水曜日だけ会える話・前

原題:水曜日にだけ会える七海建人の話


 決まって毎週水曜日の、朝七時半から八時半。名前も知らないその人は、一週間に一度、一時間という限られた時間にだけ会うことができる人だった。
 第一印象は、海外出身の方なのかな、と思わされる彫刻のような美しい顔と抜群のスタイルを持つ人。次に、いつも酷く疲れたような表情をしている人。そして、水曜日の朝は大体パンを食べている人。そこから先は、どんな順番でどんな印象を抱いていったのか覚えていない。

 とにかく、いつもその時間、その場所に彼は現れた。
 その公園は遊具などが設置されているわけでもなく、人で賑わっているわけでもなかった。むしろ殊朝に関しては犬と一緒に散歩する以外の人間を見かけたことはないし、その少し奥まった立地のせいもあるのだろう、ぽつんと佇む時計台と等間隔に並べられた数個のベンチだけが印象に残るような場所だった。

 初めてこの公園──正確には自然公園というのかもしれない──を見つけたときは驚いた。曲がりなりにも中層ビルがいくつか並ぶオフィス街の、その一角。詳しい経緯までは記憶していないが、外でひとり静かにランチできる場所はないかと探していたわたしの眼前に突如として広がった緑に、仕事で荒んでいた心が随分と癒されたのを覚えている。
 それから少しして、毎週水曜日と金曜日に回ってくる職場の鍵開け当番に備えて週二回家を普段より早く出るようになり、リフレッシュタイム兼朝食タイムと称してここで過ごすのがわたしのお決まりとなった。

 それは、いつも通り左から三つ目のベンチに腰掛け、少し秋めいてきた風に「そろそろ衣替えの時期だな」なんて考えながらおにぎりに齧り付いていたときだった。
 モデルなのかと思わされるほどの抜群のスタイルでスーツを着こなす金髪のその人は、緑の隙間を縫って、突然姿を現した。
 軽く辺りを見回してから、わたしの座るところからひとつ間を空けたベンチへ腰掛けると、ふう、と一息ついたのち鞄からサンドイッチと五百ミリリットルのミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、大きな口に運ぶ。
 なぜこんなに詳細に説明できるのかと言うと、わたしがあまりに美しいその姿に目を奪われてしまって、この間ずっと彼を見つめてしまっていたからだ。

 しばらくそうしていると、やがて視線が気になり出したのか、彼がわたしへ顔を向けて一言。

「……何か?」

 当然の反応だ。「あ、いえ! すみません」と慌てて謝って、目線を自分の持つおにぎりへ。先ほどコンビニで購入したばかりのそれから覗く梅干しに、次の一口は酸っぱいんだろうなあなんてどうでもいいことを考えて、それから特に口を利くでもなく、一時間程度経った頃に彼はその場を去っていった。
 去り際に軽く会釈をされたので急いで返して、遠ざかる大きい背中を、自分ももう行かなければならないということも忘れてぼーっと眺めた。


◇


「……あ」

 次に彼と出会したのは、初めて会った日からぴったり一週間後の水曜日。思わず声を上げたのは、朝ここに通う様になってから初めての先客だったからだ。
 わたしの声に顔を上げたその人と目が合い、また小さく会釈をされる。それを同じように返して、いつも通りのベンチへ腰掛けた。

 先週も思ったが、丁寧な人だ。ひとつひとつの所作も美しいし、わざわざこんな見知らぬ女に会釈をするところからも彼の人柄が窺える気がする。
 しかし、その顔は随分と疲れているようにも見えて、知り合いでもないのに少し心配になってしまう。なにせこの人は、その風貌から意識せずとも強烈に印象に残る。たった二回目とはいえ、わたしの中で彼はもう立派に「たまに公園で会える美しい人」と位置付けられてしまっていた。

 特に会話をするわけでもなく、なんとなくお互いの存在だけを感じながら過ごす朝の時間は案外心地が良かった。
 彼は恐らくそんなに口数が多いタイプではないのだろう、パンを食べ終えるとノートパソコンを開いてカタカタとキーボードを叩きながら、何やら難しそうな顔で画面を見つめている。こんな朝から、仕事だろうか。それとも何か別の趣味か。そういえば今日は近くのカフェのロゴが描かれたカップを持っている。ホットコーヒー用のカップだ、最近寒くなってきたもんなあ。

