いつの頃からか忘れたけど、気が付いたときには私は何故か七瀬くんのことが気になっていた。
高校一年から同じクラスの七瀬遙くん。遙という綺麗な名前が妙に気に入って、クラスで一番最初に覚えた名前だった。
七瀬くんはいつも一人でいる。友達がいない訳じゃなくて、むしろ私よりも周りの皆に頼られている。手先が器用なせいかもしれない。同じクラスの橘くんとは特に仲がいいみたいで、よく一緒にいるところを見かける。それでも、ふとしたときに七瀬くんを見るといつも一人で窓の外を眺めている。七瀬くんはいつも何を見ているんだろう。
七瀬くんはちょくちょく学校を休む。早退をするときもある。体が弱いのかと思って、橘くんに聞くと「ハルはいつもこうなんだ」とちょっと困った顔で言われた。……よくわからない。
七瀬くんはあんまり人と喋らない。喋るときはよく橘くんを介して喋ることが多い。結構な無口だ。橘くんは七瀬くんとの付き合いが長いから、何を言いたいか察することができるらしい。すごい特技だと思う。そう橘くんに言ったら照れたように笑った。……ちょっと可愛いぞ。
とにかく私はいつのまにか七瀬くんことが気になり始めていた。気が付いたら目で追って、七瀬くんを見つめていた。七瀬くんの瞳がこちらに向くことは無かったから、安心して見つめることが出来た。
私は七瀬くんという人間の生態が気になっているみたいだ。
七瀬くんはどういう人なんだろう。いつも何を考えているんだろう。
そんなことを勝手に想像しては楽しんでいた。多分、七瀬くん本人と関わることはないから。
七瀬くんのことが気になるわりに、私は七瀬くんに話しかけたことがなかった。七瀬くんの幼なじみの橘くんとは席が近くてよく話したけど。
「琴宮さんもハルと話してみればいいのに」
橘くんは七瀬くんのことを「ハル」と呼ぶ。遙って呼ばれるのを七瀬くんは嫌うみたい。
「七瀬くんと話すには共通点無さすぎるよ」
「俺ともそんなにないと思うけど……」
「橘くんはほら、席近いし」
「ハルも近いよね?」
そう近くもない。七瀬くんは私から橘くんを挟んだ隣だし。
「琴宮さんって……えっと、ハルのこと……」
言いづらそうに口をつぐむ橘くんに向かって私は言う。
「生物学的見地から気になっています」
「え?生物学!?」
「なんていうか七瀬くんって自由に生きている気がして。何にもとらわれず、何にも執着しないで生きている姿が羨ましいなって。私が勝手にそう思っているだけなの」
だから私は遠くから七瀬くんという人物を観察出来るだけで満足だ。彼は私がなりたい理想の姿に近いんだと思う。
これも私の勝手な妄想だけど。
「琴宮さんってハルに似てるね」
橘くんはクスクス笑いながら言う。
「どこが?」
「ハルも琴宮さんと同じようなこと思ってそうだから」
橘くんは面白そうに言うけれど、全く意味が分からない。七瀬くんが考えてることなんて私と同じはずなんてないのに。
七瀬くんとは二年も同じクラスだけど、まだ一度も話したことがない。珍しいと思う。大抵、一年間一緒にいれば、一回くらい話すはずだもの。
なんとなく七瀬くんには近付きがたい雰囲気があって、私はいつも遠巻きに見つめているだけ。
彼と私の視線が重なり合うことがないという事実が私を妙に落ち着かせた。
「そういえば琴宮さんって部活入ってる?」
橘くんの質問に私は首を横に振る。
「私、中学から帰宅部なんだよねー。橘くんは部活入ってるの?がたいいいし、運動部とか」
「俺は今はまだ……」
橘くんは妙に言葉を濁す。どうしたのだろう。
「あのさ、今度俺達水泳部作ろうと思ってるんだよね」
「へええ、水泳部」
そういえばうちの学校、水泳部ないんだっけ。水泳の授業もないのに、使われてないプールがあったはず。
「でさ、部員が後一人足りなくって」
「大変だね」
「よかったら……水泳部、入らない、かな?」
「……へ?」
橘くんの言葉に目を丸くする。いきなり何を言い出すんだ、橘くん。
