囚われずにはいられない
私は今、ものすっごく不機嫌な顔で外を歩いています。もう少し楽しそうな顔をしてくれますか?と苦笑する沖矢くんの言葉にも知らんぷり。
仕方ない、今のこの状況は仕方ないとわかってはいるものの…どうしたって不機嫌になってしまうのだ。
(デートなら、秀一としたかったな…)
沖矢くんの変装をしているだけで中身は秀一だ。それに間違いはないのだけれど、どうしたって顔が違うし、口調も声も違う。わかっていても本来の姿をした彼と手を繋いで、外を歩きたいと思ってしまうのは当然のことだと思うのよね。
それを言ってしまうと困らせてしまう、とわかっているから、こうして胸の内に留めておこうとはしているけど。…その反面、顔には存分に出ているけどね。
「だってさぁ…」
「君の言い分はわかっているつもりですよ。…けれど、今は耐えてください。ね?」
「……」
「家に帰ったら存分に甘やかしてやる。我慢、できるだろう?」
耳元で言われてふるり、と身体が震える。声は沖矢くんのままなのに口調は秀一のもので、一気に熱が上がったような気さえするぞこの野郎…!
渋々頷けば、いい子ですね、と頭を撫でられた。頭を撫でられるのは嫌いではないけれど、今のは子供扱いされているような気がして面白くない。実に面白くない…!
ムスッとした顔のまま、でも繋いでいる手にギュッと力を込めればゆるりと解かれ、指を絡められた。所謂、恋人繋ぎというやつですね。一度は落ち着きかけた熱がぶり返してくる。うわ、これは思っていた以上に恥ずかしいかもしれない…!
内心、あわあわと慌てていると小さく名前を呼ばれて顔を上げる。どうしたの?と言葉を返すと、薄らと開かれた瞳がツイ、と後ろへと向いた。
「どうやら罠にかかったようですよ。コナンくんの勝ち、ですね」
「勝負じゃないけどね…」
ストーカーにバレないようにそっと視線だけを向ければ、明らかに変だろ!って声をかけられそうな程に深くフードを被った男性が電柱の影に隠れるようにして立っていた。
僅かに肌を刺すようなコレは殺気、だろうか?沖矢くんに向けられたものか、それとも私に向けられたものか、…はたまた両方か。傷害沙汰にならなければいいけど、と思いながら視線を戻そうとした瞬間、
フードに隠れていた瞳がこっちを向いて―――ニヤリと、笑った。
途端にゾクリ、と恐怖感が押し寄せてきて、沖矢くんの手をぎゅうっとさっき以上の力で握る。震えを隠すように腕にもしがみついた。どうしよう、あ、れは…さっき見た瞳に浮かんでいたアレは間違いなく狂気、だ。
私はこれでも現場に立つFBI捜査官だ、何度も狂気に呑まれた瞳を見てきたはずなのに…全身が怖いと、叫んでいる。近づきたくないと、早く逃げたいと本能が叫んでいるようにさえ感じた。
「ッ沖矢、く、」
「―――そんな顔をするな。守るさ、絶対に」
するり、と頬を撫でる指はどこまでも甘く、優しい。
極限まで高まっていた恐怖と震えが、少しずつ収まっていった。
「良かったな、捕まえられて」
「うん、まぁ…」
結論から言おう。ストーカーは案外、あっさりと捕まりました。というか、捕まえました―――沖矢くんとボウヤが。
人通りがほとんどない所をわざと選んで歩いていたので、想像以上に簡単にストーカーが逆上してくれまして…隠し持っていたらしいナイフを、振り回された。さすがにちょっとビックリしたけど、それ以上にビックリしたのはボウヤが蹴ったボールがもんのすごい威力だったことだ。小学生が蹴ったボールって、普通は握られたナイフをふっ飛ばさないでしょうよ。
いや、今はそれは置いておこう。話が逸れる。ええっと、…ナイフをふっ飛ばされたストーカーは、そのまま沖矢くんに締め上げられたのです。いやぁ、沖矢くん…っていうか、秀一ってやっぱりすごいよね。うん。截拳道以外の技を使う彼を見たのは、もしかしたら初めてかも。
沖矢くんがストーカーを確保している間にボウヤが警察に連絡をする、という見事な連係プレーを発揮し、無事に御用となったわけなのだが…私、ボウヤがついてきていたなんて全く知らなかったんですけど。
事情聴取を終えた後、帰路につきながら文句を言えば、助かったでしょう?って悪びれる様子もなく思わず溜息をついてしまった。肝心のボウヤも何で怒ってるの?って顔してるし…どう考えたって、子供を巻き込むのは間違ってるでしょうに。確かにこの作戦を考えたのはボウヤだったけれど。
