死んだ話
原題:七海建人が死んだ話
七海が死んだ。
後輩からも先輩からも信頼される一級呪術師で、体が大きくて、力が強くて、いつもちょっと気怠げで、それでもドがつくほど真面目で、本当は誰よりも底無しに優しくて、いつも人のために生きていた。──そんな男が、死んだ。
その事実は、重石のように体内の深いところまでずしりと落ちてきて、やがて全身に溶けるようにじわりと広がりわたしにその意味を理解させる。
現実は、あまりにも残酷だ。わたしは応援に駆けつけた渋谷の地下に横たわる七海だったと思われるものと、それを証明するごつごつとした右手、そして死して尚しっかりと握られたままの鉈を前に、ただそう思いながら立ち尽くしていた。
突如、胃がぐるぐると回る。体が全てを拒否して、中からひっくり返ってしまいそうだ。七海の遺体は回収しなければならない。現場を荒らしてはならない。ただそれだけを考えて、いまいち上手く働かない脳からの信号に従うまま極力隅へ寄り、胃の中のものを吐き出した。
内容物はもうとっくに消化されきっていたようで、何も出てこない。
今朝食べた、七海に勧められて買ってみた美味しいパン屋のカンパーニュも、七海が飲んでいるのを真似して最近挑戦していたブラックコーヒーも、何もない。それらは全て最初から無かったかのように、消えてしまっていた。
見つめる地面に、ぽたりぽたりと何かが落ちた。それが自分の瞳から溢れているのだと気づくまでの間に、視界は全てぼやけきって、世界はその色も境界も曖昧にしか見せなくなっていた。体を引きずるように七海の傍に戻り、へたり込む。震える唇で、その名前を呼んでみた。
返事はなかった。そこにはただ、すっかりと形を変えてしまった骸が、無言で帰宅のときを待っていた。時間外労働が嫌いな彼のことだ。本当は定時後すぐにでも家に帰りたかったに違いないし、帰ったらまたなんとなくシャワーを浴びて、なんとなくテレビを流し見ながら缶ビールを飲んで、暖かいベッドで眠る。そんないつもの毎日を、いつも通り送りたかったはずだ。いや、それはわたしの願望かもしれないが、少なくともわたしはそうであってほしかった。
とにかく七海は、このような場所でその二十八歳という短すぎる生涯を終えるには、あまりにも惜しい人間だった。
「……ななみ……」
もう一度、呼ぶ。
照れると真っ先に赤くなる耳も、わたしが名前を呼ぶと愛おしげに細められる翡翠の瞳も、口付けると少しカサついている唇も、細くて柔らかい榛色の髪の毛も、もう何もない。ないのだから、わたしの声が聞こえるはずもない。応答が、あるはずもない。
いつだか、言ったことがあった。「七海は律儀だね」と。それは確か、典型的なB型らしく話があちこちに飛んだり戻ったりするわたしに、七海がひとつひとつ丁寧に返事をしたときだった。先述の理由を添えて謝罪したわたしに、「血液型で性格が決まるなんて迷信でしょう。それにもう、アナタが何の話をしているのかは何となく理解できるようになりましたので」と呆れたように返していた。
「……七海。教えてもらったパン屋、本当に美味しかったの。七海の言う通り、表裏きっちり二分ずつ焼いて、それで、バターだけ塗った。でも、はちみつを塗っても美味しかったよって、教えようと思ってたの」
興味のない話題でも相槌を打ってくれる七海が無言を貫くのは、これが初めてだった。
気が違い始めているのだと自分でも分かる。上半身が欠損した恋人の遺体に話しかける女は傍から見ればさぞ非現実的で哀れで、目も当てられないだろう。
──現実でないのであれば、どんなに良かったか。
立ち上がり方すら忘れてしまったかのように、全く力の入らない足に触れてみる。痺れているのか、感覚はない。
やがて脳が血液不足を叫び始め、手足から熱が急速に引いていき、額からも大きな脂汗が滲み出た。急にうまく吸えなくなった息が酷く体を震わせて、やがて視界は七海の大きな手を映したのを最後にブラックアウトした。
