その愛をもう一度
円香が退院して半月が経った。最初はぎくしゃくしていたが、気がつけば彼女は前のようによく笑うようになったし、会話も普通にできるようになっていた。
side:赤井
「赤井さん、コーヒー飲む?」
「ああ、もらおうか」
「どうぞ。ブラックで良かったんですよね」
「大丈夫だ」
記憶はまだ戻る気配はない。時々、指輪を見て切ない表情を浮かべていることはあるが…それでもやはり俺のことだけを、忘れたままだ。それはいまだに辛いと思う瞬間はあるにはあるが、それでも彼女を好きだと思う気持ちは変わらんし、欲を言えばもう一度好きになってはくれないだろうか―――とさえ、思うようになった。
きっと思い出せないことに罪悪感を抱いているだろう相手に、何てことを願っているんだとは思うがな。本音なのだから仕方がない。
家の中にいる限りは、なるべく沖矢ではなくそのままの姿でいるようにしている。盗聴器の有無は毎日確認しているから、恐らくは問題ないだろう。この状態で窓に近づくようなことはしていないし、出かける時は必ず変装するようにしているしな(当然のことだが)。
「…円香?」
「ん?」
「いや、こっちをじっと見ているから声をかけたんだが…」
「あ、ごめんなさい。見てたら思い出すかなーって、思っちゃって」
「思い出してほしいのは山々だがな…やはり、無理をしてほしくはない」
何度か頭を押さえて眉間にシワを寄せている顔を、見た記憶がある。あれは恐らく、思い出そうと考えを巡らせた結果だったのだろう。押し込めてしまっている記憶を、しいて言えばパンドラの箱を無理矢理こじ開けようとしたから、それが頭痛となって返ってきたのではないかと思っている。
もちろん、思い出してくれたら嬉しいとは思う。彼女自身も思い出したい、と願っているのだろうし。…だがその反面、無理をさせたくないと思ってしまう。苦しんでほしくないと思ってしまう。
(思い出させることで、苦しめるかもしれんのに)
忘れたいと願っていたかもしれないんだ。それだったらそのまま、忘れさせておいた方がいいのかもしれない…本当に円香の幸せを思うのであれば、それが最善策なのだろう。
…けれど俺は、そうしてやることができない。彼女を手離してやることなんて、どうしたってできるわけがないんだ。苦しめるとわかっていながら、辛い思いをさせるとわかっていながら、それでも身勝手に円香を求めている。また失うことになるなんて、もうごめんだからな。
「―――外に出ようか」
「外?」
「ああ、まだ昼前だ。昼食を外で食べて、遠出しよう」
「…いいの?」
「もちろんだ。ずっと家の中では退屈だろう?支度をしてくる、少し待っていろ」
頭を撫でれば、円香の頬が僅かに緩んだ。記憶を失くす前と同じ表情に、ドクリと心臓が跳ねる。記憶が戻ったんじゃないか、と錯覚しそうになるんだ。
抱きしめたくなる衝動をグッと抑え、沖矢の仮面を被る為にリビングを出た。
「うわぁ…海だ!」
「好きだろう?」
「うん、好き!よく知ってるね、沖矢さん」
沖矢の仮面を被り、車を走らせてきた先は―――つき合う前に一度だけ連れてきた、海。思い出の場所とは呼べないかもしれないが、それでも彼女と来たことには変わりがない…これはボウヤの提案でもあった。
円香が退院した日、記憶が戻る気配のない彼女を見て「一緒に行った思い出の場所を巡ってみたらどうか」と言われたのだ。そうすればもしかしたら、思い出すきっかけになるかもしれないと言われたな。だが、一緒に行った場所なんて片手で事足りてしまうことに気がついた。この海とプラネタリウムくらいだったか?
(前もそうだったが、ほとんど遊びに連れて行ってやれなかったな)
大学時代にちゃんとデートと呼べたのは、恐らく二度ほどだったろう。円香も何処かに行きたい、と主張するタイプではなかったから、あまり気にもしていなかった。今だったら、…コイツが行きたいと望んでくれるところに連れて行ってやりたいと思うが。
あの時は何故あんなにも、円香に対して無関心の気が強かったのだろうな。愛していなかったわけではないのに。いや、無関心だったというより…どうしたらいいのか、わからなかったのかもしれん。まぁ、今言った所で遅いのはわかっているが。
「円香、何処か行きたい所はあるか?」
「え?」
「休暇を取らされてるだろう?俺に用事がある時は無理だが、…極力傍にいる。だから、何処でも連れて行ってやるから」
「…それはどちらとして?」
くるりと振り返った彼女の顔には、どこか淋しそうな笑みが浮かんでいた。
「ごめん。何でもないよ。…行きたい所かぁ…水族館とか、プラネタリウムとか、映画とか…行ってみたいかな」
「なら、時間を作ろう」
「ふふっうん、ありがとう。沖矢さん」
―――ああ、やはり彼女の中に俺の記憶はないんだな。わかっていたことなのに、こうも目の前に証拠を出されてしまうとやはり堪えるな。
沖矢の姿でいても、こちらの口調で話していれば…アイツは無意識の本来の名を呼ぶ。辺りに誰もいないことが条件ではあったし、かなり小さな声でだが。けれど当然ながら、今の状態のアイツはそれをしない。
それでも、…やはり笑ってくれれば嬉しいし、好きだと思ってしまう。この腕の中に閉じ込められたら、とさえ思ってしまうのに、彼女の中にいない状態のままでは嫌がられることは目に見えていた。
頭を撫でることも、頬に触れることも今の所は嫌がられてはいないが、それと抱きしめることではワケが違う。それに一度抱きしめてしまえば、いい加減抑えがきかなくなりそうだ。それでもお前に触れたいと、心が叫ぶ。
「愛していると言ったら…笑ってくれるのか?」
呟いた言葉は、波の音にかき消されていった。