そう。沖矢くんと恋人のフリをして、ストーカーをあぶり出そうと考えたのはボウヤだ。とはいえ、何があるのかわからないのだから本当なら関わってはいけないはずなのに。いくら中身が高校生だとしても、ね。
もう事は済んでしまったのだからあれこれ文句を言っても仕方がないのだけれど。
「コナンくん、夕飯は食べていきますか?」
「ううん。蘭姉ちゃんが心配するし、もう帰るよ!」
「1人で大丈夫なの?ボウヤ」
「平気だよ、ここからそんなに遠くないし。それにまだ遅くない時間だしね」
16時を少し回った所か…まだ外も明るいし、大丈夫かな。でも気を付けてね、と小さな背中を送り出した。…あ、お礼を言うのをすっかり忘れてしまった。
「いいか、今度言えば」
言い忘れてしまったものは仕方ない。鍵を閉めてリビングへと戻れば、沖矢くんがコーヒーを飲みながら文庫本を読んでいた。絵になるその姿に、ドアを開けたその状態でしばし視線を奪われる。とくん、と心臓が高鳴ったのは見て見ぬフリだ。
私が好きなのも、つき合っているのも秀一で断じて沖矢くんではない…何となく、沖矢くんにときめきを感じてしまうのはいけないことのような気がする。同一人物なのだから浮気、というわけではないのだろうけれど、気分的には浮気に近いもののような気がしてしまうのです。前も同じこと思ったけど。
そういえば家に帰ったら甘やかしてやる、って言われたけど、沖矢くんの姿のままで甘やかされるのかなぁ…どうせ甘やかしてくれるんだったら秀一の姿の方がいいなぁ。明日は週末だし、確か義姉さんが来る予定もあったはずだもの。
だとしたら、変装を解いてしまってもいいと思うの。もちろん、まだ誰かが来る可能性もあるから今すぐは無理だろうけどさ。
(…義姉さんと会うの、噛みついて以来だっけ…)
いまだリビングの入口でぼんやりと沖矢くんを見つめながら、義姉さんに噛みついてしまった日を思い出す。沖矢昴=赤井秀一だと知った次の日、早朝に訪ねてきた彼女へ私は思いっきり詰め寄ってしまったのよね。秀一の制止の言葉も聞かずに。
今思えばとんでもなくバカなことをしたな、と思うけれど、あの時は本当に騙された気分で、悔しくて、その全てをぶつけてしまったんだよ。それなのに義姉さんはごめんね、と私を抱きしめてくれて。
その言葉に落ち着きを取り戻して謝ったものの、…秀一に変装を施してすぐに帰国してしまったから、ちゃんと顔を合わせるのは1週間ぶり。優しい人だから怒っていたりはしないだろうけど、やっぱり気まずさは残る。
「円香さん?」
「わっ?!」
「そこまで驚くこともないでしょう」
「だ、だって名前…!」
今まで名字呼びだった人に、いきなり下の名前を呼ばれたらビックリするに決まってるじゃないか!
「色んな意味で心臓に悪いよ…それで何か用事?」
「いいえ、そういうわけでは。ずっとボーっとしているようだったので、呼んだだけです」
「あ、そう…コーヒー、淹れてくる」
「私のを飲んで構いませんので、」
言葉がそこで切られ、パタンと本が閉じられる音が聞こえた。何となしに沖矢くんの方を見れば、こいこいと手招き。さっき用事がないって言っていたばかりなのに、と思いながらも近寄れば、くるりと向きを変えられてそのまま彼の足の間に座らせられました。
逃げようとしても腰に彼の腕が回っていて、がっちりと押さえられる。昔、恋人だった時にもされたことのない行為に「ひー!!」と心の中で叫び声を上げた。実際に叫ばなかっただけ、褒めてほしいと思います。いや、本当に。
そんな私の状態なんて露知らず。沖矢くんはコーヒーが入ったマグカップをどうぞ、と私の手に握らせた。まだ淹れたばかりらしいそれは、香ばしい豆の香りが湯気と共に漂っている。
何を言っても離してくれそうにない気がしたので、諦めて大人しくコーヒーを啜る。しんとしたリビングに響くのは、時計の秒針の音だけだ。静かだなぁ、さっきの出来事がまるで嘘みたい。
お互いに何も言わずにいると、肩にズシリと重みが加わった。恐らくは沖矢くんが顎をのせたのだろう、喉、苦しくないのかな。
「―――円香」
