禁煙する話

原題:煙草を理由に振られた七海が禁煙を決意する話


 二日酔いでガンガンと痛む頭を無理矢理覚醒させるように、枕元の筐体が振動する。アルコールの力を借りてようやく落ちたはずの眠りから強引に現実へ引き戻される感覚に、わたしは思わず眉間に力を込めた。

 暗い部屋をぼんやりと照らすディスプレイの明かりが眩しくて、眼の奥がずくりと痛んだ。そこに表示された��五条悟�≠ニいう名前に思わず喉から唸るような声が出て、その画面を一旦元あった通りに伏せる。取らなければ一向に鳴り止む気配を見せないそれにまた眉根を寄せたところで、今度は背後からわたしの代わりにとでもいうような「ん゙ん゙」という不機嫌そうな低音が響いた。次いで体をぐいと引き寄せられ、素肌同士がひたりと触れて生暖かい感覚に包まれる。

「うわ」
「……誰です、こんな時間に」

 すっぽりと腕の中に収められて、後頭部に唇をつけながら尋ねられる。その低い声から生まれる振動がまた頭に響き、脳をぐらりと揺らした。いつも一人きりのはずのこのベッドは、二人で寝るにはあまりにも狭い。加えて今わたしを覆っているこの男は、一般的な同年代の人間と比べてかなり立派な体躯をしているのだから、それはあまりにも顕著だった。

「五条から」
「……出なくていい」
「急ぎだったら?」
「また掛かってくる」

 そうかもしれないけど、と言いながら今一度ディスプレイに目をやったところで、上から大きな手が被せられ再び強制的にそれを伏せられた。その行為を咎めるかのように小さく名前を呼べば、七海はそれを分かった上でなお電話に出ることを許さないというように、重ねた手に指を絡める。ちゅ、と髪の毛に口付けられる感覚に小さく身を捩ると、七海はそのまま捕らえたわたしの手をスマートフォンから離させて、今度はその手のひらをぬるりと舐めた。

「ちょ、っと……何するの」
「今夜は独り占めしてもいいという話だったはずです」
「さっきまで散々してた」
「まだ日が昇ってないので約束の範疇です」

 唇をつつ、とゆっくり下に移動させられ、今度は手首にキスを落とされる。この男の行動がそれを理解した上でのものかどうかはさておき、手首へのキスはたしか��欲望�≠フ表れだと誰かが言っていた気がする。軽く食むように繰り返されるそれに底知れぬ色気を感じて、ぞわりと背筋が粟立った。

 すっかり静かになった携帯電話の振動がいつ止んだのかは分からない。ただ分かるのは、わたしたちをこんな爛れた一夜限りの関係に持ち込ませるきっかけとなった男によって、数年ぶりに後輩に出戻った七海が燻ったその熱を再び燃え上がらせたということだけだった。

「七海、もう寝ようよ」
「寝たら終わる」
「さっきまで寝てたじゃん」
「今は起きてます」

 どうやら何を言ってもダメそうだ、と確信を得たのは、腰あたりにぐぐ、と押し付けられた熱がはっきりと分かるほどに固さを持っていたからだった。さっさと抵抗は諦めて顔を振り向かせる形で彼に向ければ、それを見た七海は上体を軽く起こして噛み付くようにわたしの唇を奪った。舌を絡めながらあっという間に覆い被さる体勢になった七海の首に腕を回すと、色気をたっぷり含んだくぐもった声がその薄い唇から漏れた。

「ん……七海、タバコ臭い」
「……アナタが嫌煙家だとは知らなかった」
「いつの間にか余計なこと覚えちゃって」
「いつまでもアナタの可愛がっていた後輩のままだと思われるのは心外です」

 耳から肩へと続け様にキスを落とされ、鎖骨のあたりをちぅ、と音を立てて吸われる。アトは付けないでと言ったはずなのに、本当にいつの間にか可愛げが全くなくなってしまった後輩を「こら」と叱れば、当人はまた知らん顔で付けたばかりの鬱血痕に舌を這わせた。

「消えるの時間かかるんだから」
「……知ってます。だからこそ付けてるので」
「そんな口説き文句も。いつの間に覚えたの」
「別に学んだわけじゃない。ただアナタに一分一秒でも長く私の存在を刻みつけておきたいと思ったら、自然とこうなっただけです」

