溺れた人魚姫

「佳音さん、よろしければ僕とお付き合いしてみませんか?」
「え?」
ジェイド先輩から言われた言葉に間抜けな顔で間抜けな返事をしてしまったのは仕方のないことだと思う。なんの脈略もなく、突然言われた言葉にどう返事をしようかと、数少ない語彙から言葉を返そうと思うけど、頭が働かない。
固まっている私に、ジェイド先輩はにこりと微笑むと、懐から慣れた手つきで紙を取り出した。
「アズールではないので拘束力はありませんが……ちゃんと契約書も書きますので」
「はい?」
「所謂、制約付きのお付き合いを貴女にお願いしたいと思いまして」
「なんで、そんな」
「女性からのお誘いはありがたいのですが……最近、度を超えたお声がけが多くなり、僕も困っているんです。佳音さんも、その気のない人に言い寄られて困っていると、以前仰っていましたよね」
ですからこれは契約です、と笑顔で言うジェイド先輩に逆らえずに思わず頷いてしまったのは5年前のこと。
そして今日、私はその契約を終わらせるために彼と会っている。

きっかけはほんの些細なことだった。25歳の誕生日を迎え、祝ってくれる友人たちの近況を聞いたときに、周りを取り巻く変化にようやく気付いたのだった。
婚約、結婚、出産。もちろんタイミングは人それぞれだと思うけれど、私たちはこのままでは前に進めない。
ジェイドさんの傍はとても心地よかったし、一緒にいるのもとても楽しかった。
でも、ずっとこのままでは私も彼もだめになると、そう思った。
別れを切り出した時、思ったよりも彼が落ち着いていたので、安心すると同時に少し寂しくなった。
しかし、そのあと吐かれた言葉に私は5年前と同じように思考を停止した。

「聞こえませんでしたか?僕と結婚してみますか、と言ったんですが」
「……聞き間違いじゃなかった」
「悪くはないと思うんですけどね。こう見えても他の男性と同じくらいか、少し上ぐらいのスペックはあると思いますが」
「いえ、そうじゃなくて、」
「ああ、ご心配なく。きちんとご両親や親せきの方にもご挨拶を、」
「おかしいでしょう!」
思わず大きな声をあげると、ジェイドさんは目をぱちくりさせてから、おかしそうに笑いだす。
「どうしたんですか。普段落ち着いている佳音さんらしくありませんよ」
「ですからっ……恋人ならともかく、契約で結婚なんて、」
私はそんなの望まない。この歳になって、うわべだけの恋人が意外ときついものだというのは十分思い知った。それなのに、うわべだけの付き合いで結婚なんてありえない。
「確かに結婚するというのは契約みたいなものですが……別に契約書を交わすわけではありませんし、そんなに重たく考えなくても」
「……?」
ジェイドさんの言っている意味が分からずに首をかしげると、大きな掌が私の頭を優しくなでる。
「もっと単純に考えればいいんです。僕は貴女を好いていて、貴女も僕を好いている。そしてお互いに結婚したいと思っている。それでいいじゃないですか」
「なっ……ちがっ……」
「おや、僕のことが嫌いですか?」
ジェイドさんの瞳に見つめられると何も言えなくなってしまう。
「そんなに怖がらないでください。こんな簡単なことにユニーク魔法なんて使いませんよ」
「ジェイドさ、ん、」
細い指先が私の唇をなぞると、ぞくりとした感覚が背筋を走る。その反面、顔は熱くなって、目を逸らしたいのに彼の手はそれを阻むように私の顎を軽く掴んだ。
「大丈夫です。佳音さんは何も考えずにただ頷いて、僕の所へ来るだけでいいんですよ。毎日美味しい紅茶を貴女のために淹れてさし上げますし、貴女が望むものは出来る限り与えましょう」
お砂糖より甘い囁きがまるで悪魔の罠のように聞こえるのは気のせいだろうか。だが私もその罠から抜け出すすべを5年も前から知らないのだ。
観念したように頷いた私を見て、ジェイドさんは満足げに微笑む。

「契約、成立ですね」