ゾンビ映画を観る話

原題:七海建人と一緒にゾンビ映画を観る話


 耳をつんざくような悲鳴と、およそ理性のある生き物のものとは思えぬ呻き声。次いで何かを貪り食う音に、荒い息遣い。
 あぁ、駄目だ。後方にいた仲間はもうほとんどやられてしまったと思って良いだろう。手元にあるのは錆びかけのナイフ一本。対して、体を引きずりながら歩くような音は……ざっと五つ。

 かの有名な戦闘指南書、五輪書ならわたしも読んだことがある。けれど、ここに宮本武蔵はいない。たとえ一般人と比べれば多少なり機動力があるといえども、やっぱり一対複数の戦闘は不利すぎる。ここは隠れてなんとかやり過ごすしかない。なるべく音を立てないように近くの物陰にしゃがみ込み、息を潜める。ずるずるという音は少しずつ少しずつ近づいて、やがてすぐ傍で止まる。しんとする空気に思わず閉じていた目を開けると──……。

「また見ているんですか」
「ぎゃああああああ‼」

 目の前にある画面の世界に没入していたわたしを突如現実世界へと引き戻したのは、お風呂から上がったばかりの同棲する恋人の少し呆れたような声だった。
 緊迫したシーンから一転、思わず色気もへったくれもない叫び声を上げたわたしに、七海はうるさそうに眉間にシワを寄せてみせる。まだばくばくと騒がしい心臓を深呼吸で落ち着かせながら、いつの間にかすっかり危機を脱していた主人公が映る画面に向けてリモコンの一時停止ボタンを押す。

「もう……びっくりさせないでよ……」
「びっくりしたのはこっちです。それで、お風呂の水は流しますか?」
「あ、いいや。明日の朝も追い炊きして入るつもりだから」

 七海はその言葉に「分かりました」と答えながらわたしの座っているソファに並んで腰かけると、グラスに注がれたミネラルウォーターをごくごくと喉に流し込む。飲み下される度に上下に動く喉仏とその整った横顔を色っぽいなあと思いながら見つめていると、七海は「視線が気になります」と言って、勘弁願いたいといった風に飲みかけのそれをテーブルへ置いた。
 その動作でふわりと香ってくる、自分と同じシャンプーの匂い。こうして一緒に住み始めてもうだいぶ経つというのに、こういうふとしたときに感じる小さな幸福感といったら、決して尽きることはない。

「随分と長い間同じシリーズを観ている気がしますが、ドラマですか」
「そう。まだシーズン4なんだけど面白くて止まらないんだよね」

 しばらく一緒に住んでいれば、互いの生活リズムも自ずと理解できるようになってくる。わたしがお風呂上りから寝るまでの間こうして映画や海外ドラマを見るのはもはや日常茶飯事で、それを七海がなんとなく一緒に見たり見なかったりするのも、いつも通りだ。
 七海も見ようよ、と誘ってみれば、彼は軽くリモコンを操作し、まだまだ先が長いことを確認してから「こんなずっとゾンビを倒すだけのドラマ、面白いんですか」と疑わしげに尋ねてくる。

「七海、分かってないね」
「……何が」
「これはただゾンビを倒すだけのドラマじゃないの。主人公たちはゾンビと戦っているようで実は食料争いをしたりキャンプを奪い合ったり、人間との方が戦ってるんだよ。ゾンビよりまともな人間の方がよっぽど怖いんだから」

 熱く語るわたしに特に意見するでもなく、七海は興味があるのかも分からないような表情で「そうですか」と一言いうと、仕事のときとは違うセットされていない髪の毛を軽くかき上げて、ふう、と息を吐きだした。

「……まともな人間の方が怖いのは、現実でも同じでしょう」
「まぁ、仕事柄それには概ね同意するけど」
「にしても、ホラー映画は怖いと泣くわりにこういうスプラッター系は観られるんですね」
「ゾンビ映画観られなかったら呪術師やってられないでしょ。作り物だってわかってる分こっちの方が断然マシ」

 呪術師とはまったくしんどい職業だ。一般人が娯楽として楽しんでいるこういった世界に、時には映画よりもずっと厳しい状態で飛び込まなければならないし、仲間を失うのも決して珍しいことではない。
 ただ、もう嫌というほどそんな現実に直面してきたわたしは、逆にこうして頭を空っぽにして見られる��作り物の世界�≠ノ割り切って没入できるようになった。本当に、我ながら人間の順応性というものには驚かされる。