 その言葉通り本当に素でこれをやっているというのならば、相当タチが悪い男だ。
 暗闇に慣れてきた目がその整った輪郭を映して、再び唇に降ってきたキスの雨を受け入れながら、わたしはそんなことを考える。いつだって淡々としている七海が本当は何を考えているのかなんて、わたしみたいなその場の感情でしか動けないような人間には分からない。

 するりと撫でるように片手を腰に回されて、もう一方の手では優しく太腿を持ち上げられる。両足の間に入り込んできたその大きな体を受け入れるように、滲み出る熱に呑まれるように。わたしはまもなく訪れるであろう快感を思いながらゆっくりと目を閉じた。


◇


 久しぶりに��報告書の提出�≠ニいう目的のために訪れた高専は、自分が卒業したときから何ら変わってはいなかった。しかしながら、不思議と生徒として在学していた時とは大分見え方が違うものだ、とも感じる。たった一年と少しとはいえ社会を経験したおかげなのか、ここでの時間は随分と非現実的で世間から隔離されているといった印象を受ける。

 初めは周囲とのコミュニケーションのために仕方なく吸い始めたそれは、忙殺されるような日々の中でやがてストレス発散の方法のひとつとなっていった。喫煙所という狭い空間で、喫煙者間のみで繰り広げられる世界。今思えば酷く馬鹿馬鹿しいとは思うが、営業職であった自分にとっては環境に適応するために一番手っ取り早く、かつ効率的な手段だった。

 カシャン、とジッポライターの蓋を閉じ、火をつけたばかりの煙草の煙を深く肺に吸い込む。フゥ、と息を吐き出せば、口から白い靄(もや)が立ち上り、やがて空気に溶けて消えた。最初の頃は吹かしていただけだったような気もするが、いつの間にか体に匂いが染みつくほどにこれに縋るようになっていたらしい。タバコ臭い、と嫌そうに言った昨晩の彼女の顔を思い出しながら、またゆらりと立ち上っては消えるそれを見つめる。しばらくそうしていると、不意に背後から自分の名前を呼ぶ飄々とした声が聞こえた。

「……アナタが喫煙所に顔を出すなんて、珍しいこともある」
「だぁって昨日のこと聞きたいだろ? 電話にも出ないし。なあ、あの後アイツと寝た?」
「……突然現れてデリカシー皆無の質問。相変わらずですね。というか、そもそもそうなるように仕向けたのは五条さんでしょう」
「ま、それは否定しないよ。でも、そうしたかったのはオマエだろ?」

 白い煙を吐き出す。それは単なる呼吸というよりは、五条さんに対する大きな溜息から出たものだった。その反応を肯定と受け取ったらしい彼は、なんとも腹立たしいニヤついた笑みを浮かべながら、「それで?」とまるで男子高校生のように詳細を聞き出そうとしてくる。高専と同じく、この人もこの四年間でほとんど変わっていない。いや、実際には変わらないのは表面上だけの話で、その内には計り知れない夥しいほどの何かを抱えてはいるのだろうが。

「その前に聞きたいのですが」
「あん? 何?」
「アナタこそ、私がここを離れていた間に彼女と寝ましたよね」
「わお、ご名答。なんで分かったの?」

 あちゃ、とわざとらしく自身の頭を小突く五条さんに、心がもやりと翳る。たしかに、同級生である二人の距離は元々近かった。特に五条さんは当時から何かと彼女のパーソナルスペースに踏み込んでいたように思うし、一部からは交際しているのでは、とも囁かれていた。だから普通なら今更彼らが体を重ねていようがいまいが、その些細な変化を感じ取るのは難しいだろう──そう、普通なら。

「見ていれば分かります。今の彼女の五条さんへの接し方は、明らかに抱かれたことのある男に対するそれだ」
「うわ、七海オマエちょっと怖いよ」
「アナタはともかく、彼女は抱かれたことのない男にあんな風に気を許したりしません」