「いやいや、無理だよ!私、水泳経験ないし」
「俺達が一から教えるよ」
「体力的にも自信ないし」
「マネージャーとかどうかな」
「橘くん、必死だね……」
「えっ、あっ、ごめん!無理強いするつもりじゃないんだけど……」
弱ったように眉を下げる橘くんは大きいのに、子犬みたい。
「もし、ハルに興味あるなら水泳部入ってみればいいんじゃないかと思って」
「へ、何で?」
橘くんは嬉しそうに頬を緩ませる。
「ハルも水泳部に入る予定なんだ。ハルの泳ぎは見てみる価値あると思うよ」
人の好きそうな笑みを浮かべる橘くんに私はなんとなく嵌められた気がした。
「さ、最初は見学だけだからね……?」
「マコちゃんのお友達?」
くりくりとした目に見つめられて、私は何故か逃げ出したくなった。
橘くんに連れられて放課後向かったのは使われてないプール。雑草が生い茂っているプールの中に男の子たちが入って作業をしていた。一人は金髪の可愛らしい男の子。下級生だろうか。もう一人は……七瀬くん。
私がいることに気付いた金髪の男の子は作業中の手を放り出して、七瀬くんを引っ張り、私達のところへやってきた。
七瀬くんと橘くんの知り合い、なのかな。それにしても、マコちゃんって……。
「橘くん、マコちゃんって呼ばれてるの?」
「呼んでるの渚だけだから!」
必死に否定する橘くんが可愛くて思わず笑ってしまう。
「わ、笑うなよ……渚も人前であんまりそう呼ぶなって」
「えー、だってマコちゃんはマコちゃんだし、ハルちゃんはハルちゃんじゃない」
「ハルちゃん!?」
思わずそう言うと、七瀬くんがこちらをじっと見つめてくる。
うっ……何故か威圧感を感じる……。
「渚、その呼び方やめろ」
七瀬くんが金髪の男の子にそう言うのを私は意外な気持ちで見ていた。七瀬くん、近寄りがたい感じだから誰かにそういう風に言うと思わなかった。まるで気を許しているみたいな。
「まあまあ、ハルちゃん。で、マコちゃん、この人は?」
「クラスメートの琴宮」
そう言ったのは橘くんではなく、七瀬くんだった。驚いて七瀬くんを見ると、「どうした」と言うようにこっちを見てくる。私は慌てて首を横に振る。
「う、ううん。えっと……七瀬くんと橘くんのクラスメートの琴宮佳音です。その……見学に来ました」
なんの見学に来たんだろう。プールが使えないんじゃ、七瀬くんの泳ぎも見れないじゃない。
「じゃあ、カノンだね!」
「えっ?」
「こら、渚。失礼だろ」
「だめ?」
上目遣いに見つめられ、言葉に詰まる。私は彼の瞳に弱いらしい。
「だめ、じゃないけど……」
「じゃあ、カノン!僕は葉月渚。渚でいいよ」
渚くんはそう言ってニコッと笑った。
話を聞くと渚くんは七瀬くんと橘くんの小学校からの知り合いらしい。どおりで仲がいいのか。
「ハルちゃんってね、本当に綺麗に泳ぐんだよ!」
渚くんは自分のことのように嬉しそうに言う。そんな彼のことが私は少し羨ましかった。七瀬くんのことをそんな風に言えるなんて。私も見てみたくなるじゃない。
「どう?興味持った?」
橘くんのからかうような口調にふいっとそっぽを向く。その視線の先には七瀬くんがいて、こちらをじっと見つめていた。なぜか気恥ずかしくなって、慌てて視線を逸らす。
私は、七瀬くんの視線が、苦手だ。
その事に私は今になって気がついた。
結局、見学に行っても収穫はなかった。分かったことは七瀬くんと橘くんに仲がいい後輩がいて、ハルちゃん、マコちゃんって呼ばれてることくらい。その呼び方を思い出して、授業中にクスリと笑うと「何がおかしいんですか?」と天方先生にちょっと睨まれてしまった。
「天方先生に怒られるなんて珍しいね」
授業後に隣でクスクスと笑う橘くんを睨み付ける。
「ちょっと思い出し笑いしただけ……。ねえ、昨日の見学、意味あったの?七瀬くんの泳ぎ見れなかったじゃない」
「うん、水が張ればハルはあそこで泳ぐよ」
「そういうこと聞いてるんじゃないんだけど……」