「……何か?」

 その声にハッとして、軽く血の気が引く。またやってしまった、わたしの馬鹿。
 先週と全く同じその言葉にぶんぶんと顔を左右に振り「ご、ごめんなさい。またご無礼を」と言うと、彼は特に表情を変えることなく「いえ、別に無礼というほどでは」とその目線を再び手元の液晶へ戻した。
 声まで良いんだなぁなんて思いながら、わたしも朝食後のヨーグルトに手をつける。いちごやブルーベリーがごろごろと入ったそれは、仕事前に気分を切り替えるのにもってこいだ。

 そうしているうちにまた今日も時計台の針が八時半を示して、彼が荷物をまとめて立ち上がる。ちらりと目を向ければ、思った通りに会釈をひとつ。わたしも返して、なんだか緩んでしまう頬に力を込めながら妙にやる気の湧いた気持ちで伸びをする。よし、今日も仕事頑張ろう。


◇


 それから、彼とは水曜日の朝七時半から八時半。もちろん約束なんてしているわけでもないのだが、まるでそれが当たり前だとでもいうように顔を合わせた。初めて会ってから、既に三ヶ月以上が経過していた。
 すっかり外が寒くなっても相変わらずわたしは左から三つ目、彼はその二つ隣のベンチに座って、各々の時間を過ごす。

 未だに名前すら知らないけれど、それよりも先に知ったことはたくさんある。ミネラルウォーターを飲んでいたのは初日だけで、それ以降はいつも決まって近くのカフェのホットコーヒー。食べるのはパンばかりで、それはクロワッサンだったりベーコンエピだったり、なんだかオシャレなフランスパンのサンドイッチだったり。考えるときには顎に手をやるのが癖で、それから──時折どこか遠くの景色を、まるでそこに何かが見えているかのようにじっと見つめていた。

 もう三ヶ月も変わらずそんな風に過ごしたのだから、今更わたしたちの関係性が変わることなどまさに青天の霹靂で、わたしは完全に油断しきっていた。

「……毎日ここへ?」
「……っ⁉」

 だから、ある日の突然の彼の問いかけに思わず食べていたおにぎりを喉に詰まらせかけて、慌ててお茶でそれを流し込んだ。
 そんなに驚くとは全く思っていなかったらしい彼が、少し困ったような表情をして「すみません」と謝罪する。

「い、いえ。こちらこそすみません。……えっと、毎日じゃないです。水曜日と金曜日だけ、職場の鍵開けがあるので遅刻しないようにここで朝ごはん食べてます」
「……そうですか」
「えっと……あなたは? って、聞いてもいいんでしょうか……?」
「ええ、私が先に聞きましたので。私は水曜日だけです。始業と同時にミーティングがあるので、同じく遅刻しないためにここへ」

 そう言う横顔からは、相変わらず疲労が見て取れた。よほど仕事が忙しいのだろうか。始業と同時にミーティングだなんて、わたしならうんざりしてしまう。「大変ですね」なんて月並みな返答をしてみれば、彼が「ええ、まあ」とそれを肯定して、しばしの無言。
 これで会話が終了したのか、はたまたまだ続くのかは分からないが、彼が突然わたしに話しかける気になった理由については疑問が残る。確かに、もう立派な顔見知りではあるのだから世間話くらい交わしたって何もおかしくはないのだが。

「……あ。パン、食べてますよね。いつも。どこのなんですか? すごく美味しそう」
「駅前にあるパン屋で買ってます。朝早くから営業していますし、味も美味しいので」
「地下鉄の方ですか?」
「いえ、私鉄の」

 なるほど、と相槌を打つ。
 そんな他愛もない話をあえて持ちかけたのは、どうにも彼がなんの理由もなくわたしに話題を振ったとは思えなかったからだった。本当のところは分からないけれど、何の根拠もないそんな気持ちが、なんとなく湧いていた。

「そっちの電車、朝混みますし嫌ですよね」
「そうですね。一時間早めるだけでだいぶ楽ですが」
「じゃあ他の日も朝ここに来るとか」
「……いや、可能ならギリギリまで寝ていたい」
「あはは、わかります」

 こうして実際に喋ってみると、彼はその話しかけづらい見た目とは裏腹に、想像以上に柔らかい雰囲気を持っている人だった。笑顔こそ見せないが、その口調から受ける印象は優しく、落ち着いている。
 しばらくそんな風にとりとめもない話を続けていると、やがて彼が時折見せていたのと同じようにわたしの背後辺りにじっと目をやり、そして静かに問う。

