月光亮のミューズ

エドワードと別れて一人になった途端、一気に頭が冷えた。同時に自分がとんでもないことをしでかしてしまったことに、血の気が引く。こんなことバレたら本当に、本当に、私は一人になってしまう。なんて愚かなことをしてしまったんだろう。
……もう陸へは近づけない。彼に会うことは許されないのだから。

誰にも何にも見つかりたくなくて、私はいつも姉様たちがいるところから遠ざかるように海の底を泳ぐ。陸から大分離れた場所にある海の深く。人間がなかなか立ち入ることのできない場所にあるその空間は私のとっておきの場所。
初めて見つけたときは驚いて口もきけなかった。誰かに言うことなんてとても出来なかった。私だけの秘密の場所。姉様や父様に知られてしまったら、近づくなと言われるに違いないもの。
それはとても大きな船だった。
いつから底に沈んでいるのか、一体なんの船なのか、私には分からなかった。船の中は白い骨だけとなった人間が幾人も見られたので、恐らく事故なのだと思う。たくさんの部屋がある中の一室に窓がない部屋が一つだけあった。壊れたものがたくさん置いてあるその部屋が私は大好きだった。知らないもの、見たことないものがたくさん置いてあった。多分、古い物かもしくは水や海水に触れてダメになってしまった物が多いのだと思う。文字が丸く並べてあるところに針が2つ別々の場所を指している茶色のものが、いろんなもののなかで特にお気に入りだった。
私はそれを座っていつまでもいつまでも眺めるのが好きだった。それがどういうものかも知らない。どういうものだったのか、だれが使っていたのかも。でも動かないそれを見つめていると心が落ち着くのを感じた。
この部屋は私が本当に一人になりたい時に来る場所だった。誰にも会いたくない、そんな時に。
それは必ず私の心が弱っている時だった。私が悲しみや苦しみに押しつぶされそうなときは誰にも知られないように一人でここにきて、泣いた。涙は流してもすぐに海に溶けていってしまう。それでも枯れることはなかった。人前で泣くのは絶対に嫌だった。姉様は私を憐れんで慰めてくれるに違いない。姉様は私と違って本当に綺麗で優しいから。そう思う自分がたまらなく嫌いだった。
いつものように一人で茶色のものを見ながら私は一人考える。
もし、今日のことがばれたら私はどうなってしまうの……?
きっと姉様たちには二度と会えない。ここよりもっと暗い暗い底へ追放されてしまうのかもしれない。
そうしたら、私は、また、
独りに、

「い、や……」

震える身体をぎゅっと自分自身で抱きしめる。心が、体が、芯から冷えていくのを感じる。
もう独りは嫌だ。海は広くて深いから、すぐに一人ぼっちになってしまう。私は海も、一人も好きなはずなのに、いつもそれらを怖がっている。
不意に彼の瞳を思い出した。そこから流れる涙も。
あんな風に綺麗に泣く人を初めて見た。涙を綺麗だと思ったのも初めてだった。私の色を綺麗だと言った人に会ったのも、そもそも人間と喋ったのも初めてだった。

「変わった人間……」

私も人魚の中では変わった方だと思っていたけれど、それ以上に彼は変わっていた。彼はどういう人間なんだろう、なんで私の色を綺麗だなんて、言ったんだろう。
私の色よりあなたの瞳の色のほうがずっとずっと綺麗なのに。

「エドワード」

ぽつりと呟いた名前は部屋中に広がっていく。もう会えないって、会わないって決めたはずなのに、いつの間にか私はまた彼のことを考え始めていた。


「……アカネ、アカネ」

「…………」

「アカネ!」

「は、はい!」

姉様に名前を叫ばれてハッとして返事をする。我に返ると姉様が訝し気に私をまじまじと見つめていた。

「アカネ、最近ぼーっとしていることが多くない?どうかしたの?嫌なことでもあった?」

「い、いえ……大丈夫です」

「そう?何かあったらすぐに言うのよ。貴女は私の大事な妹なんだから」

「ありがとうございます、姉様」

姉様に笑みを返しながら私は心が黒いものに蝕まれていくのを感じる。姉様はどうしてこんな私なんかにやさしいんだろう。自分たちが美しいから?美しい肉体には美しい心まで宿るの?それとも私のことを憐れんでいるのかしら。そう考える方がずっとずっと楽だ。私はどうしても姉様たちのことを大切だなんて思えない。
姉様に優しくされるたびに私はいつも心の中に黒いものが湧き上がるのを感じた。嫌な感情。汚い私。やはり私は綺麗なんて色からほど遠い。