 昨晩、三人での飲みの席で「ひとくち飲んでみれば」と自分の注文したカクテルを五条さんに差し出した彼女を思い出し、苦虫を噛み潰したような気分になる。それを見た五条さんが、「ふぅん」とまた楽しそうに笑った。

 本当に、我ながらどうかしている。四年間もあったというのに、一瞬たりとも彼女を忘れることが出来なかった。逆に彼女が自分を思い出した時間など、一瞬にも満たなかったのだろう。

 卒業前に、一度だけ彼女を抱いた。正確には、抱かせてくれと頼み込んだ。私が卒業後に呪術師をやめるということを知っている彼女の優しさに漬け込んで、たった一晩にそれまで募らせた酷く重すぎる愛情を全て乗せて。互いの初めてを夜が明けるまで貪り合った。そうしてやがて落ちた眠りから目を覚ました時、彼女は隣にいなかった。そして今朝も。早い時間に一度高専に顔を出さなければならないということは聞いていたが、たしかにあったはずの温もりが消えるあの喪失感を、久しぶりに思い出した気がする。

「まあ僕のはさ。お互いに利害が一致したから抱いただけだよ。なんとなく分かるだろ?」
「理解するのと納得するのは別です」
「オマエ本当、当時からあいつにゾッコンもいいとこだねぇ」
「……悪いですか」

 ぐりぐりと灰皿に短くなった煙草の先端を押し付け、消火する。分かっている。高専を卒業してからの四年間が、彼女にとって、人間にとっていかに重要な時期であるかということは。そしてその期間に彼女を抱いたのが五条さんだけではないだろうということだって、容易に想像がつく。ただでさえ自分たちは呪術師で、世間一般が子供と扱う年齢の頃から大人と同様の扱いを受けてきたのだ。成人して名実共に大人と認められれば、一から恋愛をするよりも体の関係を持つことの方が余程しがらみがなく、容易い。

「悪かないけどさ。で、ちゃんと気持ち伝えたの?」
「……」
「オイオイ七海ィ、なにやってんだよほんと。なんのためにオマエにあいつを家まで送らせる大役を任せたと思ってんの」
「あんなに酔っ払った彼女に気持ちを伝えたところで冗談と捉えられるのがオチでしょう」
「しっかりヤることはヤってるくせによく言うよ」

 腹が立つ言い方ではあるが、五条さんの言葉は正論だった。結局昨日も、玄関前で「わざわざ送ってくれてありがとう」と回らない呂律で私を帰そうとした彼女に、あのときと同じ��今夜だけ�≠ニいう条件を付けて、また積もりに積もった四年分──学生時代も含めるなら十年近くの感情を全て押し付けた。

 復帰祝いだとあまり気が乗らない面子での飲み会に誘われた時には、当然彼女と再びそんな関係になろうだなんて考えてはいなかった。いや、心のどこかでは望んでいたのかもしれないが、少なくともそれは一夜限りの関係ではなく、自分が彼女にとって他の人間よりも特別だと位置付けられることを、だった。

 ただ、彼女が五条さんに抱かれたのだということを確信すると同時に醜いほどに嫉妬して、その全てを自分が上書きしたいという劣情が生まれた。呪術師にしては華奢な彼女のその体を自分以外の男の指が這うのを想像した途端、嗜好のひとつである酒が酷く不味くなる。たまらず外で煙草を吸うと席を立った私に、「え、七海タバコなんて吸うようになったの」と彼女が言った時、自分はまたひとつ彼女が理想とする男から遠のいたのか、と自嘲めいたことを考えた。

「まあ良いけどさ。この四年間見てきて思ったけど、アイツ碌な男に当たんないんだよね。だから七海、さっさとしないと殺意が湧くほど低レベルな男に取られるかもよ」
「……ご忠告ありがとうございます。善処します」
「はは、それする気がない奴の台詞じゃん。ま、頑張ってよ」

 ひらりと手を振り自分に背を向けた男を見て、また溜息をつく。��する気がない�≠�けではないが、それこそ四年間、彼女とは対照的に女一人すら抱けなかった自分が、拗らせ続けた一方的な感情を今更どう伝えるべきなのか。抱え続けた重すぎるそれは、もうとっくにヤニのように心にこびり付いて落とし方など分からなくなっていた。


