潮の香りときみの声
いい天気だ、とはりきって洗濯物を干していると、ポケットに入れていた携帯が震えていることに気がついた。この長さだと電話だろうけど、…もしかして何か緊急かしら?
持っていた洗濯物をカゴに戻し、急いで携帯を出せば表示されていたのは上司の名前。やっぱり緊急の可能性、高そうだ…今日は非番なのになぁ。というか、秀一も同じく非番だったような気がするのだけれど。
「はい、工藤です」
『俺だ。今、いいか?』
「ええ、問題ありません。何か動きでも?」
『いや、そういうわけではないんだが…』
んん?秀一には珍しく口ごもっているような…いつもならさっさと用件を口にして、無駄なことは言わないタイプの人なんだけれど。それに事件や、組織に動きがないのに電話をしてくるというのも大変珍しい状況だということに気がつく。用事がないというわけではなさそうなんだけど、あんまりプライベートでかけてこないんだもの。この人。
逆に私もそうなんだけどねぇ。恋人の時もそうだったなぁ…なんて、遠い思い出に思考を持っていかれていると、おもむろに秀一が口を開き「はぁ?!」と容赦なく叫びました。
『電話口ででかい声を出すな…』
「あ、すみません…でもその原因作ったのはそっち……!」
『それで返事は?』
「ええっと、…洗濯物を干している最中なので、それが終われば。そうですね…30分もあれば、準備まで終わらせられると思います」
『なら、それくらいの時間に迎えに行く』
わかりました、と返せば、そのままプツリと電話は切れた。切れたのだけれど…私は数分、携帯片手に固まってしまって。だ、だってあの人ってば何て言ったと思う?「暇ならドライブでもどうだ?」って言ったのよ?信じられる?!私達はもう、大分前に終わった関係で…今は上司と部下、なのに。
そんな相手を非番の日にドライブに誘うなんて、変に意識しちゃうし、勘違いをしてしまったら―――あの人はどうするつもりなんだろう。
『忘れてないっていうのは確かだと思うわよ』
不意にジョディに言われた言葉が蘇る。あれは彼女に私達が別れた理由を話していた時で、秀一は別れた後も私のことを忘れていないって…ジョディとつき合っていた時も、誰かと自分を重ねていたように感じていたとも教えてもらったんだっけ。まさか、と思ったんだけど、そんなわけないって思ったんだけど、…何か雲行きが怪しくなってきたように感じます。えー…?どうしよう、この状況。
「ええっと、…とりあえず洗濯物を干して準備…!」
溜息を吐いて項垂れている暇はない。準備を終わらせるまでに30分くらいと言ってしまった手前、ボーッとしちゃって終わってません!待っててください!なんて言えるはずもないのです。あの人が勝手に来たのなら話は別だけど。うん。
着替えてはいるけど、出かけるつもりなんてなかったからTシャツにジーパンという、何とも色気のない格好なんだよね。いや、別にデートってわけでもないのだから色気のある格好にしなくても、……やっぱり着替えよう。せめてもう少しマシな服にしよう。じゃないと、私が何か嫌だ…!
(でもあんまり気合入れ過ぎな服もどうかと思うので…この辺りかなぁ)
ジーパンはそのままで、Tシャツをキャミワンピに変えて…それからカーディガンを羽織ればいいかな。あとはパンプスを履けばバッチリでしょう。これくらいの服なら、うん、気合入っているようには見えないけど、でもTシャツよりは全然マシだと思う。
鏡に映る自分を見て、ふと思った。秀一と出かける為にこうして悩みながら服を選ぶのって…すごく久しぶりだなぁ。別れてからはもちろん、同じ職場になってからだって2人で出かけることなんてなかったし。
ぼんやりと思考に耽っていると、ピンポーンとチャイムが鳴った。誰だろう?と思ったのは一瞬だけ、すぐに秀一が来ることを思い出して慌てて玄関に向かうハメになりました。
「お、…お疲れ様です…?」
「何故疑問形になる。とりあえず乗れ」
「あ、はい」
大人しく助手席に乗り込んで、シートベルトをした。この人の車に乗るのは決して初めてではない、捜査中や追跡中に乗ることだって多いけど…何ででしょう、ものすっごく緊張してるんですけど?!もう正直に言いますとね、秀一からの電話を切ってからずっと緊張して大混乱中ですよ!!冗談抜きで!!そのうち冷や汗とかかき始めるんじゃないの、私…。
多分、ジョディから彼が私のことを忘れてないとか、そんなことを聞いていなかったらこんなに緊張していなかったと思う。聞いてしまっているから、変に緊張してるのかなぁ…というか、それ以前に私が今でも未練たらしく想っていなければ緊張する必要もなかった気がする。
とっくの昔に吹っ切れていれば、ジョディから聞いたことも笑い飛ばせていたようにさえ思うから。今でも想っているから、好きだと自覚してしまっているから、余計にドキドキしてしまうんだろう。
(だからといって、今更忘れることもできないんだけれど)
