偽りの恋人


玄関を開けたらキッチンからいい香りが漂ってきていた。どうやら今日の夕飯はカレーらしい。沖矢くんの得意料理の1つだ。
ただいま、と言いながらキッチンに入れば、エプロンを付けた沖矢くんがカレーを煮込んでいる真っ最中。…これ、彼の正体を知る前は何とも思っていなかったけど…中身は秀一なのよね?ということは、秀一がカレーを作っているということで―――その姿を想像するだけでどうしても笑いが込み上げてくる。


「なに笑っているんです?」
「ううん、何でもないよ。ただいま、沖矢くん」
「おかえりなさい、円香さん」


あのストーカーの1件以来、彼は私のことを名字ではなく名前で呼ぶようになった。理由を聞いてみても上手くはぐらかされてしまって、教えてくれそうにないんだよねぇ。特に理由がないんであればそう言うはずだし、はぐらかすってことは何か理由があるのは間違いないんだと思う。ただ、それを隠しているのが気になって仕方がない。
別にね、どう呼んでくれても構わないんだ。工藤さんって他人行儀な呼ばれ方するより、名前で呼んでくれた方が親近感が湧く。仮にも同居人なのだし、その方が接しやす―――って、私は名字呼びしてたなぁ。人のこと言える立場ではないか。


「ねぇ、沖矢くん」
「はい?」
「何で急に名前で呼ぶようになったの?」
「またそれですか…」
「だって気になるじゃない。はぐらかされたら余計に」


おたまでかき混ぜながら、しばし思案顔。顎に手をやって考えるのは、秀一の時と変わらない。多分、クセなんだろうなぁ…よく見る仕草だもの。


「そうですね、…そろそろ提案してもいい頃合かな」
「提案?」
「君が気にしていることも解決すると思いますよ」
「そうなの?」
「ええ。まずは夕食にしましょう、着替えておいで」


あ、そういえば帰ってきてそのままキッチンに来ちゃったからスーツのままだったんだっけ。セッティングまで全て任せちゃうのは気が引けるけど、…スーツのまま食べるわけにもいかないし、お言葉に甘えてしまおうかな。
部屋に戻って堅苦しいスーツから、ラフな部屋着に着替える。いつ緊急の連絡が入ってもいいように携帯だけ持って、1階のリビングに戻ればもう準備は終わっていました。うん、段々と手際が良くなっていくなぁ…この人。サラダにカレー、そして冷えた紅茶…何か至れり尽くせりって感じ?何でもしてもらえるのって楽だけど、その反面、申し訳ない気持ちになるのも本当で。
よし、片付けは私がやろう。元々、1人で此処に住んでいた時は家事を全て自分でやっていたのだし、そのくらいやらないと本気で何もやらなくなってしまいそうなんだもん。非番の時は分担してやっているけど、仕事の時は全部沖矢くんがやってしまっているのだ。
そりゃあ大学院生という設定ではあるけど、『沖矢昴』というのは架空の人物なのだろうから、実際に院には通っていないと思うの。時々、出かけてはいるみたいだけど…でも多分、行き先は大学ではないはず。勘でしかないし、本人に聞くつもりもないけれど。


「あ、このカレー美味しい」
「それは良かった。この前指摘されたので、煮込みの時間を増やしてみました」
「…最初から割と上手だったけど、ほんと日に日に上手くなっていくよね。沖矢くん」
「君にそう言ってもらえると嬉しいですよ」
「なのに中身は秀一なんだもんなぁ…ちょっと笑っちゃう」
「失礼なこと言っている自覚あります?」


うーん、あるようなないような?カレーを口に運びながら言えば、悪びれた様子がない…と少し低めの声で呆れられた。そんなに呆れられるようなこと言ったつもりはないんですけどね、私。

カレーを食べ終った後は、後片付けとお風呂。それが全て終われば、眠くなるまでリビングで本を読んだりテレビを見たり、お互いに好きなように過ごす。たまに仕事をする時もあるけど、沖矢くんの正体を知ってからは2人共、リビングで仕事をするようになったんだよね。
特に何か言ったわけでもないし、言われたわけでもないんだけど…何か自然とそうなった。私は少しでも近くにいたいから、って理由なんだけど。それにFBIの仕事をしていても秀一には見られたって問題ないから。…いや、一応死んでいる身だからマズいのか?見られると。