◇


 ふわりと漂ったその匂いに、思わず顔を顰めた。
 タバコの匂いというのは、吸わない人間やそれを嫌う人間にはたとえ微量であってもすぐに分かるものだ。別に喫煙者に禁煙を強要する気など更々無いけれど、愛煙家を恋人には出来ないな、とは思う。四六時中と言わずとも、短くはない時間を共に過ごすのだ。出来るならお互いに快適でいられた方が良い。

 振り返れば案の定、そこには七海がいた。報告書の提出を終えたところなのか、ちょうど今学長室から出てきたらしい。まだ見慣れないサングラスの奥の瞳とぱちりと目が合う。乱れきった髪を汗で濡らしながらわたしを抱いていた昨晩の彼とはまるで違い、きっちりとセットされた髪と着こなされたスーツが印象的だ。白のスーツに青のカッターシャツだなんて、どこのヤクザだよ、と思う。

「お疲れ」
「ええ、お疲れ様です」
「今朝はゆっくり出来た?」
「起きてすぐに帰りました。さすがに他人かつ女性の家でひとり寛げるほど無遠慮な男ではないつもりなので」

 そう言いながら渡してあった鍵を内ポケットから取り出した七海は、「ああ、でもシャワーだけは借りましたが」と言ってわたしの手のひらの上にそれを乗せた。
 改めてその姿を見て、本当に随分と逞しい体になったものだと考える。わたしの記憶の中の七海は、もう長らく彼の学生時代最後に抱かれたときのままで止まっていた。当時から服を脱げばしっかりと筋肉はついていたし、洗練された体をしていたと思う。けれど今は、サラリーマンをしていただなんて到底信じられないほどにその質量が増している。押し返そうとしてもびくともしなかった七海を思い出し、少し可笑しくなる。

「何笑ってるんですか」
「いや、ほんと成長したなあと」
「……その言い方、あまり嬉しくないですね」
「そう? 褒めたつもりだけどな」

 ごめんごめんと笑いながら謝っていると、七海の目線がわたしの首筋に注がれていることに気づく。おそらく今朝方見えるか見えないかギリギリにつけたキスマークのことを気にしているのだろう。

「ちゃんと隠してるから見えないよ」
「それは残念だ」
「見せびらかしたかったの?」
「ええ。アナタと関わる男には、一人残らず」

 おかしなところで独占欲を発揮する男だと思う。しかも、それがどこまで本気なのかがまるで分からない。嘘を言うような男ではないのだから本心であることに間違いはないのだろうが、七海の場合それが直接好きだとかそういう感情に繋がっているとは限らない。彼はもう二度もわたしに抱かせて欲しいと頼んできているというのに、それはいつだって��今晩だけ�≠ニいう期限付きで、行為中であろうと一度だって愛の言葉を囁いたことはないのだから。

「昼食、もう済みましたか」
「ううん、これから」
「ご一緒しても」
「いいよ。全席禁煙のファミレスにするつもりだけど、それでも良ければ」
「構いません」

 それじゃあ早速、とお互いの予定を確認してみれば、今日はもう二人揃ってほとんど午後休のようなものだった。あまりの忙しさにおにぎり数個を口に詰め込むようにして飲み込んだいつかの昼下がりを思い出しながら、今日はゆっくり昼食を摂れそうだと胸を撫で下ろした。

 辿り着いたレストランは、昼にしては少し遅めの時間帯であるおかげか空席が目立つ。案内された少し広めのボックス席は店の端に位置しており、一番落ち着く立地と言える。社会人経験などなくともそうするであろう七海が、ごく自然にわたしを奥側のソファへと誘導し、自分はその向かいに腰掛けた。
 七海はかちゃりと眼窩にはめ込むタイプのサングラスを外して、ケースにしまう。それがつけられるのは彫りが深く鼻も高い、日本人離れした顔を持つ人間だけなのだから、この男はやはり腹立たしいほどに美しい。

「なんですか、人の顔をじろじろと」
「……七海、モテるでしょ」
「は?」
「たしかに高専にいたときは女の子も少なかったからあんまりだったかもしれないけど。社会出て、めちゃくちゃモテたんじゃないの?」