彼に出会ってから2週間ほどたった夜。私はまた一人陸へと泳いでいった。2週間も姿を現さなければ、彼も諦めているに違いない。そう心の中で願って。
陸の近くにある大きな岩場に背を預けながら海の上に浮かぶ月を眺める。水の上に浮かんで形を揺らめかせながらも大きな月はその場から動かない。顔を上げると、大きな丸い月が私を見下ろしていた。
太陽は嫌いだけれど月は好き。暗い闇の中でたった一人で光る明かり。太陽ほど強くなくても新海まで照らしてくれる優しい静かな光。それを目指して泳いでいけばいつだって海の上に出られる。貴方に手が届けばいいのに。そうしたらこんなに恋しく思わないのに。そう思って、水の上の月を触ると揺らめいて消えてしまった。

「……あ」

あたりがわずかに暗くなったかと思えば、雲が月を覆い隠してしまった。今夜はここまでかと帰ろうとしたとき、

「やあ、今日もいるかな?」

静かな男の声が私の耳に届いた。
まさかと思い、岩場の陰に姿を隠しながらそうっと陸を見る。陸にたたずんでいる人影は分かるが、薄暗くて顔が判別できない。

「アカネ、いいよ。出てこなくて。今日も隠れて俺の話を聞いてくれるかい?」

そう言って柔らかな口調で男は語り始めた。今日あったこと。朝ご飯のパンを焼き過ぎてしまった、隣に住むラベンダーさんの娘さんを紹介されて困った、職場でちょっとミスをしてしまった、夕ご飯のおかずを犬にあげてしまった。そんな他愛もないことを一人で勝手にしゃべりだす。

「アカネ。今日も聞いてくれてるかな?もしかしたら俺の話がつまんなくてとっくに海の中へ帰ってしまったかな。それでもいいよ。もう一度君に会えるまで、毎日来るから。
あの日からもう一度君の綺麗な色を見たくて、君に会いたくてたまらないんだ。君は自分の色が醜いなんて言ったけれどそれは違う。人には価値観というものがあって、きっと君と俺の価値観は違うんだろうね。でもこれだけははっきりと言えるよ」

月が辺りを照らした。明るい月夜の下で、深い青を秘めたまっすぐな瞳が告げる。

「君は綺麗だよ、アカネ」

「……っ」

声が出そうになって慌てて口を手でふさぐ。彼の言葉が耳から離れない。いきなり、なんてことを言うんだろう。ありえない、信じられない。そうやって私を混乱させて楽しんでいるの?
でも、あの口ぶりからして、彼はあの日以来毎日ここへやってきたというのだろうか。私が来ても来なくても、毎日ここでああやって自分のことを話して。
暫く彼はそこでたたずんでいたが、やがて踵を返して立ち去ってしまった。
耳の中で彼の言葉が響き渡る。

『君は綺麗だよ、アカネ』

思わず彼の背中を追いかけたくなる。
まって、なんで、そんなこと言うの?私のどこを綺麗だというの?私はこんなに醜くて、汚い色で。人魚とは程遠いのに。貴方のほうがよっぽど綺麗なのに。それなのに、なんで私を綺麗だというの?
伸ばしかけた手は宙を切ってそのまま下へ落ちる。
そんなことを聞いてどうするの。
彼は人間で、私は人魚。違う種族が関わることは許されない。それはこの海の世界だけでなく、人間界だってそう。それなのに、彼の言葉が、瞳が、私をとらえて離さない。

「エドワード……」

彼の名前を口にすると、何故か無性に泣きたくなって、雫がぽたぽたとこぼれて海の中へと落ちていった。