「夕食を食べる前に言った提案のことなんですが…」
「ああ、言ってたね。なに?」


沖矢くんが本を閉じてそう声を掛けてきたので、キーボードを叩く手を止め、振り返り彼を見上げた。いつもは糸目で開かれていない双眸の瞳が、見慣れた色で私を見つめる…というか、若干射抜かれている感覚もあってドキッとしちゃうんですけど。沖矢くんの姿なのに、こうして秀一の片鱗を見せるのは本当に止めてほしい。心臓もたない。
まぁ、そんな私の事情は置いておくとしよう。今、関係ないし。それにしても、何で沖矢くんはこんなにも真面目な表情をしているの?提案とやらはもしかして、組織に関係することだったりする?それだったら真面目な表情で切り出されるのも、わからなくはないけれど。
だけど、至極真面目な顔をした彼の口から紡がれたのは、マヌケな顔を晒しても仕方がない内容だった。それを言ったのが秀一だと思うと、余計にぽかーんとしてしまう。…うん、この人は一体、何を言い出しやがったんだ?


「…はい?」
「もう一度、言いましょうか。円香さん、私とつき合って頂けませんか?」


聞き間違いかと思ったけど、そんなことはなかった。断じてなかった!むしろ、聞き間違いだったら良かったのに…マジで言っていやがりましたね、この人。
沖矢くん―――というか、秀一が冗談を言うとは思えないから多分、本気で言っているんだと思うんだけど…あの、目的がわからないのよね。私の記憶が正しければ、彼の正体を知った日に「『沖矢昴』にすら渡したくないと思ってしまった」って言っていたと思うんです。それなのにどうして真逆のことを言っているんだ…?!

頭を抱えて溜息をつく。色々と可能性を考えてみたものの、どれも決定打には欠けて何が何だかサッパリだ。これはもう本人に聞いた方が早いんじゃなかろうかという気になってきた。
本当なら自分で正解を導き出したかったけれど、そもそも他人が考えていることの正解を導き出すのはかなり難しい。近い所まではいけるだろうけれど、正解となると…それはもう本人にしかわかりえないことなんだもの。というわけで、沖矢くん自身に直撃してみようと思う。


「ええっと沖矢くん、というか秀一さん…?」
「…なんだ」
「つき合うって、どういうこと?何を考えてるんです?」
「お前に正体を明かした時から、ずっと考えてはいた。どうすれば沖矢昴として円香の傍にいられるのか、とな」
「そんなの今まで通り、同居人でいいんじゃないんですか?」
「初めこそそれでいいかもしれんが、兄妹でも何でもない男女がそう長く同居を続けると思うか?」


秀一の言葉に成程、と相槌を返す。確かにその通りだ、元々次の住居が決まるまで、という条件付きだったんだもんね。普通に考えればさっさと見つけて出て行くのが一般的だ、つき合っているのなら別だろうけどね。
だけど、沖矢くんと私の関係はただの同居人なのだ。それも知り合いでも何でもなかった、それこそ初対面の男性と同居生活を送っているという…一般常識をそれなりに持っている人だったら、何で?と思う状況かもしれない。

でもつき合っているというなら、話は別。

一緒に暮らしているうちに恋仲になったのであれば、別に新しい住居を探していなくても問題ないし、ひとつ屋根の下で暮らし続けていても不自然でもない。むしろ、自然に見えると思う。私達の職業柄、その方が助かることだって多いだろうし。
それに哀ちゃんを組織の魔の手から守るには、工藤邸に身を置けるというのは素晴らしいことなのです。手っ取り早い。―――と、納得はできるのだけれど…心がついていくか、と言えば、実はそうではない。
だってそうでしょう?私が好きなのは秀一なんだもん、なのに沖矢くんともつき合うっていうのはやっぱり多少、抵抗するよ。何度も言うけど、浮気している気分になるんだってば。同一人物だとわかっていても!