 メニューも開かずにそう尋ねるわたしに、七海は小さく溜息をつく。先に注文を、と促され美味しそうな写真に目を落としていると、不意に同じように昼食を選んでいた七海が言う。

「まあそれなりに、モテましたよ」
「やっぱり。わたしが普通の社会人だったら、七海みたいな人いたら好きになっちゃうもんなぁ」

 ぴた、と右から左へページを捲りながら流れるようにそれを追っていた七海の目が止まり、わたしを見た。眉間には少しシワが寄っており、彼のその不機嫌そうな顔を見て初めて、どうやらまた何か不味いことを言ってしまったようだと知る。早く選べと訴えているようにも見えるその目線に再び慌ててメニューを見て、まもなくやってきた店員に手頃なランチセットを注文した。
 再び二人きりになった空間で七海をちらりと見れば、やはり眉間にはまだシワを寄せたまま、頬杖をついて窓の外を見ている。

「七海、今度は何が気に障ったの」
「……何も言っていないでしょう」
「だからでしょ。七海が何も言わないときは気に入らないことがあるときなの。モテたかどうか詮索されたのが嫌だった?」
「そうじゃない」

 じゃあ何、と聞けば七海は目線だけこちらへ向けて、「呪術師は」とだけ言った。意味がよく分からず素直に首を傾げれば七海はまた溜息をついて、今度は頬杖をやめて真っ直ぐわたしに向き直した。

「呪術師は普通の社会人ではないから、アナタは私を好きにならない、ということですか」
「……いや、別にそういう意味では」
「なら、好きになってください」
「は?」
「どれだけモテようと、それがアナタでないなら全く意味がない」

 思わず、心臓がどきりと音を立てる。そりゃあ七海は堅物で堅実だし、わたしの周りの人間に比べればよっぽど常識だってあるし、幅広く遊ぶタイプではないのも分かる。だけどそんなことを言われたら、それはつまり、わたしを抱きたいと言ったのも全部その気持ちがあってのことだったということになる。社会に出る前に、子供である自分を全て高専に置いていきたいから協力してくれと言ったあの時も、酒を飲んだら欲情したからと言った昨晩も、そこにいたのがわたしだったからではなくて、わたしでなければダメだったということに。

「ま、待った。七海、四年間で彼女の一人や二人、いたでしょ?」
「いません。誰とも付き合っていなければ抱いてもいない。アナタは五条さんや他の男としたかもしれませんが、私は昨日が人生二度目、四年振りのセックスです」
「は……っ⁉」

 当たり前のように爆弾発言をする七海に、正直に言えば少し引いてしまう。この際なぜ七海がわたしと五条が寝たことを知っているのかなどどうでもいい。
 だってわたしたちは付き合っていた期間などないし、それに七海は呪術師に戻る予定だって本来はなかったはずなのだから、さっさと新しい環境で新しい人生を歩んでいると思うのは普通のことだ。まさかこんなに良い男が年齢と恋人いない歴が比例していると誰が思うだろうか。まして他人と体を重ねた経験が昨日を除けばたった一度限りだなんて。

「そもそも七海、わたしのこと好きなの……?」
「好きじゃない女を抱いたりしません」
「いやでもわたし、七海に好きだなんて一度も言われたことないんだけど……」
「呪術師をやめると決めた時、この道とは決別するつもりでしたから。卒業前最後にアナタを抱いたのも自分の気持ちにけりをつけたかったからです。まぁ、結局無意味でしたが。……ああそれから、どうしてもアナタの初めてが欲しかったというのもある」

 開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。もちろんわたしだって、当時自分の初めてを捧げたのは七海に少なからず好意を抱いていたからだった。七海が呪術師を辞めると知って、止める権利も責める資格も持っていなかったわたしの気持ちは行き場を無くして。
 わたしだって、いやむしろわたしこそ、七海に初めてを貰ってもらうことで気持ちにけりをつけたはずだった。だから彼にこれ以上縋らないようにと、彼に抱かれた翌朝、わたしは気付かれないように七海の腕の中から抜け出して、部屋で一人で泣いた。