 とはいえ、はたして同じようなことが起きたとして冷静に対処できるかと聞かれれば、答えは当然NOだ。こんなウイルスが蔓延る世界は断固お断りだし、人間同士が醜くいがみ合うのも可能なら全力で避けたい。

「……ねぇ、もしわたしがこうなったら、どうする?」
「……��こう�≠ニはつまりゾンビになったら、と? 本当にアナタ、すぐ影響を受けますね」
「そこは感受性が豊かって言ってほしいかな」
「そう言うならまずは最近よく買い足してくる缶詰や非常食をどうにかしてください」

 うわ、バレてる。
 でもこういったディストピアがもし本当に訪れたら、結局数年保存がきく缶詰なんかが一番重宝されるんだから、別にあって困るものじゃないはず──なんていうわたしの考えは七海にはお見通しなようで、「パントリーのスペースがどんどん圧迫されるので困ります」とキッパリと言われてしまった。仕方がないから古いものから少しずつ食べていくことにしよう。

「それはさておき。アナタがゾンビになったら、でしたね」

 七海は相変わらず律儀にわたしのくだらない思い付きに話を戻すと、そのまま大して悩む様子もなく続ける。

「まあ、殺すんじゃないですか」
「うっ……やっぱり」
「アナタが生きてるか死んでるかも分からない状態で動いているのを見るのは……色々と、良くない」

 主に精神衛生上ですが、と続ける七海は、どうやらそういうイメージをしてしまったのだろう、再びぐっと眉間にシワを寄せた。
 それを見て申し訳ないという気持ちが湧きつつも、こんな世間話もわたしのまだ知らない七海の考え方を知ることができる機会だからとつい深掘りしてしまう。

「精神衛生上以外は?」
「……倫理観だとか死生観だとか、そういうものでは? ずっと見ていればそんな姿でもアナタだと思いたくなるかもしれないし、生きていてほしいと考えてしまいかねない」
「……そっか」

 七海のその言葉は、正直少しだけ意外だった。逆の立場ならわたしもきっと躊躇するし、もしかしたらまだ元の七海に戻る可能性があるんじゃないか、なんて考えてしまうかもしれない。ただ、なんとなく七海は案外さくっと止めを刺せてしまうのではないかと思っていたので、予想外だ。

 普段からこれでもかというほど七海は愛を感じさせてくれているのだから、別にこの返答ひとつで愛を再確認するなどということはないけれど、自分の恋人はやはり情に厚い男なのだということは改めて感じる。

「でも、きっと自我なんてないんだもんね。そう考えたらやっぱり早く終わらせてほしいかも」
「アナタならそう言うと分かっているので、一思いにやりますよ。ご心配なく」
「なら安心だ」

 思わず「ふふ」と笑いながら言うわたしを七海が何か考えるように見つめる。そして、やがてどういう結論に至ったのか突然ぐっと顔を近づけ、そのまま頬に触れるだけの軽いキスを落とした。
驚いて依然至近距離にあったその顔を見つめれば、今度はわたしの唇を捉えて、柔らかく食むように幾度か口付ける。少しして離れた彼の顔つきには、��神妙な面持ち�≠ネんていう言葉がぴったりだった。

「きゅ、急にどうしたの」
「いえ。……逝くなら私より後にしてください」

 懇願するように少し切なげに紡がれたその言葉に、心臓がどきりと跳ねた。
 わたしだって自分の死に際を選べるというのなら、もちろん最期の瞬間まで七海と添い遂げたいと思う。しかしながら、生憎そんな選択とは一番程遠いと言っても過言ではない、こんな仕事をしている。
 そりゃあ人間誰しもいつ死ぬかなんて分からないし、死の前に人は平等だ。けれど、死に直面する機会の多さに関して言えば、呪術師と一般人とでは天と地ほどの差があると言って良いだろう。
 だからこそ、肯定はしなかった。

「……もしわたしが先に死んでも、悲しみすぎないで次に進んでね」
「要するに、私にアナタを忘れろと?」
「だって、七海ならいくらでも素敵な人が現れるでしょ」
「……仮に、その��素敵な人�≠ェ現れたとして。私が好意を抱くかどうかは別問題でしょう」