元々、秀一のことを嫌いになって別れを切り出したわけじゃない。ただ、私が耐え切れなかっただけ。だからなのかな、…好きな気持ちがいつまで経っても消えてくれないのは。
「今日はずいぶんと大人しいな」
「まるで普段はうるさいみたいな言い方…」
「そうは言っていないが、あまり黙り込むタイプではないだろう」
考え事をしている時は別だが。…今日はそういう感じではないな。
運転している彼は前を向いたまま。だけど、一瞬だけこっちを見た目がとても優しく細められていたような気がして、一気に体温が上がる。鼓動も余計に早くなって、顔なんて真っ赤になっているんじゃないかってくらいに熱い。
本当にこの人は不意打ちでドキドキすること言うし、するし、…何より私のことを誰よりも理解してくれているような気がするんです。学生時代から、ずっと。それは今でも変わっていなくて、さっきみたいに簡単に当てられちゃう。秀一に隠し事はできないなぁって、いつだって思うんだよね。
「ちょっと、考えてただけです」
「何をだ?」
「―――秀一が、私を誘った理由」
ポツリ、と呟いた言葉は、エンジン音のみが聞こえる車内に存外大きく響いた。言ってしまってからしまった、と思ったけど、でも気になっていたのは確かだし…もう彼にどう捉えられてもいいや、と半ばヤケを起こしています。
理由を聞くということは、少なからず意識しちゃってますよーってことになるでしょう?そこまで勘繰らない人もいるかもしれないけどさ。
「捜査したいことがあるとか、そういうことだったら納得できるんです。でも…」
「今回は完全なプライベートだな。そんなつもりは毛頭ないぞ」
「でしょう?だから余計に気になったんですよ、誘われた理由が」
再び車内には沈黙が訪れる。チラッと見上げた彼の顔はいつも通りで、でもどこか考えているような感じにも見えて、とりあえず言いたいことは全部言葉にしたから秀一の言葉を待つことにしよう。
そっと息を吐いて、移り変わる景色に視線を向けた。
「…単純に、」
「え?」
「単純にお前に会いたいと思ったんだが、それでは理由にならないか?」
…………は?!
「あ、会いたい、って、…え?!」
「起きてから円香も非番だったことを思い出してな、それで会いたくなって―――」
「スッストップ!!」
「…お前、アメリカに住んでいてなんだ、その発音は」
「今ツッコミいれるのそこなの?!」
ビックリし過ぎて敬語が外れた。でもそんなことを気にしている余裕がなくって、秀一の言葉が頭の中を延々とリフレイン中。グルグル、グルグル。ああもう、刺激が強すぎて脳みそが沸騰しちゃいそうだ…!
ちょっと待って、これ、本当にジョディが言っていた通りなの?!この人、別れた後も私のこと忘れてなかったの?…でもそうとは限らない、もしかしたら私が変な意味に捉えてしまっているだけで、秀一はただ単純に会いたい、って、おも、………お、思うのかなぁ?というか、恋愛感情抜きで会いたくなる気持ちってどんなのですか。ダメだ、パニックになり過ぎてよくわからなくなってきましたよ私!!
私のこと、今でも好きなんですか?
って思わず口走りそうになったけど、それはグッと飲み込んだ。核心に触れたら、ダメな気がする。もし、…もし本当に秀一が今でも私を好きだったとしても、また同じ過ちを繰り返してしまうんじゃないのかって思うの。それにこっちからフッておきながら、今でも好きだってことを知られたらやっぱり―――軽蔑とか、呆れられてしまうような気がしてる。それが一番嫌で、一番怖いんだなって改めて実感したよ。
どんな言葉を、どう返したらいいのかわからなくなって自分から聞いたくせに黙り込んでしまった私。秀一はそんな私をチラッと一瞥したけれど、何も言わずにまた視線を前に戻してしまった。
程なくして着いたのは、海だった。時期じゃないからか誰もいなくって、まるで貸し切った気分…潮の香りを思いっきり吸い込めば、さっきまでの緊張が解れていくような気がした。
「前に言っていただろう、海に行きたいと」
「よく覚えてますね…それ言ったのって結構前じゃないですか」
まだ私が組織に潜入していた頃。隙を見て定期報告をしていた時に「海に行きたい」と漏らしたことがあったんだ。海に行って気分転換がしたい、と。
今思えば何言ってるんだコイツは状態なんだけど…そんな戯言をこの人は覚えていて、尚且つ叶えてくれてしまったというワケ。こういうとこ、本当にズルいよなぁ秀一は。
振り返ってありがとう、と言えば、何故か秀一は僅かに呆けた顔になった。わ、ポーカーフェイスの彼がこんな表情を見せるなんて珍しい。でもそれはほんの少しの間だけ。すぐに薄らと笑みを浮かべてどういたしまして、と言いながら煙草を咥えた。マッチで火をつけるその仕草さえもカッコイイなんて、イケメンってすごいな。
「―――円香」
「はい」
「今でもお前に惚れていると言ったら、お前はどうする?」
波の音に混じっていたけれど、打ち消されることはなく、彼の言葉は真っ直ぐに私まで届いていた―――。