もう、手遅れだったんだ。
それに気づくのが、少し遅かっただけ。
それなのに、どうしてこんなに心が痛いんだろう。
甘い甘い薔薇の香りが好き。私にぴったりの香りだから。
ふんわりと香るフレグランスを付けると、少しだけ特別になれる気がする。
誰よりも、特別なワタシに。
フレグランスを付けた手首を軽く振ると、周りに花が咲いてるような香りが溢れる。
微かに香るその匂いに男の子たちは意外と敏感だ。
「今日、すごい甘い匂いがする。俺の好きな匂いだ。食べちゃいたい」
「おお、悪かねえんじゃねえか。ああ、似合ってる」
「アンタってば、そーんな甘い匂いさせちゃって。もしかして誘惑してる?」
「今日のお前、いつもより甘いな。うん、そういうの好きだ」
「いい香りがするね。君にぴったりの女の子らしい香りだ」
いろんな男の子たちの言葉に微かに笑って、「ありがとう」と返す。
少しだけ小首を傾げて上目遣いで見つめると、みんな同じように顔を赤くして視線を反らす。
男の子のこういう分かりやすくて、可愛いところが大好き。
それでも彼だけは首を縦に振ることはなく、はっきりとした口調で伝えてきた。
「俺は好きじゃない」
初めてだった。私にそんな口をきくひと。
だって周りの男の子はみんな私に夢中だもの。
だから、そんな人がいるなんて知らなかった。
それ以来、設楽聖司は私の中でトクベツになった。
設楽聖司先輩と出会ったのは去年の春。玉緒くんに紹介してもらったことがきっかけだった。
聖司先輩はむっすりとした表情で「なんでこんな面倒なことを……」というようにひたすら玉緒くんを睨み付けていた。玉緒くんはそんな聖司先輩に気付かないようにニコニコ笑いながら私を紹介した。
「琴宮佳音さんだよ。いつも話してるだろう?うちの生徒会の大事な副会長さ」
「だから、なんだ。別に俺には関係ないだろう」
「後輩と交流を持つのも、先輩としてやっておいた方がいいだろう」
「うるさい、お節介だ」
「あ、あの、すみません……」
申し訳なさそうに聖司先輩の顔色を伺いながらとりあえず謝ると、聖司先輩はもっと不機嫌になって、「なんでお前が謝ってるんだよ」と苛立たしげに言う。
「ええと、私何かしちゃったかなって……」
上目づかいに見つめてそうっと尋ねると、聖司先輩はふいっとそっぽを向いて、「別にお前が何かしたわけじゃない」と冷たい声で言う。
「はぁ、よかったぁ……」
嬉しそうに頬を緩ませて、少し弾んだ声を出すと、聖司先輩は少しだけ頬を赤らめてこっちをちらりと見る。
やっぱり、この人も他の男の子と一緒だ。
私がニコリと笑って見せると、聖司先輩は慌てて視線をそらした。
かわいいひと。
玉緒くんはそんな聖司先輩と私の様子を見てにこにこと笑っている。
「仲良くなれそうでよかったよ」
「はいっ!」
「どこがだよ……」
聖司先輩とはそんな些細な出会いだった。どの男の子たちとも変わらない出会いと変わらない態度。
だから最初は気にも留めなかった存在。
それなのに、あんなこと言うなんて。
私がお気に入りのフレグランスを付けると、男の子たちはみんな振り返ってこっちを見つめる。そして熱っぽい視線でじっと見つめ続ける。
視線に暫く気づかずにいて、それから気づいたように首をかしげて振り返ると、みんな一様に顔を赤らめて視線をそらすのが、とても可愛くて、面白くて、楽しくて。
みんなが私の付けている香りを気に入ってほめてくれるのがうれしくて。でもどこかつまらなく感じていた。
みんなの向ける視線も言葉も態度も似たようなものばかりで、飽き飽きしてしまう。
聖司先輩もみんなと同じだと思っていた。
だからデートに誘った時にふんわりと香るように薔薇の香りをつけて、カレンのオススメのモード系の服でコーディネートして。
そうしたら聖司先輩もみんなと同じように、
「その香り、」
ほら、きた。
気づかないふりをしてとぼけたように首をかしげる。
「はい?」
聖司先輩の顔を見上げて、私は微かな違和感を感じた。
なんで顔を赤らめていないんだろう。それどころか、ちょっと不快そうな顔色。
なにか、やらかした?