「……ここ最近、しっかりと睡眠は摂れていますか」
「……え?」
「顔色が良くないように思うので」

 それはあまりにも突然で、そしてあまりにも図星をついた質問だった。確かに、ここ最近どうにもよく眠れない日が続いている──が、どうして彼がそれを? 驚きのあまり思わず目も口も開けたまま彼を見つめてしまう。
 それで言うなら彼こそとてもまともに眠れているようには見えないのだが、今はひとまず質問に対してそれが尤もである旨を伝える。

「な、なんで分かったんですか?」
「昔から、そういうものがなんとなく分かる体質なだけです。……そちらへ行っても良いですか」
「へ? あ……はい。どうぞ」

 彼がスッと立ち上がり、その長い足でこちらへ向かってくる。整った顔が近づくだけでなんだかドキドキしてしまうのは、性別に関わらず美しい人すべてが持ち合わせている、��魅力�≠ニいう天賦の才によるものだろう。
 やがてその足がすぐ隣で止まり、わたしは慌ててベンチのスペースを空けるように少し右へ移動する。いざ目の前に立たれると、本当に大きな人だ。金髪にスーツというその容姿も相まって少し圧倒されてしまう。

 どうも、というお礼と共に隣に腰掛けた彼からは、ふわりと柔軟剤なようなシャンプーのような香りがした。作り物ではないその香りが確実に鼻に届くような距離に彼がいることを意識してしまって、落ち着かない。

「え、っと……なぜ、隣に?」
「……週に一度とはいえ、この時間を結構気に入っているので」
「え?」
「目、閉じていてもらえますか」

 何が何だか分からないまま、言われた通りに目を閉じる。閉じてからすぐに、名前も知らない人の前で無防備すぎやしないか、と自分で思ったけれど、この人を三ヶ月見てきた人ならば誰でもこうするような気がした。
 首元に彼の気配を感じ、少しそわそわしていたところですっと肩が軽くなって、全身の倦怠感が嘘みたいに楽になる。信じられない。運動してもお風呂に浸かっても、ちょっと良い枕に変えてみても全然効果がなかったというのに。感動する気持ちを抑えつつ、もう目を開けていいのかななんて考えていると、またすぐ近くに彼の気配。

 そして、ちゅ、と音を立てたのは互いの唇。
 驚いて目を開けると、すぐ目の前に同じく驚いたような表情をした彼の綺麗な顔があった。何が起きたのか脳が理解する前に、顔中が酷く熱くなる。

「…………はい?」
「…………」
「あの、え? 今、えっ?」
「…………すみません、そういうつもりでは。最低なことをしました」

 そういうつもりって? 最低なことって? 疑問符しか頭の中に浮かんでいないわたしの表情からそれを読み取ったのか、彼はバツが悪そうな顔をして、目元を手で覆って大きな溜息をついた。

「……顔を見ていたら、とんでもなくキスがしたいと思ってしまった。それで、反射的に。本当に申し訳ありません」
「キ、キス、したんですか今、やっぱり?」
「しましたね」

 ひえ、と変な声が出る。今のわたしの感情を割合で示すなら、驚き8:恥ずかしさ1:怒り1といったところだ。��恐怖�≠ヘ……多分ないわけではないが、わたしの思考は「これが海外風のスキンシップ?」だなんてとても的外れな方向にばかり向かってしまって、まだそこに至っていないようだった。

 とんでもなくキスがしたいと思った、なんて普通ならそれだけで夜眠れなくなってしまうようなセリフも、今は処理待ちのタスクの中に埋もれてしまって意識の中に入ってはこない。
 そう、だって彼は名前も知らない人なのだ。こうして水曜日の朝に会うだけの、ただ互いの存在を感じながら過ごして別れ際には会釈をするだけの、わたしたちはそれだけの関係だったのに。
 体の倦怠感が消えた感動はどこへやら、その衝撃の大きさをキスがさらに上回り、頭の中は鮮明に記憶されてしまったたった一瞬の感覚が占めていた。

「あ、あの」
「はい」
「お詫びの代わりにと言ってはなんですが、お願いがあって」
「……ええ、なんでも言ってください。アナタが二度とここへ来るなというのであればそうする」

 だけど、大概わたしもどうかしている。
 ここにきて今更スタートラインに立って、彼と一から初めましてをしようとしているのだから。

「……あなたの名前が、知りたいです」


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