◇
「はちみつはどこのものを?」
「え? えーっと……たしか国産の、純粋はちみつ。インターネットで話題になってたやつ。すごく高かった」
「……なるほど、それは確かに美味しそうですね。私も一度食べてみたかった」
今日帰ったら分けてあげるから、明日にでも食べなよ。そう言おうとしたところで、なんだかふわふわとした不思議な感覚に襲われる。漠然とした違和感のような、何かパズルのピースが足りないような、そんな感覚だ。
「……七海、ここ、どこだっけ。わたしたち、何してるんだっけ?」
「ここはアナタの夢の中ですよ。そして私たちは、ただいつも通り、なんでもない世間話をしているだけです」
七海の言葉を受けて、辺りを見回す。満天の星空を映す大きな湖の上に、立派な屋久杉のようなものが横たわっている。
視界の限り続く湖──ボリビアにあるウユニ塩湖に近い──は、地平線の向こうまでずっと続いている。
わたしと七海は木の上に並んで座って、空を仰ぐ。そのまま目を閉じて大きく息を吸うと、いつかどこかで嗅いだことのあるような優しい香りが肺を満たした。酷く落ち着く匂いだ。それでいて、なんだか切ない。
再び目を開くと、今にも降ってきそうなたくさんの星がわたしたちを照らしていた。きらきらと輝くそれがこんなに綺麗に視界いっぱいに広がるのを、わたしは初めて見た。本当に夢の中なのだとしたら、今まで見たこともない光景をこんなにも鮮明に描き出せるものなのか、と自分の想像力の豊かさに思わず感嘆の溜息を漏らしてしまうほどだ。
「綺麗だね」
「……そうですね。ずっとここで、こうして話していられたら良いんですが」
「それは、難しいこと?」
「ええ、できません。アナタはもうすぐ、目を覚まさなければ」
パズルのピースが、かちりとひとつずつ埋まっていく音がする。
七海は、俯いてほんの少しだけ残念そうにしていた。そんな顔は、してほしくない。七海がそんな顔をするくらいなら、わたしはこのまま一生目覚めなくて良いと、心の底から思った。
彫りが深く、こけた頬に指先で触れる。不思議と思った通りに暖かく、少し固い。何度も触れたのだから分かる。もしかしたらこの感覚は、体の記憶なのかもしれない。
「ずっと一緒にいたいよ。七海」
「……私もです。そうできたらどんなに良いか。アナタを置いて逝くなんてことは、したくなかった」
「このままずっと、二人がいい」
「ここでは美味しいパンが食べられませんよ」
「それでも、いいよ」
それでもいい。たとえこのままずっと夜が明けずとも、もう二度とご飯が食べられずとも、隣に七海がいるならそれで構わなかった。七海の声を、香りを、温もりを覚えていられるのなら、それ以外何も欲しくはなかった。
かちり。
──ああ、そうか。
「忘れたくないの、七海。時間が経って、あなたのことがひとつひとつ思い出せなくなって。いつかこの気持ちすらも曖昧になるのかと思うと、怖いよ」
「……それはここに居続けても同じですよ。ここにいても、いずれ何もかも少しずつ鮮明でなくなって、私はアナタの中から消えてしまう」
「どうして……そんなの嫌だよ、七海。だってわたし、もう一人じゃどうやって歩いたらいいのかさえ、わからないの」
大粒の涙が、自分の瞳から零れ落ちるのが分かった。子供のように泣きじゃくるわたしに、七海は困ったように微笑みながら、それを暖かくて大きな手で拭ってくれる。
こんなに優しい顔は、わたしにしか見せないのだと知っている。だからわたしは、自分はこの世で一番の幸せ者なのだと、これまで何度も何度も感じてきた。いつだってわたしの幸せは全部、七海でできていた。
かちり。
──七海はもう、本当に帰ってこないんだ。
「ちゃんとそばで見ていますから。アナタがまた歩き方を思い出して、道を見つけて、いつかここに来るその時まで」
「……もし、今よりずっと歳を取ってても分かる?」