「その香り、俺は好きじゃない」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
だって、他の男の子たちはみんな好きだって言うのに。
みんな同じことを繰り返すように、素敵だね、似合ってるね、かわいいねって。
なのに、この人は、好きじゃない、なんて言うの。
この日のデートは散々で、私は早々と聖司先輩と別れて家に帰ってしまった。
それ以来、私はあの薔薇の香りがあまり好きじゃなくなってしまった。
あの香りとともに、私自身まで否定されてしまったような気がして。
聖司先輩はどんな香りだったら、好きだって言ってくれる?似合ってるね、って笑ってくれる?
あの人は何が好きなんだろう。何が好みで、何を愛しているの?
そこまで考えて私は頭を振る。
誰かに振り回されるなんて、バカみたいなことを。
「佳音ちゃん、最近変わったね?」
旬平くんにそう言われて驚いて彼を見つめる。
私が、変わった?まさか。
「そうかな?どこら辺が?」
にっこり笑って旬平くんを見つめると、旬平くんは顔を少し赤らめながら「んー」と悩むように首をかしげる。
「口ではうまく言えないんだけど、雰囲気……?」
「雰囲気?前と変わっちゃったとこある?」
「なんていうか、すっげえ可愛くなったとゆーか……あ、前からアンタ可愛いよ?って俺、何言ってんだろ……」
顔を赤らめて慌てる旬平くんにクスクスと笑って見せると、旬平くんもホッとしたように笑う。
従順で可愛い後輩は大好き。
「前まで付けてた香水も、最近あんまし付けなくなったし……そのくせ、すんげえ可愛くなったから、その、彼氏できたんかと……」
「残念ながら彼氏はいないなーいたらこうして旬平くんと二人っきりでお喋りできなくなっちゃうし、ね?」
そう言って悪戯っぽく笑うと旬平くんはますます顔を赤らめる。ちょっと頬をつんつんとつつくと、「そういう事しちゃダメだって!」と私の手を押さえる。
「そういや、アンタだけじゃなくて聖司さんも少し変わったよなー」
旬平くんの言葉に私は一瞬、表情を強張らせる。すぐさま、笑顔を作ると優しく「どんなふうに変わったの?」と何気ない風を装って聞いてみる。
「いやー前までは結構近寄りがたかったけど、最近柔らかくなったって評判だぜ?多分、美奈子さんの影響だろうなー」
「美奈子、さん?」
「うん。佳音ちゃん、知らねえ?確か佳音ちゃんの隣のクラスの、小波美奈子さん。聖司さんと最近すっげえ仲良くて、付き合ってるんじゃないかーって噂」
なに、それ。
そんなの、知らない。
「なんつーか、清楚系?みたいな感じの人だよなー。うちのクラスにも何人かあこがれてる奴いるし。まあ、俺は佳音ちゃんみたいなタイプが好きだけどなー」
途中から旬平くんの声が全然聞こえない。聞こえてるはずなのに、頭に入ってこない。
聖司先輩を、変えたひと。
小波、美奈子。
私と正反対の、女の子。
頭がすぅっと冷えていく。心臓に冷たい氷が入ってきて、じくじくと痛くなる。
聖司先輩が好きなものを、その子は持っているというの……?
私は手に入れられなかったのに……?
「美奈子さんは付き合ってないーって言うけど、あれは時間の問題だよなー。聖司さん、美奈子さんにぞっこんなのバレバレだもん……って佳音ちゃん、聞いてる?あれ、なんか顔色悪くね?大丈夫?」
「だ、大丈夫……ちょっと寝不足で、眠いだけだから」
「そお?寝不足は美容の大敵だぜ?」
冗談めかして言う旬平くんに笑って返そうとしたけど、うまく笑えた自信はなかった。
別に聖司先輩が誰と付き合おうと私には関係ない。
ただ、私は私が持っていないものをその子が持っていたことに少し動揺してしまっただけ。
だって、私が持っていないものなんてないと思っていたから。
成績優秀で学年一位、運動神経も悪くない。仲いい子が多いからか嫁さん候補、奥さんにしたいNo.1なんて言われて、カレンとおしゃれに励んでいたらはば学プリンセスなんてあだ名まで付けられてしまった。
学年中からローズクイーン候補だよね、と言われて笑って否定しながらも、自分の中では確信していた。だから、私には持っていないものなんてない。
それなのに、聖司先輩は私に会って話しかけても他の男の子のような態度を取らない。私に媚びるような態度も、褒める素振りも、照れる顔すらいつの間にか見せなくなっていた。
それなのに、その子は聖司先輩を変えたというのか。
この、もやもやした感情は何だろう。ちょっとした劣等感?
