500円玉貯金の話

原題:七海建人と500円玉貯金の話


 目が覚めると同時に、「あぁ、これは寝すぎたな」という感覚。寝室の窓からの光の射し具合はもちろんのこと、それはとうにもぬけの殻となっているベッドの右隣やリビングから聞こえるがさがさという音など、家の中の空気からもなんとなく感じ取ることが出来た。

 欠伸をひとつして、スマートフォンの画面を点灯させる。十五時三十分。寝すぎたどころかもう夕方だ。重い体を引きずるようにして布団から這い出る。数時間ぶりに地に着けた足は、昨晩から今朝方にかけての任務の疲労がまだ少々残っているようだった。

 がちゃりとドアを開けると、今からまさに出掛けようとしていたといった風な七海がわたしを見た。「おはようございます」という台詞は本来到底こんな時刻に用いられる挨拶ではないが、寝起きの人間にかける言葉としては正しいのだろう。

「おはよう。出掛けるの?」
「ええ、買い出しに行ってきます」
「ごめん、わたし行くのに」
「夜通し任務だったんでしょう。何時ごろ帰ってきたんです」

 その質問に、思考を巡らせる。昨晩突然呼び出されたその任務は、元々はそう難しい内容のものではなかった。たしか、��さっさと終わらせて再び布団に潜り込んで、愛しい恋人の腕に抱かれながら朝を迎えよう�≠ネんて思いながら、「私も同行します」と準備を始めようとする七海を「二級相手に戦力過多だから休んで」と無理矢理抑え込んで家を出たはずだ。

 ところがいざ蓋を開けてみれば、その呪霊の能力のなんと厄介なことか。呪力そのものはそんなに強くない癖に、その分逃げることには特化していた。分身に分身を重ねられ本体を見失い、見つけたと思って叩こうとすればまた分身──そんな不毛な追いかけっこを数時間に渡って続け、二級相手になんて絶対に使いたくなかった呪力消費の激しい自身の術式を行使してようやく祓除し終えたのが、朝四時のことだった。

「家に着いたのは五時前とか……? で、そこからシャワー浴びたから寝たのは多分六時くらい」
「やはりついて行くべきだった。お疲れ様です」
「別に強かったわけじゃないもん、厄介だっただけ」
「どちらにせよ二人いた方が早く済んだでしょう」

 まあそれはそうか、なんて考えながらパントリーの扉を開ける。こういう微妙な時間帯は食べるものに悩むが、ちょうど手頃なカップスープを見つけたので手に取って、電気ケトルの電源を入れた。それを見た七海が、ムッとしたように眉間にシワを寄せた。

「まさか、それだけで済ませる気ですか」
「だってもうすぐ夕飯だし」
「ハッシュポテト買ってありますので焼きます、何枚食べますか」
「え、いいよ。出かけるんでしょ?」
「ほっとくと何も食べないので。それにアナタが好きだというから買ってきたんです」

 何枚ですか、とまた短く聞かれて、二枚と答える。それを聞いた七海は相変わらず手際良くフライパンに油をひいて、冷凍のそれを二枚そこに並べた。じゅう、という小気味良い音を聞きながら、わたしはわたしで沸けたお湯をカップに注ぐ。ぐるぐるとかき混ぜながら七海の顔を見れば、ダイニングに座って待っていろと目線で合図された。

 大人しくそれに従って、腰かけたダイニングからキッチンの七海を見つめる。わたしたちはお互いに冷蔵庫の中身も冷凍庫の中身も把握していないことが多い。呪術師二人が一緒に暮らしているのだから仕方のないことだが、昨日然り、如何せんわたしたちは突然どちらかが家を空けるということが多い。そうなると結局いつも余裕のある方が料理・洗濯・掃除に至るまでを厚意でやってしまうのだ。一応家事の分担は決まっているが、いつの間にかそれはあってないようなものになり、自然とこの形に落ち着いている。

「塩でいいですか」
「うん、ありがとう」

 ぼーっと考え込んでいる内に、目の前に美味しそうに焼きあがったハッシュポテトが二枚、黄色く縁どられた平皿に乗せられて運ばれてきた。次いで��SALT�≠ニ書かれた調味料入れが隣に置かれ、至れり尽くせりだなあ、なんて思いながらもう一度お礼を言う。「焼いただけです」と言いながらコートを羽織り共有財布を手に取る七海は、本当に良く出来た恋人だ。わたしなんかにはあまりにももったいないと思う。
 まもなく家を出発しようとしているその背中を呼び止めると、振り向いた美しい顔が続くであろうわたしの言葉を静かに待った。