「…沖矢くんの声で秀一の口調はやめて心臓に悪い…!」
「なら、声を戻せば問題はないな?」
「ひっ…!」
だから耳元で喋んないでってば!!つーか、声を戻された方が問題な気がする。だって私、秀一の全てに弱い自覚があるから。
マグカップを落としてしまわぬようぎゅっと握りしめていると、不意に頬へ彼の手が触れた。これはキスされる、と思った…別にそれは構わないのだけれど、目の前にいるのは別人の顔―――と認識した瞬間、無意識に両手で顔を覆ってしまう。
空気で秀一がムッとしているのが、わかる、わかるんだけどごめん、思っていた以上にダメ、らしい。拒否をしたいわけではないけど、体が勝手に動いちゃうの。
「ご、ごめんなさ、あの、したくないわけじゃないんです。秀一を拒否しているわけでもなくって!」
「慣れないか?この顔」
「いや、慣れてないとかじゃないんですけど―――どうしても、浮気、してる気分になる…」
触れるのならば、触れてくれるのならば…秀一がいい。ほとんど音になっていないはずの言葉だったけれど、しっかりと彼には届いていたようで。ふむ、と考え込むような声音が聞こえてきた後、ビリビリと何かを破るような音が響き渡った。
逸らしていた顔を再び秀一に向ければ、そこには沖矢くんの仮面を外した正真正銘秀一の姿があって思わず泣きそうになる。そんなに時間が空いていたわけでもないけれど、それでもやっぱり…嬉しいものは嬉しい。
「これで満足か?」
「…そのドヤ顔は腹立ちますけど、満足です」
「フ、提案したいことがあったんだが…ひとまず後にするとしよう」
「んっ…」
持ったままだったマグカップはいつの間にかテーブルの上に置かれ、私はソファに押し倒された。変装を解き、首にしていた変声機も外されているけれど…服装だけは沖矢くんのまま。秀一がタートルネックってとても新鮮だ…落とされるキスに酔いしれながらも、まだ少しだけ余裕のある思考回路はそんなことを考えている。
でもそれはすぐに奪われて、繰り返されるキスとか、頬を滑る彼の手の感触とか、室内に響く水音や衣擦れの音に意識がいってしまう。唇が離される頃にはもう、私は蕩けきった表情になってしまっていた。…多分。
秀一のシャツをギュッと掴み、乱れてしまった呼吸を必死に整える。それなのに私を見下ろしている彼の人は私程、呼吸を乱していないのが腹立つなぁ…!そりゃあキス、してたんだから、多少は乱れてるけど…あれかな、鍛え方が違うってやつなのでしょうか。
でもこの場合、何を鍛えればいいの?腹筋?乱れていた呼吸が整い始めると、思考回路は徐々にいつもの調子を取り戻していった。他人に今の私の頭の中を覗かれたら、絶対になに考えているんだコイツって目で見られるだろうけど。
「…なんか、秀一はいつでも余裕ですよね?」
昔から、ずっと。
ボソリと呟いて、キスの間、彼がしてくれていたように頬に触れる。男性のクセに綺麗なその肌は、下手すると手入れしているはずの私より綺麗かもしれないと思う。
「余裕そうに見えるか?」
「見えますよ。いつだって、…私ばっかりが翻弄されて」
さわさわと頬に触れたまま、告げる。すると、秀一がフッと笑みを浮かべて私の手に擦り寄ってきた。ふふ、何だか猫みたい…動物に例えるならば、絶対に秀一は犬だと思っているんだけど、でもこの仕草はやっぱり猫ね。何だかすごく可愛い。
手懐けているような錯覚さえ芽生え始めた所で、私の手をそっと掴んだ秀一。嫌だったのかな?と思って手を引っ込めようとしたら、ちゅ、と掌にキスをされた。それだけならまだ良かった、だけどそれだけじゃ終わらなくって…舐められ、ました。ベロッと。
さすがに驚いて「ひっ?!」と、何とも色気のない声が口から出る。人間ってね、本当に驚いた時は可愛らしい悲鳴なんて上げられないんですよ…!
何をするんだ、と抗議しようと思ったのに、そのまま指の間とか執拗に舐められて、その光景がまた何とも卑猥で―――ゾクゾクと背中が震える。開かれた翡翠色の瞳に宿っていたのは、情欲。何よりも熱いソレを宿した瞳に射抜かれて、ドクンッと心臓が痛いくらいに跳ねた。
「これが余裕そうに見えるのなら…FBI失格の観察眼だな」
がぶり、と噛みつくような交わった唇は、火傷しそうな程の熱を含んでいた。