時計ウサギは待っている

「おーい、佳音。こっちこっち」
教室に入ったところでエースに名前を呼ばれて向かうと、当たり前のように「ここ座れよ」と隣の席を指される。エースの前の席にはデュースが座っていて、グリムと宿題を見せろだの見せないだの言い争いをしている。エースの隣に腰かけると、身体を寄せて「なあなあ」と小声で話しかけてきた。右耳に吐息がかかって若干くすぐったい。
「グリムの粘り勝ちかデュースの頑固勝ちか賭けねえ?」
「……何を賭けるの?」
「今日の昼めし」
「うーん……まあ、いいけど」
「よっしゃ!じゃ、オレはグリムってことで、佳音はデュースな」
二人で勝負の行く末を見守っていると、案外呆気なく決着がついた。我慢できなくなったデュースがたらいをグリムの頭の上に出して昏倒させたのだ。グリムはふなぁと鳴き声を上げると、机の上で大の字になった。
「うっわー……おい、デュース大人げないぞー!」
「エースには関係ないだろう」
「エース、私、今日は日替わりランチ定食ね」
「くっそー……」
悔しそうなエースの横顔を見ながら、私は僅かに笑みを漏らす。
「おい……僕とグリムの話になんで日替わりランチが出てくるんだ」
「オレはお前が勝つ方に賭けてたのになー」
「昼食を賭けていたのか……エースだけでなく佳音まで」
デュースにじろりとにらまれて、思わず首をすくめる。
「昼食ぐらいならいいかなって……」
「全く……」
デュースが面白くなさそうにぶつぶつ呟いていると、トレイン先生がやってきた。
「静かに。授業を始める」
トレイン先生の厳しい声が響き渡ると、ざわついていた教室は一斉に静かになる。トレイン先生ははなから目を回しているグリムを一瞥すると、手元のノートに何か書き留めた。
……グリム、欠席にされたんじゃないだろうか。
魔法史の授業は基本的に教科書をめくる音、ノートにペンを走らせる音、トレイン先生の厳格な声と、誰かの小さな寝息しか聞こえない。とくとくと語るトレイン先生の声はいい子守唄にも聞こえてきて、うとうととしている生徒がほとんどだ。珍しく前の席でデュースも舟をこいでいる。エースもいつものように寝ているなと横をちらりと見ると、いつもとは違ってまじめな顔つきでノートにペンを走らせる姿があった。
「――っ」
珍しい姿に目が離せない。エースが真剣な表情をすると、なぜかぐっと引き込まれてしまう。きっと普段見ない姿だからだ。横顔だけでも惹きつけられてしまうのに、その瞳がこちらを向いたら、私はきっと
「……何見てんだよ」
エースの顔が私の方を向いた。真剣なまなざしを受けて、私は目を逸らせずにいる。エースはそのままにやりと笑って、「あんまりオレに見惚れんなよ?」と小声で言う。
この男はなんてずるくて卑怯で、そして私の心をとらえて離さないんだろう。私の気持なんか微塵も気が付く様子がないくせに、私の心の中にするりと入ってくる。私の視線には気が付くくせに、その視線が意味するものには気づかないでいる。エースのばか、と呟いたら、こつんと指で小突かれた。
「誰がバカだって?」
囁かれた右側だけが何故か熱を持つ。授業中の秘め事があまりにも甘美なもののように錯覚して、思わず息をのむ。この瞬間が止まればいいのになんて考えている私が一番バカだ。
ふわぁと大きな欠伸を漏らしたエースは授業に興味が無くなった様子で今度は舟をこぎ始める。その横顔をさりげなく見つめながら、私は悟られないように気持ちに蓋をする。

今はまだ、友達のままでいいから。