月夜の下でプロポーズ
―――結婚しよう。
一瞬、何を言われたのか全く理解できなかった。言われるであろう、と予想していた言葉を一文字も掠らなくて。ぎゅっと抱きしめられている状態で、しばらく私は固まっていた。
だって結婚しよう、って…どういうこと?秀一は私との関係を終わらせたいと思って、この場所に連れて来たんじゃないの?
え?何で私はプロポーズされて………そこまで考えて、ようやく彼が紡いだ言葉の破壊力に気が付いた。一気に顔に血液が回った感じがして、体温がぐんぐん上がってきている気がする…!
―――ズザッ
「プロポーズ?!」
「その反応は些か傷つくんだが…」
「ごっごめんなさい!でもまさかそんなこと言われると思ってなくて…っ」
赤い顔なんてきっと、何度も見られてる。それでも見られたくない、と顔を隠してしまうのは多分、女心なんだろう。
思いっきり後ずさりして、緩みそうになる口元を手の甲で隠して、赤くなっている顔を俯くことで見せないようにして…だけど、それは些細な抵抗にしか過ぎない。離れていたはずの秀一はあっという間に間合いを詰めて、顔を覗き込まれてしまった。
「…ッ!」
「返事を、…期待しても構わないのか?その顔は」
「え、っと、」
ああもう…!そんな顔で見ないでくださいよ!余計に顔が熱くなって、何て言ったらいいかわからなくなってしまう。返事をしなければ、と思う心とは裏腹に、じわじわと涙の膜が張り、視界は歪んでいく。ついに一筋の涙が零れた。これはきっと、嬉し涙だ。
秀一が困ったように笑い、次々と零れ落ちていく涙を掬い取って目元にキスを落とす。それは今までで一番、優しくて。
「…秀一は、後悔しませんか。私を選んで」
「後悔?…そんなもの、お前を手離した時に嫌って程にしたさ」
だからこその決断だ。今度こそ、後悔しない為の。
そう言った秀一の目は、迷いなど欠片も映っていない。覚悟していると言ったら語弊があるかもしれないけれど、そういう力強いものがひしひしと伝わってきて、ああ本気で言っているんだということがよくわかったんだ。こんな冗談言うような人じゃないっていうのも知っているけれど。
何も言葉を発しないまま、私は勢い良く彼に抱きついた。多少は驚いたみたいだけれど、何でもないように私を抱きとめて―――フッと笑った気がする。
「よろしく、お願いします」
「…ああ」
バチッと目が合って、お互いに笑みが零れた。そして少し冷えた彼の手が私の頬に触れるのと同時に、そっと唇が触れ合う。本当に触れるだけだったから、すぐに離れてしまったけれど。でも自分でもビックリするくらいに満ち足りていて、嬉しくて、幸せで、叫び出したいくらい。さすがにしないけど、そんなこと。
唇が離れて、もう一度だけぎゅっと抱きしめられて、車に戻ろうと手を引かれた。本音を言えばもう少し此処にいたかったけれど、体が冷えてきてしまっているのは明らかだったし、風邪をひいてしまうわけにもいかないしね。なので、手を引かれるまま車に乗り込んだ。
(プロポーズ、…されたんだ)
何だかまだ実感がわかなくてボーッとしてしまう。さっきの言葉は全て、私が見ている都合のいい夢なんじゃないかって。現実は真逆で、目が覚めたら秀一と私の関係は終わってしまっているんじゃないか…自分でもバカだと思うけど、そんな不安がいまだに胸に渦巻いているのも本当なのです。
口にしてしまったらきっと、秀一は怒るのだろうけれど。だって私が逆の立場だったら、怒りたくなるもの。信じられないのか、って。嬉しいのも、幸せなのも本当なのになぁ。
「手を貸せ」
「え?あ、はい」
何も考えず右の手を差し出せば、左だ馬鹿野郎と言われた。それでようやく彼がしようとしていることに気が付いて、しまったと思った。うん、そうだよね、プロポーズされた直後に手を貸せって言われたら、普通は左だよね…。
すみません、と口にして左手を出せば、薬指にシルバーのとてもシンプルな指輪がはめられた。装飾とか宝石とか、そういうものは一切ないデザイン。
「…サイズ、知ってたんですか」
「それを見た第一声がそれなのか、お前は…」
「だ、だって気になっちゃって…!」
「ク、まぁ大体予想はしていたがな」
くつくつと喉を震わせながら、彼も同じように左の薬指に指輪をはめた。もちろん、私がつけているものと同じくシンプルなデザインのもので。
はめてあげたかったな、と思ったけれど、一歩遅かった。
