虚しいよこんなに、ただ、想うだけで

真琴先輩が喫茶店でアルバイトをしているらしい。昨日の部活の最中、耳にした会話。

「へぇー。マコちゃん、喫茶店でアルバイトしてるんだぁ。僕、行きたーい!」

「ダメですよ、渚くん。真琴先輩の邪魔になるでしょう」

「えぇーっ」

「でもどうして急にバイトを…?」

「母さんの知り合いの人なんだけど、急にバイトの人がやめちゃったらしくて、差支えない程度でいいから手伝いに来てくれって頼まれちゃって……あ、もちろん、部活は優先だから大丈夫だよ」

「真琴、鯖メニューはあるのか」

「遙先輩……」

ワイワイとはしゃぐみんなを見てると、羨ましい気持ちと寂しいと思う気持ちが入り混じる。男の子って昔からそう。女の子が入れないような独特な一体感や仲の良さがあって、私はいつも遠くから見てるだけ。お兄ちゃんと宗介くんもそうだった。仲間外れにされたことはなかったけど、肝心な時に私はあの中に入れない。それがすごく寂しい。

「江ちゃん、どうかした?」

「っ、真琴先輩」

物思いにふけっていたらいつの間にか目の前に真琴先輩がいた。
ああ、僧帽筋が眩しいっ!……じゃなくて、

「ええと、何かありました?」

「大したことじゃないんだけど……」

そう言って真琴先輩はちょっと照れたようにはにかんで、

「今度よかったら友達連れて江ちゃんもお店においで。珈琲の一杯ぐらいならご馳走するから」

向けられた笑顔がまぶしい。とくんと跳ねる胸をごまかすように私は「ぜひっ」と大きな声で返事をした。


真琴先輩は誰にでも優しい。この間も私のクラスメイトの子が困っているのを見て、手助けしてあげてたし、男の子にもよく頼られているのを見かける。
それは真琴先輩の人柄なんだと思う。大きな身体で、いつも笑顔で、誰にでも優しくて。面倒見がいいのは歳の離れた弟妹がいるからかもしれない。お兄ちゃんも結構面倒見がいいし。
そんな真琴先輩にあこがれている女の子は少なくない。実際、告白も何度かされているらしい。真琴先輩はあまり興味がないのか、彼女ができたという話を聞くことはないけれど。

私も、真琴先輩にあこがれる女の子の一人だ。

水泳部マネージャーとして部長である真琴先輩と関わっていくうちにいつの間にか好きになっていた。
最初は、お兄ちゃんや宗介くんに対する気持ちと同じものだと思っていた。多分、寂しくて真琴先輩をお兄ちゃんや宗介くんと重ねて見ているのだと。でも月日が経つにつれ、それは違うとだんだんと自覚していった。部活中はいつも真琴先輩のことを目で追ってしまう。「江ちゃん」って優しい声で呼ばれると胸がときめく。真琴先輩のことを考えるだけで、胸が苦しく、切なくなる。
お兄ちゃんとも宗介くんとも違う「好き」。初めてのこの感情を、私は押し込めるだけで精一杯だった。
周りのみんなが真琴先輩のことを口にする度、私は感情を押し殺して曖昧に頷くことしかできなかった。そして、真琴先輩に焦がれる彼女たちを見つめることしかできなかった。
前に花ちゃんに言われたことがある。

『江は本当にそれでいいの?』

『えっと、何の話?』

『橘さんの話!このままじゃ誰かに取られちゃうよ?』

『うん……』

『江……無理しないで、素直になった方がいいんじゃない?』

でも、私が真琴先輩に想いを告げたらきっと困らせてしまうだろう。真琴先輩は優しいから。そうしたら今までの関係も崩れてしまうかもしれない。
私はそれがすごく怖かった。だから気持ちに蓋をして、見ない振りをした。
そうやって周りも自分もだまし続けて、私は真琴先輩のそばにいる。


「江ちゃーん!」

気が付くと渚くんが教室のドアのそばに立っていて私に向かって手を振っている。傍には怜くんも。

「渚くん、怜くん、どうかしたの?」

「これ、江ちゃんに渡しに来たんだぁ」

そう言われて渚くんから受け取ったのは小さなお店の名刺。

「それ真琴先輩が今、バイトしているお店の名刺です。昨日、部活帰りに僕と渚くんで行って来たので、ついでにもらってきました。なかなかいいお店でしたよ」

「今日は部活お休みでしょー?だから江ちゃん行ってきなよ!」

「う、うん。ありがとう……」

「じゃあ、また明日部活で。行きますよ渚くん」

「うん!……江ちゃん、頑張ってね!」

渚くんは意味ありげにウインクをすると怜くんの後を追っかけて行ってしまった。

もしかして、私の気持ち気付かれてる?……そんなわけないか。
でも、折角だし、真琴先輩にも誘われたし、

「行ってもいいんだよね……?」

誰に言うでもなく呟いた言葉はそのまま私の中を通り抜けていく。ちょっと不安な気持ちを振り払うように私はキュッと制服のスカートのすそを握りしめた。


放課後になるまでの時間がだいぶ長く感じられた。
花ちゃんを誘ったけど今日は書道部の部活があると断られてしまい、渚くんと怜くんも昨日行ったからと断られ、遙先輩には普通に断られてしまった。

