこと?」
「僕達置いてきぼり?」
「みたい……」
「ちょ、待ってよ!ハル!凛!」
私と真琴と渚が慌てて二人を追いかけると二人は懐かしいプールのある場所へにいた。
「俺とお前の差、教えてやるよ」
「いいぜ、やってみろよ」
二人は上を脱ぎ、プールで泳ぐ体勢に入っている。
「え、本気で泳ぐ気!?ちょっと、ハル!凛!」
私の言葉に構わず、ハルは下まで脱ごうとする。
……あの、私いるんだけど。
真琴が私の目を隠し、止めようとするが遅かった。
「ああーっ!……って朝からずっと履いてた!?」
見てみるとハルはきちんと水着を履いている。もちろん凛も。
……こいつら本物の水泳バカだ。
「早くアレ止めないと!」
「別にいいんじゃない?」
「いや、大惨事になるよ……でも二人は止まる気更々なさそうなんだけど」
二人はお互いを睨みながら飛び込み台まで走ってく。
「行くぜ、ハル!……レディーゴッ……!」
凛の言葉が止まった。ようやく気がついたらしい。
「水、ないね」
渚が持っていた懐中電灯でプールを照らす。水もなく、錆び果てたプールにはネズミが走っていた。
「だから止めとけって言ったのに……」
「バカだよね」
凛はチッと舌打ちをすると興が削がれたようにその場を去る。慌てて追いかけようとすると、凛はピタリと足を止めた。
「そーいやお前ら、これ見つけにきたんだろ?」
凛の手に乗っていたのは紛れもないあのトロフィー。
「俺はもう入らねえから。……こんなもん」
凛は吐き捨てるようにそう言うと無造作にトロフィーを投げ捨てた。咄嗟に手を伸ばしたが、間に合わずトロフィーはカランと音をたてて床に転がる。
「ちょっと待って……待ってよ凛!」
そのまま去ろうとする凛を私は必死で追いかける。凛は数歩先で足を止めると「なんだよ」と私の方を振り返る。
――冷たい目。
「ひ、久しぶりだね……元気だった?」
「そんなこと聞いてねーよ。何の用だって聞いてんだ」
冷たい声に怯みそうになるが、ぐっとこらえて私は無理矢理笑みを浮かべる。
何の用かって、決まってる。ずっと、ずっと待ってたんだから。
震えそうになる声をぐっと押さえつけ、私はずっと聞きたかったことを口にした。
「ねぇ、凛。あの時の約束、覚えてる?」
「……知らねぇ」
凛は小さく呟くと今度は私にはっきりと背を向け、その場を後にした。まるで私を拒絶するかのように。
――凛は、変わった。
あのあと、トロフィーと写真を回収しその場でお開きとなった。ハルは相変わらずの無表情だし、渚はちょっと寂しそうな顔をしていた。真琴は心配そうな顔でハルと私を見つめていた。
私を家まで送ると言って聞かない真琴とゆっくり家路につく。
「結衣……凛と何かあったの?」
「……何かとはなによう。さっき、再会したばっかだよ?何かあるわけないじゃん」
「さっき、結衣が凛を追いかけたあとから、結衣の様子がおかしいからさ……凛に何か言われたのかと思って」
『……知らねぇ』
掠れた低い声が頭のなかでこだまする。こう言われるかもしれないってことは分かっていたはずだ。でも、やっぱり凛は昔とは変わっていないんだって、期待している自分がいた。
「……本当に、何でもないよ。ただ、」
ただ、
「凛、変わっちゃったね……」
あの時、貴方が見せてくれた景色はもう二度と見ることが出来ないのだろうか。