「実際に籍を入れるのはアメリカに帰ってからだが、その前に繋ぎ止めておきたくてな」
「私が秀一から逃げるとでも思ったんです?」
「いや、…虫よけの一種かな。ソレをはめていれば、俺のものだと証明できるだろう?」
ひ、否定はしないけど…!そんな理由が込められてたの?!この指輪とプロポーズ!昔はわからなかったけれど、この人は案外独占欲が強いのかも。
積極的に束縛してください!とは思わないし、言わないけれど…秀一にだったら束縛されてもいいかな、とか思っちゃう。それで貴方に離さないでいてもらえるなら、いくらでもって。
「じゃあ、秀一も私のものって思っていいの?」
「むしろ、そう思ってくれていた方が嬉しいんだがな」
「…そっか、そうですよね」
それを聞いて頬と口元が緩む。きっと鏡で見た私の顔は、情けない程にゆるゆるなんだろう。マヌケ顔を晒している自覚もあるけれど、ゆっくりと湧き上がってくる実感にそれを止めることは不可能に近いと思う。
一度は別れて、もう二度とこの人の腕の中に戻れることはないと思っていたし、この恋心も全て胸の奥に秘めて墓場まで持っていくと決めていた。それなのに…本当に人生というものは不可思議で、どう転ぶかわからないものだよね。もう一度、恋人として彼の隣に立つことが出来るとは思ってもいなかったもの。
(それ以上に驚いたのは、プロポーズされたことだけど…)
私達はFBIで、黒の組織を追っていて、いつどうなるかわからない身だ。もしかしたら、明日にでも命を落としてしまうかもしれない。いつ殺されてもわからない状況で生きているから、正直、結婚なんてする気がないと思っていたの。
守りたい存在がいること、それはFBIの仕事をする上でウィークポイントになり得るものだから。まぁ、私とつき合っている時点で、それを彼が気にしているとは考えにくいんだけれど。もちろん私も。
車のエンジンがかけられた。もうこの綺麗な夜景ともお別れか、と名残惜しむように窓の外へ視線を向けていたらグッと胸ぐらを掴まれては?!と目を見開いた。
届く雰囲気は決して剣呑なものではなく、彼が怒っていないということを教えてくれているけれど、それでも急に胸ぐらを掴まれたらビックリする―――
「んっ…?!」
ガチ、と歯がぶつかり合う程の勢いで塞がれた唇。こじ開けられるようにして、ぬるりと舌が入り込んできたもんだから無意識に体に力が入った。胸ぐらを掴んでいた秀一の手は私の後頭部に回り、もう片方の手は窓についている。徐々に快楽に呑み込まれている思考回路で、まるで逃がさないとでも言われているみたいだと思う。逃げたりなんか、するはずもないのに。
無遠慮に犯される口内。彼の舌が上顎や歯列をなぞる度に、背中にゾクゾクと何かが走って目尻には涙が浮かんできている。快楽をひとつずつ拾っている私の体、少しずつ、でも確実に腰に熱が溜まってきているのがわかる。その証拠にすり、と足を擦り合わせてしまっているのだから。
最後にちゅ、とリップ音をさせて離れていった秀一はそれに気が付いているかどうかはわからない…気付かないでいてくれると有り難いけれど、変な所でも勘の良さを発揮してくれる人だから…きっと気付いてしまっているのだろう。
「…これ以上は、帰ってからだな」
「も、本当に秀一のスイッチってわかんない…!」
「男は至極、単純なものだ。さっきのだらしない顔を他の男に見せるなよ」
「だらしなっ…?!」
何で急に貶されてるの?私!!
「なんかもう色々失礼です、貴方。いきなり胸ぐら掴んでくるし、だらしない顔とか言うし…」
「胸ぐら掴んだのは悪かった。勢い余ってしまってな」
「勢い余って彼女の胸ぐら掴むか普通…」
「―――円香」
「なーんですかぁ」
もう嫌だ、この上司!と怒りながら再び窓の外へ視線を向けていると、少し色香を含んだ声音で名前を呼ばれた。瞬時に心臓がドキリ、と跳ねる。それを悟られたくなくって、何でもない風を装い間延びした返事をした。
そうじゃないとどもってしまいそうでマズかったのです。割かし真面目に。
「帰ったら抱かせろ」
「拒否権ないですよね?!それ!」
「なんだ、拒否したいのか?」
「うっ…!そういう言い方って本当にズルイと思うんですよね…」
「くくっまぁ、逃がすつもりはないがな」
不敵な笑みを浮かべるな。不穏な言葉を吐くな。…けれどきっと、私はどんな秀一でも受け入れてしまうのだろうと、そんな予感を胸に抱いていた。