「五百円以内で好きなもの買ってきていいよ」
「は?」
「これのお礼に」

 目の前のハッシュポテトを指差してそう言うと、七海は益々わけがわからないと言った顔をした。呪術師をしているわたしたちにとって、五百円という金額は正直そこまで一喜一憂するようなものではない。まして一級呪術師の彼にとってはランチ代にもならない、取るに足らないものだろう。
 それでもわたしは五百円という、スーパーに行けば大体の欲しいものが買えてしまうような、それでいてちょっと高級なものは買えないような絶妙な金額が好きだった。まだ訝しげにこちらを見ている七海に、今思いついたばかりの考えを特に深く考えるわけでもなく言う。

「五百円玉貯金、始めることにした。わたしに七海はもったいないと思う度に一枚」
「……つまり今、そんなことを考えてたんですか」

 はあ、とため息をついて、七海が玄関に向けかけていた足をわたしに向ける。少し塩をかけすぎてしまってしょっぱくなったハッシュポテトをさくさくと咀嚼していると、四人掛けのダイニングテーブルのわたしの右隣に腰かけて、その碧翠の瞳がじっとわたしを捉えた。
 決して深い意味はなかったけれど、七海の表情を見るにどうにも彼にとっては面白くない発言だったらしい。

「望む以上をされるというのは迷惑ですか」
「まさか。むしろその逆。でもそのうち七海がいなくちゃ何も出来なくなっちゃいそうで怖いから、五百円玉が貯まれば貯まるほどしっかりしなきゃと思い直せるかなって」

 自分を戒めることが出来て、かつ貯金もできる。一石二鳥でしょ、と笑って返せば、七海はやっぱり納得いかなそうな顔をしたままわたしの右手を取る。そしてスープを食べるために握られていたスプーンを優しく取り上げて皿の上に置くと、その甲に優しくキスを落とした。ちゅ、というリップ音と、色気を含んだ瞳にどきりと心臓が跳ねる。思わず口をきゅっと結んだわたしを見て少し目を細めると、まだ手に触れたままの唇で「何も、」と低く小さい声で言葉を紡ぐ。

「何も出来なくなってもらって構いません」
「えぇ?」
「私なしでは生きられなくなってくれた方が都合が良い」

 呪術師相手にそんなことを言う呪術師がいてたまるか、と思う。思うけれど、その言葉に含まれているであろう底知れぬ愛と独占欲に、先ほどフライパンから聞いた音と同じように、じゅうと胸の奥が熱く焼ける感覚がした。
 献身的、という言葉では少し綺麗すぎるような気がする。わたしたちは互いに無償の愛を注ぎ何でもしてあげようなどと思っているわけではなく、この人が明日を生きてくれるのであれば自分は今日死んでも構わない、と、そんな風に考えているような気がする。少なくともわたしはそうだ。どちらかといえば、自己犠牲だとか依存だとかという言葉の方が余程しっくりくる。

 彼に握られている右手を、その少し固い頬に滑らせる。身を乗り出すようにして七海に近づけば、意図を汲み取ったらしい彼も同様にして、優しく唇が重なる。七海なしで生きられなくなれば良い、だなんて。そんなの、とっくにそうなっている。だからこそ、いかに自分が七海にどっぷりかを可視化する意味も込めてあんな提案をしてみせたのだ。絡まる舌に熱を感じながら、そんなことを考える。やがてどちらかともなくそれが離れると、七海は自身の下唇をべろりと舐めて、「しょっぱいですね。塩、かけすぎでは」と言った。

「この調味料入れ、たまにドバっと出てくるから失敗したなあ」
「また良いのが見つかったら買い替えればいい」
「それ、無駄遣いじゃない?」
「生活の質を向上させるものを買うのに無駄という言葉は適さないかと」

 それもそうかと思いながら、麦茶を喉に流し込む。視界の隅で七海が立ち上がって、今度こそ本当に玄関にその足を向けた。靴を履きながら「必要なものがあれば連絡ください」と言うので、少し悩む仕草を見せてから「貯金箱」と返せば、やれやれといった風にため息をつかれた。

「帰りにドラッグストアにも寄ってきます」
「ん、何か切らしてたっけ?」
「ええ。ゴム、もう無くなるので」
「…………五百円じゃ買えないんじゃない」
「先ほども言った通り、必要なものを買う上で金額を理由に渋ることはするべきじゃない」

 お見送りのために訪れたそこで、いよいよあとは家を出るだけという七海がその唇をわたしの耳元に寄せる。

「それに、昨日夜中にアナタが呼び出されたせいで、今夜は残ってる分では終われそうにないので」
「う」
「ですから、アナタは夜に備えてゆっくり体を休めておいてください」

 顔を真っ赤にするわたしを余所に「では」と言って家を後にしたその男に、その場にへなへなとしゃがみ込む。本当に、どこをとっても完璧で出来すぎた、ずるい男だ。
 早速思い浮かんでしまった��わたしにはもったいない�≠ニいう気持ちに、ひとり残されたわたしは自身のお財布事情を思い出しながら、ああ、五百円玉あったっけ、なんて考えをぐるぐると頭に巡らせるのだった。


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