この恋が恋であるうちに、

部活の最中もさっきの光景が頭から離れなかった。きっと私が真琴先輩に告白しても同じ答えになるだろう。

『江は本当にそれでいいの?』

花ちゃんの言葉が頭をよぎる。
私だって言えることなら言ってしまいたい。誰にでもそんな笑顔を向けないで。優しくしないで。私だけに特別な先輩でいて。
でも、そんなことを言って困らせたくない。嫌われたくない。私は真琴先輩に迷惑がかかるなんて思いながら、結局は自分が傷つきたくないだけなのだ。
それに、私が好きなのは誰にでも優しい真琴先輩だから。
そんなこと、とっくのとうに頭では分かっているはずなのに、やっぱり真琴先輩が他の子に同じように笑顔を向けて優しくしているのを見ると、胸が締め付けられて、やめてと叫びたくなる。
私はただの水泳部のマネージャーで、松岡凛の妹。ただそれだけの理由で真琴先輩のそばにいる。ちっとも特別なんかじゃなくて、他の人より少し距離が近いだけ。距離が近い分、近づくことも遠ざけることもできず、もどかしい立ち位置で、張り裂けそうな思いを抱え続けている。
いっそのこと、もう辞めてしまおうかと思う時もある。真琴先輩に気持ちを伝えても、先輩は優しいから困らせてしまうだろうし、部活に支障が出るかもしれない。でも先輩に優しく微笑みかけられて「江ちゃん」なんて呼ばれたりすると、彼のことが好きだと実感してしまうのだ。言いたくても言えない、もどかしい気持ちにけじめをつけられないでいるうちに、真琴先輩は遠くへ行ってしまうだろう。そうなる前に手を伸ばして、

「……ちゃん、江ちゃん。どうかした?」

「……へ?」

気が付くと真琴先輩が私の顔をのぞき込んでいた。そうだ、今は部活中なんだから集中しなきゃ。

「ごめんなさい。ちょっとぼーっとしちゃって……」

「でも、その……手……」

「手?」

ちょっと照れたような真琴先輩の視線を手繰ると、私の手が真琴先輩のジャージの裾を握っていた。

「ご、ごめんなさいっ!」

慌てて手を放して謝る。一気に顔が熱くなるのが分かった。嫌だ、恥ずかしい。

「すみません、考え事してたらつい……」

「そんなに気にしなくても大丈夫だよ。いつも俺たちのために色々頑張ってくれてありがとう、江ちゃん」

優しい言葉とともに、頭の上にポンポンと手を置かれる。
大きな男の人の手。お兄ちゃんとも宗介くんとも違う。
大きな手のひらの感触にドキドキしながら、真琴先輩を見上げる。
そんな優しい笑顔で、嬉しくなるようなことを言って、頭をなでたりするから、好きだって自覚してしまうんです。諦めきれないんです。
……真琴先輩は、ずるい。 


――そして、夏が終わる。私達の永遠の夏。
様々なことを乗り越えて、岩鳶水泳部は全国大会で6位の成績をおさめた。
真琴先輩、遙先輩、渚くん、怜くんで繋いだあのリレー。私にもみんなと同じように見たことのない景色が見えたような気がした。途中、涙でかすんで、みんなのことが見えなくなって、夢中で泣いた。ここまでくるまでに、本当にいろんなことがたくさんあって、大変な思いもしたし、みんなのことを見守ることしかできなくて辛かった時期もあった。けれど、ようやくたどり着けた。
そして遙先輩は推薦で東京の大学への進学を決め、お兄ちゃんは恩師に呼ばれてまたオーストラリアへ。こっちに帰ってきてからも寮生活で、お兄ちゃんとは全然一緒に過ごせないままお別れになってしまうのはすごく寂しいけど、夢を追いかけ続けるお兄ちゃんは紛れもなく私の大好きなお兄ちゃんだ。
そして、真琴先輩は――

『江ちゃん、今まで本当にありがとう。お疲れ様』

『そんなこと……こちらこそありがとうございました!……えっと、これから、受験頑張ってくださいね』

『うん。そのことなんだけど……実は江ちゃんに言いそびれたことがあって』

『何ですか?』

『ハル達には言ったんだけど……俺、東京の大学に行くことにしたんだ。って言ってもハルと違って推薦じゃないから、これから猛勉強しなきゃなんだけどね』

『え……』

『実は……笹部コーチに頼まれて岩鳶SCRでバイトしてたときからずっと考えてたことがって……水泳のインストラクターを目指そうと思うんだ。大学ではその勉強をしようと思ってる』

『そう、なんですか……真琴先輩なら絶対大丈夫ですよ!応援してますから、頑張ってくださいね!』

照れたようにありがとうという真琴先輩に何も言えるはずがなく、私は笑みを張り付けるだけで精いっぱいだった。私が真琴先輩に何か言う権利なんてない。私に出来ることといえば、真琴先輩を応援して、見守るだけ。これまでも、これからも、そうするしかない。


卒業式が刻一刻と近づく中、校内の空気は少し浮かれていた。3年生が登校日で来るたびにクラスの子たちはひそひそ話をして色めき立つ。

「みんなどうかしたの?」

「どうかって……江、知らないの?」

「何が?」

「告白よ、告白。ほら、3年生はもうすぐ卒業しちゃうし、登校日にしか学校に来ないからそれを狙って告白するの」

「そっかあ……」

「そっかあ、って江!……本当に何も言わないままお別れするつもりなの?」

「……」

「江……最後くらい、わがまま言ってもいいんじゃない?」

花ちゃんの言葉にちょっとだけ泣きそうになった。
本当に、わがままを言ってもいいんだろうか。わがままを言って困らせて、私の想いを伝えてもいいんだろうか。
そう考えると少し怖くなった。でも、卒業したら真琴先輩は遠くへ行ってしまう。追いつけるかなんて分からない。
そう、もしかしたら、本当にこれで最後かもしれない。
このまま私の手の届かないところへ行ってしまうのだったら、もうこれで最後なのだとしたら、

最後くらい困らせてやるんだから。

「花ちゃん、ごめん!用事あるから先に帰ってて!」

授業終了のチャイムが鳴ると同時に、花ちゃんにそれだけ告げると私は教室を飛び出した。
廊下を駆けて、真琴先輩を必死で探す。3年の教室にはいなかった。もう帰ってしまっただろうか。

校内を駆け回りながら、私はさっきまで教室で楽しそうに話していた女の子たちのことを思い出した。みんな、誰それ先輩の第二ボタンが欲しいとか、写真を一緒に撮りたいとか、語っていた。
……第二ボタンなんか誰にあげてしまったって構わない。私が欲しいものはそんなものじゃない。

私が本当に欲しいものは――

「いた……っ!」

学校のプールへ行くとそこには思った通り、真琴先輩がいた。穏やかな顔つきで水の張られていないプールを眺めている。
私はちょっと立ち止まり、走って乱れた髪を手櫛で整えてから真琴先輩のもとへゆっくりと向かう。真琴先輩、と少し震える声で呼ぶといつものように私を見て、江ちゃんって呼んで笑いかけてくれる。
心臓がドキドキして痛い。これはきっと走ったせいだけではない。
何も言わない私に真琴先輩が不思議そうな顔をする。その顔を見るだけで私の心はキュッと締め付けられる。

でも、もう逃げたりしない。だって私の想いは本物だから。

私がこれから告げる言葉に真琴先輩がどんな反応をするか、想像しながら私は大きく息を吸い込んだ。

「真琴先輩!私、先輩のことが――」