架空の恋人
「おきやすばる?」
剥いてもらったりんごをシャリシャリ食べながら、園子ちゃんの口から出た名前を復唱する。おきやすばる、おきやすばる…そんな名前の知り合い、いたかな?
「えっお姉様、覚えてないの?!」
「う、うん…何でそんな驚くのかな、園子ちゃん」
「だって沖矢さんって円香お姉様の恋人よ?!」
「こい、…?!」
食べかけのりんごがボトッとお皿に落ちた。それくらい彼女の言葉は衝撃的で、ビックリしたんだよ。だって恋人なんていた記憶ないよ?!園子ちゃんが知っているってことは、最近のことなんでしょう?
え、なに、私は赤井さんだけでなくそのおきやさんって人も忘れちゃってるんですか。多分、その方は一度もいらっしゃってないと思いますけれども。
「園子、コナンくんが言ってたじゃない。頭を強く打ってるから、記憶が抜け落ちてしまってる部分があるって」
「あ、そうだったっけ…その一部分が恋人の記憶だなんて。沖矢さん、お見舞いに来てないの?」
「来てないよ、会ったことない」
「沖矢さん、今忙しくてしばらく顔を出しに来れないってコナンくんに聞いたよ?」
「恋人の一大事に何やってんのよ…忙しくても時間くらい作れるでしょうに!」
ぷりぷりと怒る園子ちゃんを宥める蘭ちゃん。可愛らしいその姿にクスクスと笑いが零れるけれど、頭の中は見知らぬ恋人・おきやすばるさんって人のことでいっぱいだった。
さすがに恋人を忘れてしまうというのは非常に申し訳ない気分…上司の赤井さんを忘れてしまったってだけでもとても居た堪れなかったのに。さっきお皿の上に逆戻りしてしまったりんごを口に運びながら、ぼんやりとそんなことを考える。
それにしても恋人、いたんだ…私。
忙しかった記憶しかないし、日本に来ているのだって黒の組織を壊滅させる為だ。恋人を作る暇なんてなかったはずなのに、ちゃっかり作ってるなんて…その時の私、一体なにを考えていたんだろうか。
ああもう、自分のことなのにわからないことがあるって本当に気持ちが悪い!思い出せないことが、こんなにも歯痒いなんて思わなかったわ。
「うーーーーん…」
「円香さん、考えすぎちゃダメですよ?ふとした時に思い出せることだって少なくないって聞きますし、長期戦です」
「…うん、わかってはいるんだけどねぇ」
「お姉様は少し休むってことを覚えなくちゃダメよ!仕事だって休暇もらってるんでしょ?」
「まぁ、こんな状態じゃ無理だから」
「だったら休まなくちゃ!無茶ばっかりしてたら、治るものも治らないってもんよ」
ビシッと指を指された私は、思わずふはっと吹き出した。
何だろうなぁ、ほんと…高校生に諭されちゃったら、大人の威厳形無しじゃないか。カッコイイな、園子ちゃんは。
「やっと笑った」
「え?」
「気がついてないかもしれないですけど、円香さん全然笑ってなかったんですよ?」
「そうだった…?」
「やっぱりお姉様は笑っていた方が可愛い!早く元気になってね」
あまり長居すると、私の体に障るからと言って蘭ちゃんと園子ちゃんは帰っていった。しん、と静まり返った病室にいるのは、私ただ1人。
淋しいとか、そんなことを思う程に子供なわけではないけれど…やっぱり誰かが傍にいてくれるのは、いいなぁとは思ってしまうよね。さっきまで1人ではなかった空間に、1人ぼっちにされてしまうと余計に。…ああ、それを世間では淋しいと言うのかな。
ボフッと枕に顔を埋めると、首から下げていたネックレスがチャリ、と音を立てた。指輪…赤井さんが言うにはとても大事な人にもらったんだろう、ってことだったけど、恋人だというおきやさんにもらったのかなぁ。
何となく気になってしまって留め具を外して、指輪をチェーンから抜き取る。じっくりソレを見つめていると、内側に石が埋め込まれていることに気がついた。その横には…イニシャルかな?何か文字が刻まれている。石は翡翠?何か、赤井さんの瞳の色とそっくりだ。
「From S.A…Loving you(愛してる)?」
刻まれていたのは、誰かのイニシャルと愛の言葉。でもさっき私の恋人だと教えてもらった名前は、おきやすばる…イニシャルはS.Oよね?Aじゃないのに、指輪の内側に刻まれているのはS.Aってどういうこと?園子ちゃんが嘘をついている?いやいや、そんな嘘ついたって彼女には何の得もないじゃない!そもそもそうする必要性だってないはずなのに。
それともおきやすばるって人が存在しない、とか?…それもないか、蘭ちゃんもその人のこと知っているみたいだったしボウヤも知ってる口ぶりだったわよね、あれは。
この指輪は私が知らない誰かの、私へ向けられた愛の欠片なのだろう。
確かにそれはこの手の中に存在しているのに、どうしてこんなにも不確かなのか。そんなの、考えなくたってわかる…肝心の私自身が、覚えていないから。忘れているから。―――否。知らない、から。
だから何を言われても、提示されても、不確かなものにしか映らない。まるで夢を見ているかのような、ふわふわとした感覚だけが体を支配しているんだ。
「思い出せるのかな…どうして私は、忘れちゃってるのかな」
忘れてしまっているのか、知らないのか。ぐるぐると考える度に、それすらもわからなくなってくる。
確かに忙しく働いている記憶はあるのに、自分が捜査に行った事件とか任務とか、新人だった頃の教育係の先輩とか、所々ぽっかり穴が開いてしまったみたいに思い出すことができないでいるのだ。銃の扱い方や体術は、誰に教わったんだっけ…一体、誰と一緒に事件を追いかけていたのだろう?上司兼相棒だと言っていた、赤井さん?あの人のことを忘れてしまっているから、だから思い出せないの?
ズキン、と頭が痛んで考えるのを止める。このまま考え込むとまた、ひどい頭痛に悩まされそうだ…何だかどっと疲れちゃったし、このまま寝てしまおうか。どうせ誰もいなければすることもないし、暇を持て余すだけなんだから。それだったら寝てしまって、体力の回復に努めようじゃないか。
指輪とチェーンを握り込んだまま、私は意識を手放した。