染め上げる彼の色
『ごめんなさい、もう無理です』
記憶の中の彼女は、まだ僅かにあどけなさを残していた彼女は、泣いているのか笑っているのかわからない顔でポツリと、そう呟いた。一体、何のことだろうと思った。何に対しての謝罪で、何に対して…もう無理だ、とそう言ってのけたのだろう。けれど、その疑問はすぐに解決した。
―――別れてください。
そう告げた声は、確かに震えていて。真っ直ぐに見上げてくる瞳は揺れているのに、涙は膜を張っていなくて…そこでようやく気がついた。何も文句を言わなかった彼女を、ここまで追いつめていたことに。
side:赤井
ハッと目を開けて飛び込んできたのは、見慣れた天井だった。一瞬、自分が何処にいるのかわからなくなったが、すぐに滞在しているホテルだということに辿り着いた。ふう、と息を吐いて、ベッドサイドテーブルに置きっぱなしだった水を飲み干した。ようやく頭の中がクリアになってきた気がする。
…ずいぶんと、懐かしい夢を見たな。目を閉じれば今でも鮮明に、あの時の彼女の姿が、表情が脳裏に映る。いっそ泣いてくれれば良かったのに、と思うのは俺のわがままなのだろうか。
どんなに連絡ができなくても、会う時間が取れなくても、アイツは文句ひとつ言わずに笑ってくれていた。だから甘えきっていたのかもしれない、彼女が離れていくはずがないと。
「愚かだったな…」
文句がなかったはずがない。見た目に反して寂しがりだったアイツが、会えない日が続くことに不満を持っていなかったはずがない。耐えて、耐えて、耐え続けてくれて…そしてあの日、全てが限界点を突破してしまったんだろう。限界点を越える前に、どうして言ってくれなかったんだと思わなかったわけではない。直接、問い質すことだってできた…けれど、それをしなかったのは完全に俺に非があったことに、気がついたから。
何でも素直に口に出す性格をしているクセに、それでいて人の顔色を窺うことに長けていて、瞬時に言って大丈夫か・ダメかを判断してしまう。ダメだと判断したら最後、何が何でも我慢してしまうのがアイツの悪いクセだったように思う。
きっと俺の様子をどこかで見かけ、寂しいとか会いたいとか、そういうのは言ってはいけないと無意識にブレーキをかけたんだろう。その結果は、知っての通り。
工藤円香―――大学時代の後輩で、部下で、相棒である女。
生涯、忘れはしないだろうと本気で思った相手。
彼女と別れた後も、誰ともつき合ってこなかったわけじゃない。それなりに経験もしてきたつもりだが、…いつだって脳裏をよぎるのは円香の顔だったな。
あれだけ放っておきながら、構ってやれずにいながら、こんなにも奥深くに彼女の存在が根付いていたとは思わなかった。彼女を重ねていたつもりは一度だってなかったが、けれど、今思い返してみれば無意識に重ねていたのだろうな。
「今でも好きだと言ったら、君は」
どんな顔をしてくれるのだろう。
「おはようございます、秀一」
「ああ、おはよう。珍しく早いな」
「ちょっと気になることがあって…」
「気になること?」
「ええ。この間の報告書なんですけど」
ここ、と報告書の一点を指差す彼女との距離は近い。普段からこんなものだ、と言われればそうなのだが、好意を抱いている女がすぐ傍にいて何とも思わない男などいないだろう。顔には出さんように気を付けてはいるが、…それでもこれだけ近くに、すぐにでも触れられる距離にいたら、いくら何でも緊張くらいする。
「…成程な。少し詰めてみるのもアリかもしれん」
「あ、やっぱり秀一もそう思います?」
「ああ」
じゃあ今日は私、そっちで動きますね。
見慣れた笑顔を浮かべた彼女の姿が、大学時代の姿とピッタリと重なった。同一人物なのだから重なって当たり前なのだが―――気がつけば、彼女の頬に手が伸びて、触れていた。
「ッ、?!」
「…円香」
「えっあ、の、しゅう、」
面白いくらいに真っ赤になって、持っていた報告書は握りつぶされてぐしゃぐしゃだ。く、と喉を鳴らして笑えば、円香はハッとした表情になり、すぐにムッと怒ったような顔になる。推測でしかないが、からかわれていると認識したんだろう…まぁ、笑われればそう勘違いするのも無理はないか。
断じてからかったわけではないんだが、真相を明かすのも、本音をぶちまけるのも、まだ早い。もっと、―――こいつの懐に踏み込みたい。踏み込んで、それで逃げ場を失くしてから、捕まえたい。
「報告書、ぐしゃぐしゃだぞ」
「へ?…ああっしまった!!」
「くくっ朝から元気な奴だ…」
「しょ、書類は秀一のせいでもありますからね?!」
いまだに顔を赤くしたまま、彼女はそう叫んだ。俺はその言葉にただ笑みを返すだけ。しかし、そんな可愛らしい反応をされてしまったら…期待をするぞ?