「昨日は水泳部の紹介ってことで誘っただけだから。プールが完成したらハルの泳ぎ、見れるよ」
私はふうんと気のない返事をして――思わずにやけてしまった。無意識のうちの行動に慌てて口元を押さえる。
渚くんが言う七瀬くんの泳ぎがどうしても見たい。その願望は少しずつ私の中で膨らんでいった。
日がたつにつれ、七瀬くんのことがもっともっと知りたくなってくる。気がつくと目で追いかけて、だからと言って見られそうになると目を反らす。
前よりも強くなっていくこの気持ちに私は少し戸惑った。
何故だろう。前とはどこか違う気持ちがある気がする。
そんなはずないと首を横にぶんぶんと振ると、私はまた七瀬くんを目で追いかける。
七瀬遙くん。
私は貴方のことが気になって仕方がないみたいだ。
「やっぱりハルのこと、気になるんだね」
七瀬くんのいる方向にちらりと視線をやると、橘くんと目が合ってしまった。
橘くんは訳知り顔でそんなことを言ってくる。
「別に……橘くんが考えてるような感じじゃないよ」
橘くんはそっかぁとクスクス笑う。その態度にちょっとムッとして私はそっぽを向いた。
「ごめんごめん、からかうつもりじゃないんだ」
橘くんは笑いながら謝罪を口にすると、私に一枚の紙を渡した。
「なあに、これ……県大会?」
それは水泳の高校県大会のチラシだった。
「今度、俺たちそれに出ることになったんだ。よかったら見に来ない?」
何もかも見透かしたような橘くんの笑みに乗せられた気がして、私はまたそっぽを向いて気が向いたらね、とだけ言った。
でも、ここに行けば泳いでる七瀬くんが見られるんだ。
知らず知らずのうちに口元に笑みが浮かぶ。
なかなか機会がなくて見られなかった泳いでる姿の七瀬くん。
どんな表情をして、どんな姿で泳ぐんだろう。
泳ぐときの彼の瞳はどんな色を湛えているんだろう。
全部、全部、知りたい。
いつから私、こんなに欲張りになっちゃったのかな。
結局、県大会の1日目は1日中バイトが入って行かれなくなってしまった。
シフトを組んだ店長を恨みながら、2日目こそ七瀬くんたちが見られますように、と祈るばかり。
橘くんにどの種目なのかだけでも聞いておけばよかった。抜けている自分に心底呆れる。
結局、試合前に七瀬くんに「頑張ってね」の一言も言えなかった。
やっぱり七瀬くんの目を見てしまうとダメだ。途端に何も言えなくなってしまう。
これってなんて病気なんだろう。……私が意気地なしなだけか。
明日、明日こそ、頑張ってって伝えよう。精一杯、大きな声で、君に伝えたい。
「うっわ……すごい」
会場に着くと観客席には大勢の人がいた。みんな水泳部の人なんだろうか。
多分、岩鳶高校の人もいるんだろうけど、なんとなく気恥ずかしくて隅っこの見つからないようなところにちょこんと腰掛ける。
「ええと、今日の種目は、リレー……?」
リレーって何だろう。首をかしげながら出場校を見ていくと岩鳶高校の名前があってホッとする。
これに七瀬くんたちが出るんだ。
「次は〜……」
会場のアナウンスで岩鳶高校自分の高校の名前が流れて、ハッとする。
プールサイドを見ると、そこには七瀬くん、橘くん、渚くんにもう一人男の子がいた。最近、七瀬くんの周りで見かける1年の男の子。確か元陸上部の子だっけ。
掛け声とともに選手が一斉に入水する。一番最初は橘くん。
緊張した雰囲気がこちらまで伝わってくるようで、思わず息をのむ。
そして、始まった。
「す、ごい……」
正直、水泳自体にはさほど興味はなかった。今日だって誘われなければ来なかったと思うし。七瀬くんたちが出るんじゃなければ観に行かなかったと思う。
だから本当にちょっとした興味だったのだ。
それなのに、その泳ぎは私をとらえて離さない。
橘くんは力強い泳ぎで他校に負けじと食らいついている。背泳ぎってもっと穏やかな泳ぎだと思っていた。あんなに力強くて速いなんて。