自分もわりかし、心が狭いなと思いながら苦笑する。
私は聖司先輩のこと、なんとも思っていないのにそんな感情を抱くなんて。
「あ、あのっ、琴宮さん、よかったら一緒にお昼食べませんかっ……?」
同じクラスの平くんが顔を赤くしながら、話しかけてくる。
ほら、またいつものお誘い、だ。
どう断ろうかと笑みを絶やさずに悩んでいると、ちょうどいいところにカレンがやってきた。
「バーンビ、お昼一緒に食べよ♪」
「あ、カレン。そういえば約束してたっけ。……ということで、ごめんね、平くん。また誘ってね」
クスリと笑うと、平くんは熱に浮かされたように「は、はいっ」と答える。
いつまで、こんなこと続くんだろう。
「バンビってば相変わらずモテるよね〜」
「え〜そんなことないよーカレンほどじゃないってば」
「バンビは可愛い。それも星の導き」
「ミヨまでそんなこと言うの?」
女友達の言葉にクスクスと笑いながら、3人で食べれる場所を探す。いつもは屋上に行くんだけど、カレンがファンの女の子たちに追いかけまわされるのに疲れてしまったみたいで、静かな場所で食べようと言ってきた。私も、男の子に愛想を振りまくのにいい加減疲れてきたし、すぐさま賛成して、裏庭へ向かおうとする。
「こっちの方なら誰もいないんじゃない?」
「静かでいい雰囲気。落ち着く」
「そうだね、じゃあここのどこかで、」
そう言って、座る場所をキョロキョロと探すと突然カレンが「しっ」と言って、私たちを木の影まで引っ張る。
「ちょっと、カレン……?」
「カレン、痛い」
私とミヨの言葉にカレンは再度「しっ」と言うと、先ほどいたところからちょうど死角になっていた場所を指さす。
「ねえ、あれ設楽先輩と美奈子ちゃんじゃない?」
「え……?」
浮ついた声で言うカレンの言葉に、そのまま促された方を見ると、そこには聖司先輩と、とても可愛らしい女の子が二人でいた。
聖司先輩は誰にも、私にさえ見せたことのない顔で、その子に向けて笑っていた。
その女の子は聖司先輩の言動に怒ったり、笑ったりして、とても楽しそうで、そんな彼女を見つめる聖司先輩の瞳はとてつもなく愛おしそうな、大事だといわんばかりの感情がその瞳からあふれてしまいそうで。
「――っ」
思わず私は口を覆う。そうでもしないとよく分からない悲鳴をあげてしまいそうだ。
心が蝕まれるようにジクリジクリと痛む。気持ち悪い何かが心の中で蠢いて、吐きそう。ドクドクと血液が流れる音が耳元で響く。
やめて。
そんな風に、その子に向かって、笑わないで。
私に見せない顔をしないで。
「やっぱり付き合ってたんだぁ。ミヨ知ってた?」
「星が教えてくれたから。……バンビ?」
「え、ちょっとバンビ!?顔真っ青だよ?」
心配そうに見つめるミヨとカレンに何か言わなきゃ、笑わなきゃ、と思うのに、声はかすれて、表情筋は死んだようにピクリとも動かない。
「……ごめん、貧血、かも」
ようやく絞り出した声は誰の声か分からないぐらいかすれていて、震えていた。
「ちょっと、大丈夫?保健室いこ!ミヨ、手伝って」
「うん」
カレンに支えられ、ミヨに腕をつかまれて、校舎内へと引き返す。立ち去る前に少しだけ後ろを振り返ると、二人はこちらに全く気づかずに楽しそうに笑っていた。
私が貧血で休んでいるといろいろな子たちがお見舞いに来てくれた。琉夏たん、コウちゃん、嵐、旬平くん、玉緒くん。
それでも、聖司先輩は来てくれなかった。
どうしてあの光景を思い浮かべるだけでこんなに心が凍えそうなんだろう。
凍り付くようなあの瞬間。世界が私を見放したような。
ううん、そんなことない。私は欲しいものは手に入れてきた。
まだ、時間はある。
それにもうすぐクリスマスだ。
多分こんな気持ちになるのは寒いせい。そう、季節のせい。イベントのせい。
あの人の隣にいたい、なんてそんなバカげたこと。
窓を開けると、寒い空気が保健室に充満する。
外に向かって息を吐くと思った以上に白い吐息が口からこぼれた。