 五条や他の男に抱かれたのだって、七海のことを忘れたかったから以外の理由なんてひとつもない。あの頃のわたしは、七海のことを“ただの後輩だった”と思うことに必死で、毎日そう自分に言い聞かせながら生きていた。
 その努力が実を結んだからこそ、七海が出戻ったと聞いたときも、クソがつくほど真面目でドがつくほど阿呆で真っ直ぐな男がまた後輩になるのだなと、ただそう考えることが出来た。

「し、信じられない……ていうかなんで今更……」
「……朝目が覚めて、隣で眠るアナタを見たことがない」
「は?」
「でも、五条さんはある。それを知って死ぬほど嫉妬した」
「それはタイミングの問題もあるでしょ」
「呪術師をやめてからもずっと、目が覚めたとき隣にアナタがいたらいいと、毎晩そう思っていました」
「な、七海……」

 これっぽっちも知らなかった七海の気持ちをこんな形で初めて知ることになって、戸惑いを隠せない。お互いが無言になってすっかりそれどころではない空気になったところで二人分の食事が運ばれてきて、わたしたちはひとまずそれに手をつける。
 こんなにも頭をフル回転させながら摂る食事は、後にも先にもこの一回だけだろう。そう思うほどに味をほとんど感じないハンバーグをとにかく口に運んで咀嚼して、飲み込む。機械的なそれがわたしだけだったのか、目の前にいる七海も同じだったのかどうかは分からない。とにかくそうしてひたすら同じことを繰り返し、やがてわたしたちはまた気まずい空気の中、手持ち無沙汰になった。

 七海の様子を窺う。相変わらず、口を開かなければ何を考えているのか全然分からない。仮にこの男と恋人関係になったとしたら、この居心地の悪い無言の時間もそのうち何も気にならない、むしろ落ち着くようなひとときへと変わるのだろうか。
 けれど、食後少しそわそわとした様子を見せた七海が口に含んだハッカ飴。それが本来の用途で転がされているものではないことをわたしは分かっていた。

「……あの」
「はい」
「わたし、七海とは付き合えないよ」
「…………何故」

 あまりにも長く続いた無言を裂いてわたしが発した一言に、七海はこれでもかというほど眉間にシワを寄せて、たっぷりと間を置いてからただ一言尋ねた。

「七海のことは嫌いじゃないけど、タバコを吸う人とは付き合えない。否定しているわけではなくて、お互いが快適にいるために」
「…………」

 カチ、と無言でテーブルの上のボタンが押される。ふと七海の手元を見ると、先ほどまで水が入っていたグラスが空っぽになっていた。数秒のうちに店員がやってきて、お待たせしました、と声を掛けられる。

「水をふたつお願いします。それから、これを捨てていただけますか」
「え」
「すみません、非常識は承知の上です。ですが、こうでもしないと目の前の彼女が私を恋愛対象として見てくれそうにない」
「ちょ、七海何言ってるの」

 七海の言葉を受けて、店員が交互にわたしと七海の顔を見る。当然の反応だ。わたしですらついていけていないのだから、第三者はもっと困るに決まってる。けれど何か納得したらしい大変物分かりの良い彼女は手渡されたタバコの箱を受け取ると、かしこまりましたと言ってそそくさと姿を消して、これまた迅速に水をふたつ運んでくると、わたしを見て何を思ったのか強く頷いてみせた。

「七海、」
「煙草は二度と吸わない。嫌だと言うなら家のものも全て新調して、引っ越しもします」
「いやあの」
「他にありますか。付き合えない理由」

 完全に七海のペースだ。実際のところわたしの中の七海のマイナスポイントなんてタバコを吸っていたというところくらいしかないわけで、これ以上彼の交際の申し出を断るためのそれらしい理由も見つからない。強いて言えば、こんなにも強引な手を使う男だとは知らなかったということくらいか。

「……ないけど」
「では改めて。アナタのことが好きなので、私と付き合っていただけますか」

 ──参った、降参だ。今はっきりと分かってしまった。こんなにもあっさりと禁煙を決意できてしまうほど覚悟が決まっていて、四年ものあいだ一切他を見ることなくわたしだけを想い続けてきた七海に敵うことなんて、きっと一生ないということが。
 この男の中毒になるのは多分、どう転んでもわたしの方なのだ。


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