 そう言う七海は少し不機嫌なようにも見える。わたしが先に死ぬ前提で話していることが気に食わないのか、はたまた不確定な七海の未来に他の女性を宛てがおうとしていることが不服なのか。おそらく、というよりほぼ確実に後者だ。

 分かってはいるものの上手く話を完結させられないのは、わたしの良くないところだ。思いもよらずこんな真面目な話になってしまったけれど、別に言い合いをしたいわけではないので、返答に悩んでしまう。
 そんなわたしに、七海が小さく溜息をつく。

「生憎、今更他を想うなんて器用な真似は出来ない」
「……ほんと、七海って真面目というか、一途だよね」
「褒め言葉として受け取ります。アナタとこうなるまでに何年かかったと思ってる」

 それは、七海が気持ちを伝えてくれたときの言葉を借りるなら��高専で出会ってすぐの頃から�≠セ。七海が呪術師から離れていた間も含めるのだから、つまり相当長い期間ということになる。
 光栄なような恐縮なような、それでいて恥ずかしいような何とも言えないむず痒い気持ちになるけれど、それでもやっぱりこんな風に言われて嬉しくない人間はいない。まして相手は自分の恋人なのだ。この幸せは筆舌に尽くし難いものがある。

「わたしも、七海しかいないよ」
「……そうですね、私がアナタの隣にいる内はそうしていただけると」
「ううん、たとえ七海が死のうがゾンビになろうが、七海だけだよ」

 そう、もしもわたしたちが死ぬよりも早くこの世界が終焉を迎えたとしても、この気持ちが揺らぐことは絶対にない。
 ちょっと詩的すぎたかな、なんて思いつつも、心の底からそう感じているのだから仕方がない。優しくて真面目な七海に思ったままを伝えれば、それを聞いた彼は再び真っ直ぐな瞳でじっとわたしを見つめて、大きな手を頬に添えてくる。これは彼がキスをしたいときの合図なのだと、もうとっくに知っている。

 同じように見つめ返して手を重ねれば、その瞳が愛おしそうに細められ、ソファが小さく音を立てて軋んだ。崩れる体勢を厭うことなくキスの雨を降らされて、あっという間に押し倒される形になった。
 そうして繰り返される口付けがようやく止んだ頃には、お互いの息はすっかりと上がって熱くなっていた。ぐ、と七海の唇が首元に寄せられて、熱を持った吐息を感じる。思わず「ま、待った」と制止してその肩を両手で押し返すと、視界に少しだけムッとした表情をした七海が映った。

「何ですか」
「……今日の映画タイムがまだ終わってない」

 聞くや否や、大きな溜息。
 七海の言いたいことは物凄く分かるし、自分でもそれはないだろうと思う。思うけれど、わたしにとっては七海と二人で映画を観るこの時間もとても大切で、必要不可欠なのだ。幸い明日は二人とも任務は午後からだし、少しくらい夜更かししたって許されるはず。

「この気持ちでゾンビは見たくありませんね」
「あ、じゃあこっちの恋愛モノにしよう! よく知らないけど最近話題になってたやつ」
「……良いですよ」
「へ⁉ 良いの⁉」

 たしかに七海はいつだってわたしの意見を尊重してくれるけれど、今日ばかりはこのまま寝室へ連れて行かれるのではと考えていた最中にあっさりと受け入れられたその提案に、思わず拍子抜けしてしまう。
 目をぱちくりとしばたたかせているわたしに放たれた「ええ、アナタは影響を受けやすいですから」という言葉の意味がよく分からず首を傾げてみせると、七海は再生ボタンを押したのち、やれやれといった表情でご丁寧に説明してくれる。

「この映画が話題になったのは、濃厚なベッドシーンがあるからですよ」
「えっ」
「なんですか。観るんでしょう、最後まで付き合います」

 その代わり途中でやめるのはナシで、という七海の一言に、まだまだ夜は長いのだと思い知らされる。

お酒とつまみを用意しようと立ち上がる彼の腕を掴んで、わたしが泣く泣く映画はやめにしようと申し出るまでにそう時間は掛からなかった。


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