橘くんがスタートの位置まで戻ると、次に飛び出したのは渚くんだった。まるでペンギンのようにすいすいと水の中を泳ぐ。泳いでいるのは平泳ぎ。途中から周りの選手は渚くんが泳ぐたびにペースを乱している。すごい、すごいよ。
次に飛び出したのはもう一人の1年の男の子だった。彼が泳いでいるのはバタフライ。綺麗なフォームをしているのに、段々と他校との差が縮められていく。
「お願い……お願い……っ」
頑張って。
彼らがコースを繋いで泳ぐ姿から目を離せずに、私はぎゅっと両手を合わせて握りしめる。
そして、
「、七瀬くん」
七瀬くんが飛び出した。
「っ、はっ」
その瞬間に一気に視界が変わった。なんて、なんて、綺麗な泳ぎをするんだろう。
私が今まで七瀬くんのことが気になってた理由が分かった気がした。
こんな綺麗で自由な泳ぎをする人だ。その雰囲気が普段の七瀬くんからも溢れ出しているんだと思う。自由で、何にも捕らわれずに、ただ真っすぐに、前だけを見つめて。
『ハルちゃんってね、本当に綺麗に泳ぐんだよ!』
いつかの渚くんの言葉が頭の中で響く。
本当に、本当に、綺麗で。出来ることならずっとずっと見ていたい。
七瀬くんの泳ぎを見つめている時間はまるで一瞬だった。あっという間に他校を抑えて岩鳶高校はトップで辿り着いた。
地方大会に進めると知って喜ぶ水泳部の笑顔を遠くから見つめながら、私は自分の心の奥底から熱い感情が湧き上がってくるのをどこか他人事のように感じていた。
どうしよう。
どうしよう。
彼らの姿がぼやけてよく見えない。
視界が滲んで、なぜか止まらなくなって。
あんなに力強くて、速くて、美しいものを見るのは初めてだった。
あんなものを見せられたら、もう目をそらすことなんて、出来ない。
岩鳶高校水泳部は地方大会に無事進むこととなり、それが翌日の全校朝礼で発表された。
私は自分のことのようにうれしくて、思いっきり拍手を送る。
教室で「おめでとう」と声をかけると橘くんは嬉しそうに笑って「ありがとう」と言って、七瀬くんは興味なさそうな顔をしてただ頷いた。
あの大会の日以来、私はまるで変ってしまった。
七瀬くんを見るだけで、傍にいるだけで、何故だかとても苦しくてたまらない。
あの会場での気持ちが掘り起こされそうで、そしたら泣いてしまいそうで。
……ううん、あの日の出来事が原因じゃない。あれはきっかけだっただけ。
もう、ずっと前からとっくに気付いていた。
七瀬くんに対する感情が前から違うことに。
気付かない振りをしていた。意識したら何かが変わってしまう気がした。
ううん、もしかしたら最初からだったのかもしれない。彼を想う気持ちに少なからず甘いものが含まれていたのは。
彼に近づきすぎたせいで、私は知ってしまった。
七瀬くんの興味なさそうな表情、それが水泳のことになると崩れること。泳ぐときの真っ直ぐな瞳。水に浸かるときの気持ち良さそうな顔。
それらは全部全部私を魅了して離さない。
いつもいつも目で追いかけてしまう。そして目が合う前に逸らしてしまう。私はこんなにも七瀬くんが、七瀬くんを。
あ。
目が合った。
七瀬くんは私を視界に入れたまま、どんどんこちらに向かって歩いてくる。
「いつも見てるな」
不意にかけられたその言葉に私は何も言うことが出来ない。全部気付かれてる。
「な、七瀬、くん」
「どうかしたか」
何気無い様子の彼に、私はやはり何も言うことが出来ない。
貴方のことが気になって見ています。
そんなこと言えると思う?
「気付いてた……よね。私が、見てたこと」
小さい声でモゴモゴと言うと、七瀬くんは小さく頷く。そして、
「俺もお前のこと、いつも見てたから」
「えっ?」
何かの聞き間違いかと思って、聞き返すと、七瀬くんはあの真っ直ぐな瞳で私を見つめてはっきりと告げた。
「琴宮のこと、見てたから」
何でとか、どうしてとか、言おうと思った言葉はその瞬間に真っ白になって弾け散った。
またもや二の句が告げなくなった私を見て、七瀬くんが微かに笑った気がした。