「当たり前でしょう。絶対に分かりますから、あまり見た目が変わらない内に来ないように」
「……約束して」
「ええ、約束です」
柔らかく目を細める七海の胸に顔を埋める。やっぱり、暖かくて優しい香りだ。抱きしめ返す七海の手も優しいけれど、どこか悔しそうに力が込められていた。そのまま肩に額を預けられて、心地良い重さを感じる。
耳に届いたのは、絞り出すように紡がれた、小さく震える七海の声。
「……アナタを失いたくありません。誰よりも幸せになってほしいのに、その隣に自分がいられないことが、こんなにも苦しい」
「やだなぁ。次にここに来るまで、もう一生、七海以外と幸せになるつもりなんてないよ」
「死んでまでアナタを縛り付けるつもりは」
「ううん、そうじゃなくて」
わたしがもう、七海以外と幸せになる方法なんて思い出せないだけだ。思い出せないし、多分それはどこにも存在していない。
かちり。
最後のピースが、空いた穴にしっかりとはまった。
「七海、愛してるよ。これまでも、これからも、ずっと」
「私も、アナタを愛しています。心の底から、どうしようもないほどに」
重なった唇を合図にするようにして、世界は急速に一点に向かって収束し始める。
今はもう、怖くはなかった。わたしの手を包み込む七海の大きな手は、記憶の通り暖かかった。
◇
重たい瞼を開くと、見慣れない無機質な白い天井が静かにわたしを見ていた。
体は金縛りにあったかのように固まり、動かない。かろうじて動かせる眼球を左右に振ってみれば、わたしの腕に伸ばされた管が、何やら透明な液体の入った点滴用の袋に繋がっていた。
見え得る限りの情報と周囲に漂う薬品の匂いで、ここが高専の医務室であることを理解する。人の気配はないが、遠くから少し慌ただしく走り回る足音のようなものが聞こえた。
今は、何月何日の何時だろうか。悪夢のようなあの日から、わたしはどの程度眠っていたのだろう。
「……ぅ……」
もう一度体を起こしてみようと、力を込める。全身の筋肉がぎしぎしとおかしな音を立てて、ようやく動き方を思い出したかのように言うことを聞いた。
腕の力で身体を持ち上げるようにして、なんとか頭上にあった壁に背を預ける。──誰もいない。医務室なのだから、誰もいない方が良いのだが。あんなに大きな地獄の後とは思えぬほどに、この部屋は静かだ。
夢の内容を反芻する。ただの夢だったのかな。それにしては、とても暖かくリアルだった。そのおかげか、思ったよりも心は落ち着いている。不可思議なことばかりが起こる呪いの世界だ、あれが七海の最後に見せてくれた律儀さなのだと言われても頷けるような気がした。
ふと、扉が誰かによってがちゃりと開かれる。反射的にそちらを見つめれば、部屋に入ろうとした硝子さんが驚いたように一瞬、目を丸くした。次いで彼女は安心したように小さく息を吐き出して、柔らかい表情でわたしの傍までゆっくりと歩み寄る。
「もう起きないのかと。良かった」
「……そんなに、寝てました? なんだか体が重い」
「丸四日間くらいか。精神的ショックが大きかったんだろう。記憶は正常?」
「……はい、覚えてます。全部」
そうか、と呟かれたその声にいくつもの複雑な感情が混じっていることは、なんとなく理解できた。しかし、察するにここ数日で嫌と言うほど怪我人や亡くなった人の対応に追われていたのだろう、硝子さんの目の下の隈はいつもよりもくっきりと濃い。
「──七海は」
「うん?」
「七海は、もう、燃えちゃいましたか?」
「……ああ。すまないな。なるべく君を待ちたかったが、さすがにあのまま置いておくのは彼にも申し訳なくて」
「……いえ、いいんです。ありがとうございます」
七海が、灰になってしまった。あのしなやかに洗練された立派な体躯が、風でさらさらと簡単に舞ってしまう、粉に。