「どうしよう……」

校門前で渚くんから渡された名刺を手にし、私はまだ迷っていた。
別に普通に遊びに行ってもいいと思う。けれど、無駄に緊張してしまうというか、気恥ずかしいというか。

「あれ、江ちゃん?」

「は、はいっ!」

声をかけられ飛び上るように返事をすると、そこにいたのは真琴先輩だった。

「ま、真琴先輩っ……」

「偶然だね。今から帰るとこ?」

「い、いえ。その……えっと……」

言い淀んでいると真琴先輩は私の手元を見て、あっという顔をした。

「もしかして江ちゃん、バイト先に来てくれようとしてた……?」

「え、は、はい!渚くんと怜くんからお店の名刺貰って……真琴先輩のお邪魔にならなければ行ってみようかなって思って」

そう言うと真琴先輩はパッと顔を輝かせた。

「江ちゃんが来てくれるなら大歓迎だよ!俺もこれから行くところだから一緒に行こうか」

「はいっ!」

真琴先輩がバイトしているお店は落ち着いた雰囲気の素敵なお店だった。
真琴先輩は私を窓際の席に案内すると、「着替えてくるね」と言っていってしまった。

「ここが真琴先輩がバイトしているお店かぁ……」

ぐるっと店内を見回してみる。働いている真琴先輩の姿を想像して、ちょっとだけ嬉しくなる。

「江ちゃん、お待たせ。何かいいことでもあった?」

「い、いえっ」

急にあらわれた真琴先輩に気が付かず、にやけたところを見られてしまった。恥ずかしい……。
チラリと真琴先輩の様子をうかがうと、そこにはメガネに茶色いエプロンをつけた真琴先輩がいた。いつもとは全く違う様子にドキドキする。今更ながら、真琴先輩がふだんはメガネなことを思い出した。

「いらっしゃいませ。えーと、ご注文はお決まりですか?」

「え、えっと……それじゃあホットコーヒーを一つ」

「かしこまりました。ちょっと待っててね」

いつもはコーヒーなんか頼まないけど、ちょっと大人びてみたくて、ついかっこつけてしまう。少しでも真琴先輩に追いつきたくて、早く、早く。
コーヒーを淹れている真琴先輩の表情を盗み見するように伺うと、部活の時とは違う真剣な顔つきで、

「……っ、」

その表情やしぐさから目が離せない。
コーヒーを淹れ終えた真琴先輩はちょっと満足そうに微笑むと、こちらに持ってきてくれた。

「……はい、江ちゃん。いつも俺たちのためにありがとう」

私の目の前には真琴先輩が入れてくれた熱々のコーヒーと、なぜかショートケーキ。

「えっと、私ショートケーキは頼んでないですけど……」

「いつも俺たちのために頑張ってくれているマネージャーさんにご褒美だよ。……渚たちには内緒、な?」

「……ありがとうございます」

思いがけないご褒美に胸が高鳴る。真琴先輩の顔をまっすぐにみられなくて、私はちょっとだけうつむいた。
「それではごゆっくり」と言って仕事に戻った真琴先輩の後姿を見送りながら、私はカップに口をつける。

「あつっ……」

一口含んだコーヒーは猫舌の私にはちょっと熱い。慣れたころに、舌の上に広がる香りを味わうようにコクリと飲み込む。
真琴先輩が淹れてくれたコーヒーはほろ苦くて、私には苦すぎるくらいで。そのコーヒーの香りは私の心をキュッと締め付ける。
真琴先輩はどんな気持ちでこのコーヒーを淹れてくれたんだろう。何人の人がこのコーヒーを飲んだんだろう。その中に真琴先輩のことを好きな人はいたんだろうか。その人はどんな気持ちでこのコーヒーを飲んだんだろう。
考えれば考えるほど切なくなる。好きな人が淹れてくれたコーヒーがこんなに特別なものだなんて知らなかった。出来れば知らないでいたかった。
私は、何も知らないでいたかった。
そうすれば今まで通り、真琴先輩のそばにいられたから。
何も分からないままでいれば、コーヒーの味がこんなに苦いことも、メガネをかけた先輩がかっこいいことも、恋の痛みも、知らずに済んだのに。
でも、もうなかったことになんて出来ない。

「ごちそうさまでした。美味しかったです」

食べ終わったころ、こちらにきた真琴先輩にそう伝えると

「よかったぁ……知り合いに飲んでもらうとやっぱり緊張するんだよね」

ホッと一安心する先輩を見て、私はつい笑ってしまった。

「え、な、なんか変なこと言った?」

「いえ……ごめんなさい。真琴先輩がかわいくて、つい」

「かわいいかな……?」

複雑な表情をする真琴先輩に私はまた笑ってしまう。こんな真琴先輩の顔が見られるのは私だけ。そんな優越感に浸りたくもなる。
やっぱりこのままではいけない。
分かってはいるけど、もう少しだけこのままでいさせてほしい。


そんな生ぬるいことを考えていたせいだろうか。

「橘先輩っ……私、橘先輩のことが好きなんですっ」

私はとうとう目を背けていた現実を突きつけられてしまった。

掃除の時間。ごみを捨てようと裏庭に回ったとき、たまたま目撃してしまった。立ち聞きなんていけないとは思ったけど、その場から動くこともできなかった。
告白していたのは同じクラスの可愛い女の子。男子にも結構人気で、クラスのマドンナ的な存在。そんな彼女が頬を赤らめて、真琴先輩に思いを告げていた。
可愛かった。あんな可愛い子に告白されたら誰だって絶対にOKしてしまう。
真琴先輩の答えが聞きたくなくて、ゆっくりとその場を立ち去ろうとしたとき、

「ありがとう。気持ちは嬉しいけど……ごめん。今は部活に集中したいから誰とも付き合う気はないんだ」

真琴先輩から答えを聞いた彼女はしばらく俯いていたが、やがて顔を上げると笑顔を張り付けて明るい声で言った。

「そうですか……ありがとうございます。部活、頑張ってくださいね!応援してますから」

真琴先輩の答えを聞いてホッとすると同時に、彼女の姿が私と重なった。哀しげな表情を見せまいと健気に笑う姿に胸が痛んだ。
今振られたのは――私も同じだ。