「秀一だってそう思った部分があったから、私の追及にYESと答えたのだと思っていましたけど」
「…まぁな。だが、色んな面で考えるとそれが一番自然だろう」
「そりゃあ、そうですけど…でも、」
「なら、これはどうだ?―――沖矢昴とつき合っているフリをする」
「つき合っているフリ…?」


更なる提案に首を傾げる。


「周りを騙すことにはなるが、…フリであればまだ許容できるだろう?」
「…それって、触れ合う時は秀一に戻ってくれるって思ってもいいんですか?」
「円香が沖矢のまま触れてほしくない、と願うのならば、そうするさ」
「むう…」


そこまで悩むのか?と言われそうだけど、私にとっては大事な問題だ。
別に沖矢くんが嫌いなわけではない、元は秀一なのだから好きは好き。でもそれとこれとは別問題だと思うの…というより、私の心の問題?秀一も複雑は複雑みたいだけど、メリットから考えるとそれが一番だろうと納得しようとしている感じかなぁ。


「別にね、どうしても嫌!ってわけではないんです。ただ…そういうことをするのなら、どうしても秀一がいいって思っちゃうんです」
「ああ。…それに俺も、お前の目に映るのが俺ではないのは気分が悪いからな」
「それでもやろうとしているのは、FBIだからですかねぇ…」
「あのな、この提案をしたのはメリットが多いからとか、損得で考えていたわけではないぞ?」
「……え?!」


思わず声に出してしまって、部屋の温度が何度か下がった気がする。しまった、わかりやすい程の失言だ…今の!サァッと血の気が引いていくのが、自分でもわかった。
ギギギ、とまるでブリキ人形のような緩慢な仕草で視線を逸らし、そぉーっと彼の傍から逃げようと試みる。…が、そんなのを彼が許してくれるはずもなく。ガッと強い力で腕を掴まれ、一瞬にして死を悟りました。
これは、本当にマズイ結果になりそうです誰か助けて…!!


「ホー…?円香はそんな風に俺のことを思っていたんだな、知らなかったよ」
「いや、その、あれは言葉のあやと言いますか…!」
「それは使い方が違うだろう?」
「うぐ…」


これはもう、逃げられる気がしない。ええい、もうどうにでもなれ!体の力を抜いて、秀一の隣へ腰を下ろした。下ろしたというより、投げ出したって感じだけど。すると、掴まれていた腕は離されて頭を撫でられた。予想していたことと違うことが起きて、ちょっと思考回路が停止しているような気もする…あれ?怒られると、思っていたんだけど。何故に頭を撫でられているんだ?
よくわからないなぁ、と思いながら隣に座る彼の顔を見上げると、翡翠の瞳はまだ開かれたまま私を見下ろしていた。何となく逸らすのは負けの気がして、そのままじーっと見つめていればフッと秀一の瞳が優しく細められて、額にキスをひとつ。
秀一だけど、見た目は沖矢くん…うん、やっぱりちょっと複雑な気分だ。触れられるのは好きだし、嬉しいのだけれど。キスされた額に無意識に触れていると、グイッと引っ張られて秀一の胸へぽすん、と倒れ込む形になった。


「ど、どうしたんですか…?」
「話を元に戻すがな、本音を言えば―――円香を他の男に渡すのが嫌になった」
「へ?」
「俺は今、死んだことになっている。いくらつき合っていると言っても、赤井秀一は存在していない人間だ」
「…そうですね」
「それではいざという時、お前を守ってやれんだろう」


そ、れは…貴方が言う、守ってやれないという言葉の意味は―――異性からってこと?


「円香の気持ちは聞いた。離れることはないだろうと自惚れてはいるが…それでも」
「離れませんよ、私はこう見えても一途なんです。いらないって言われるまで、付き纏ってやります」
「ク、お前はなかなかどうして…男前な部分が垣間見えるな」
「そうでしょうか?」
「ああ。だが―――…そういう所にも、俺は惚れている」


ドクン、と心臓が跳ねる。今、秀一の胸元に顔を埋めているから…余計にドキドキしてしまう。ああでも、私はいつか沖矢くんにもこうやってときめくようになってしまうのかもしれない。どうしたって違和感は拭えないと思うけど、仕草も、温もりも、何もかもが…秀一に重なってしまうから。姿が違うだけで、やっぱりこの人は私が好きな人に違いないのだと改めて思い知る。

(それでも、変装していない姿でいてくれるのが一番幸せなのだけれど)

だけど、「つき合ってほしい」と言われた本当の理由がわかってちょっとだけスッキリしたというか、あの…思っていた以上に愛されているようで嬉しくなりました。『沖矢昴』に渡すのも嫌だけど、でも他の男に渡すのはもっと嫌だって思ってくれていたんでしょう?
もちろん、初めに話してくれたことも理由の1つに間違いはないのだろうけど、秀一の口ぶりからして今のが本音、ってことみたいだし。その理由が貴方の根本にあるのだとすれば―――つき合ってあげても、構わないですよ?
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