葬式に出ることも火葬に立ち会うことも叶わなかったが、十年ほど前、わたしたちの親友を見送ったときから幾度となく参列したそれらは一度も大きく違いはしなかったのだから、きっと今回も想像する通りに粛々と行われたのだろう。
「……覚悟してたつもりだったんですけど、やっぱり全然だめですね。頭が覚醒してきたら、なんかもう、ぐちゃぐちゃで」
「無理もない。でも、君が今辛いのも、何をすべきか分からないのも、何もかも受け入れたくないのも。まだしっかり人間として生きている証拠だよ」
「七海と一緒に、逝きたかった」
「それは……七海が聞いたら、怒るかもな」
その言葉を受けて、頭の中の七海に同じ台詞を言ってみる。「何を馬鹿げたことを言ってるんですか。疲れているからそういう思考になるんだ、少し休んだ方がいい」そう、返ってきた。
七海は怒りはしなかった。ただ呆れたように、縁起でもないことを言うなと言いたげに眉を顰めている。それでいて、わたしのことを何よりも心配して、優しく諭すように語りかける。七海建人とは、そういう男だった。
「……約束、したんです。夢の中で」
「ほう、どんな?」
「わたしが死ぬまでちゃんと傍で見てるから、その代わりあまり若い内に来るなって。……ただの夢なのに、馬鹿げてると思いますか?」
「……まさか。七海ならそう言うだろうなとしか思わない。それにあいつの性格を思えば、本当に無理矢理夢まで会いにきたと言われても驚かない」
はは、と思わず笑った。確かに、七海はあれでいて少し強引なところがあった。
まだ高専の生徒だった頃、わたしが花火大会を見に行きたいと言ったとき。任務が入ってしまって間に合わないと不貞腐れていたわたしをわざわざ現場まで迎えに来て「今からならまだ三十分くらい見られます」と、戦闘の後で泥まみれの手を引き、一緒に花火を見た。
それから、七海が呪術師として戻ってきたとき。わたしと猪野くんが二人で行くはずだった任務の日、待ち合わせ場所にいたのは七海だった。首を傾げるわたしに、「復帰後最初の任務はアナタとの方がやりやすいと意見したところ、五条さんが汲んでくれまして」と、その当時は変だなと思っていたサングラスを持ち上げながら、言っていた。
告白されたときも、そうだった。「アナタは危なっかしいので、私と一緒にいるべきです」だなんて、それが至極当然のように言っていた。それでも、本当に嬉しかった。
記憶を辿るたび、どこを切り取ってもそこには七海の存在がある。目が覚めてから初めて、涙が出た。しゃくり上げるようなことはなく、それはただ静かにわたしの頬を伝っていた。
「もう少し、休むといい。動けそうなら帰ってもいいよ。気が済むまで泣いて、この仕事をまだ続けてやろうって思えたらまた高専に顔を出して。後処理も検討課題も、山のようにあるんだ」
それだけ言うと、硝子さんは部屋から出て行こうとして、再び足を止めた。そして思い出したかのように「七海の家の鍵、持ってる?」と尋ねる。
肯定の意味を込めて頷くと、硝子さんは少し考える仕草を見せてから、静かに呟いた。
「今回の件が起こる前に、五条がここ数日七海の様子がおかしい、だなんて言っていたよ。彼に限ってやましいことはないだろうから、もしかしたら君に関することかもね」
それじゃあ、と今度こそ本当に閉められた扉を見つめながら、わたしはまだ止まらない涙を自分自身の手で拭った。
◇
四角い丁寧な字が、その紙に彼の名前を刻んでいた。��七海建人�≠ニいう四文字は、この世に存在する言葉の中で最も美しいように思える。
日が落ちてからようやく地に足をつけたわたしは、その軋む体で無理矢理帰路につこうとしていたところで、病み上がりの伊地知くんに見つかった。彼はわたしに何も聞かなかった。ただ、七海の家に行きたいというわたしをいつも通りの安全運転で目的地まで送り届けてくれた。
数日ぶりに入った七海の部屋は、最後に訪れたときから特に何も変わっていない。静かな部屋に冷蔵庫の稼働音が無機質に鳴り、整理整頓された彼の持ち物や家具が、もう帰らぬ家人を待っていた。
それは、七海が重要な書類をしまっていたサイドボードの上に堂々と置かれていた。近しい内に使う予定があったのだろうというのは想像に難くない。
高級感のある小さな箱は、埃が被らないよう大切に不織布に包まれている。そっと取り出して、開く。
中身は、見る前から分かっていた。初めからそこが居場所であったかのようにわたしの左薬指にぴったりの指輪は、決して豪華でも派手でもないが、控えめにあしらわれた輝く宝石がまるで彼の瞳のようだった。
隣に添えられていた紙に書かれた、彼の名前。【夫になる人】という文字の隣の、【妻になる人】の欄。そこに、七海がよく使っていたボールペンで自分の名前を書き入れる。
この国では、死後に婚姻関係を結ぶことはできない。どこかの国では、冥婚なんてものがあるのだと聞いたことがある。だけど、そんなことは関係なかった。
今は可愛いデザインもたくさんあるというのに、市役所で貰える、昔ながらのシンプルな薄い婚姻届。それを受け取る七海の姿が少し想像できなくて、笑ってしまう。
笑いながら、やっぱり涙は止まらなかった。
──もっと、一緒に居たかった。
この指輪を恥ずかしそうに渡す七海を抱きしめて、これからの人生を彼と共に歩んでいきたかった。休日の朝は二人でパンを食べて、仕事の愚痴を言い合って、くだらない話をして笑い合って。一緒にソファに並んで映画でも観て、七海は本を読んで、わたしはそんな七海の大きな体に寄りかかりながら目を閉じる。夜は同じベッドで眠って、朝起きたら隣には寝ぼけ眼の七海がいる。
そんな毎日を、何気ない日常を、ただ彼とずっとずっと過ごしていきたかった。
「ななみ……ななみ……」
ぼろぼろと瞳から涙が溢れ出す。
何度名前を呼んだって、何度神様に祈ったって、七海はもう帰ってはこない。
わたしは彼が生前与えてくれた、大きくて深くて、けれど限られた愛の中で、それを使い切ってしまわぬように浅く小さく呼吸をしながら生きていくのだ。一生を終えるまで七海を決して忘れてしまわぬように。
だからどうか、どうか安らかに。わたしがそっちへ行くまで、見守っていて。そしてまた会ったら必ずその腕でわたしを抱きしめて「頑張りましたね」って、褒めてね、七海。
◇
「戻ってきてくれて嬉しいよ。ええと、七海と呼んだ方がいいかな」
「あはは、なんだか照れますね。法的には夫婦でもなんでもないんですけど」
「いいじゃないか、周りにもちゃんと確認したんだろう? 似合ってるよ」
呼ばれ慣れないその名前に、思わず顔が綻ぶ。
七海の姓を勝手に名乗るようになって、まだ日は浅い。初めのうちは恋人を亡くして傷心した女の戯言だと思われたかもしれないそれは、少なくともわたしの近しい人間の中では浸透しつつあった。
「相変わらず人手不足だから、君にもまたどんどん任務が振られると思うけど。大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
この指輪を受け取ったとき、この姓を名乗ると決めたとき。進む道は決めた。
七海と同じように呪術師として生きて、そしていつか死ぬ。結局のところ、わたしにはそれしかないのだ。わたしにより適性があるのは、多分会社員ではなく呪術師なのだと分かっている。
けれど、ひとりで真っ直ぐ歩く方法はまだ思い出せないままだ。
「まあ、色々積もる話もあるけれど。まずはコーヒーでも淹れるよ。砂糖とミルクは?」
「あ、いえ。ブラックでお願いします」
「……ブラックね、分かったよ」
少しして差し出された熱いコーヒーに口をつける。
──苦い。これを好きと言えるようになるまでには、きっとしばらく時間がかかる。
だけど、やがて慣れるのだろう。そして、いつか彼が隣にいなくても歩く方法を思い出す。
この世界に、わたしはまだ確かに生きて立っているのだから。