ぷつりと糸を切ってしまえ
「ここが赤井さんの家?」
「ああ。しばらく帰ってきていないから、まず掃除からだが…」
「使っていないと家ってダメになるもんね。あと買い出し?」
「そうだな。食材なんざ何もない」
私達は今、ワシントンのとあるアパートの一室にいます。何を隠そう、赤井さんのご自宅です。もちろん初めて上がります。彼の話によれば、記憶を失くす前の私も此処には来たことがないそうな。
…ふぅん、てっきり来たことがあるんだと思ってたけど…違うんだ。ちょっとどころか、かなり意外で素直に口に出せば「そんな間柄じゃない」と苦笑されて。おや?と思ってしまった。私の推測が正しければ、私とこの人は恋人同士だったはずなんだけど…もしかして思い違いだったのかな?でもそうすると、この指輪の説明ができなくなる。
(聞いたら、全て答えてくれるのだろうか。それとも曖昧にされるのだろうか)
指輪にそっと触れてそんなことを思う。好きなんだろう、と思ってからずっと、私の思考はそれを繰り返している。関係を聞いてみようかやめようかとか…そんな下らないことを。聞いた所できっと私は、実感など湧きはしないのだろうけれどね。
うーん、人ってダメだって思えば思う程にその逆の方向へ突っ走っていくものなんだなぁ…初めて知ったよ。私がこんなにも諦めの悪い人間だったなんて。
「食材と飲み物…あとは酒か」
「お酒?…あ、もしかして工藤邸にあったバーボンって」
「俺が買ったものだ。たまに工藤優作氏が送ってきてくれるものもあるが」
「兄さんとお知り合いですか…」
「そりゃ家主だからな、知っているさ」
「ああ、それもそうか」
荷物はベッドルームに、と言われたから、その通りにベッドルームへ持っていったんだけど…ねぇ、ベッド1つしかないよ?当然だけど。まっさか1つのベッドで寝るとか…そんな冗談は言わないよな?赤井さん。
リビングに大きめのソファがあったし、そっちと分かれて寝るんだよね?広さからして客室があるとは思えないし。そもそも一人暮らし用のアパートはそこまで部屋数は多くない。もう一部屋くらいあったとしても、そこは確実に仕事部屋になるだろう。
「赤井さーん、私掃除しておくから買い出しお願いしてもいい?」
「構わんが、一緒に来ないのか?」
「んー、手分けした方が早く済むでしょう?」
「…それもそうか。なら、頼む」
「はい、頼まれました!」
沖矢さんの仮面を外した赤井さんは、念の為にとキャップを被って出かけていった。
よっし!買い出しにはしばらく時間がかかるだろうし、その間に掃除を終わらせてしまおう。掃除道具がある場所は教えてもらっていたので、そこからクイックルワイパー的なものを引っ張り出して、リビングから掃除を開始。
それからキッチンとダイニング、最後はベッドルーム…という所まできて、何となく部屋の中を見渡してしまった。
男性の住む部屋がどんなものなのかはわからないけれど、赤井さんの家は圧倒的に物が少ない。シンプル・イズ・ザ・ベストってこういうのを言うんだろうなぁ、と思うくらいに、最小限の物しか置かれていない印象。ベッドにデスク、パソコン、大きめのソファ、ダイニングテーブル、それから食器や調理器具。
食器が少ないせいか食器棚は見当たらない。その代わり、リビングには大きな本棚が置いてあった。ぎっしり詰められた本は、色んなジャンルだった気がする。推理小説とかエッセイとか。
(デスクの上に写真立て…?)
家主がいないのに勝手に、と思わないでもないけど、掃除をする許可はもらってるし…それにデスクの上にあったら目に入っちゃうよね、と自分を正当化してその写真立てを手に取った。
写っていたのは今より少し若く見える赤井さんと―――私。
これ…もしかして通っていた大学の中庭?見覚えがある。赤井さんは私に引っ張られるような形になっているけど、でも口元が緩んでいて笑っているように見えた。私も…とても楽しそうに笑っていて、幸せそうだと他人事のように思う。
「こうして証拠もあるのに…」
私の記憶だけが、抜け落ちている。実感できずにいる。こんなにも…赤井さんと過ごした軌跡が残されているのに。どうしてわからないの?思い出せないの?私だってこんな風に、
―――ガチャッ…バタン。
ドアが開く音、そして閉まる音でハッと我に返った。どうやら買い出しに行っていた赤井さんが帰ってきたらしい…リビングの方から私を呼ぶ声がする。
いつの間にか溢れていた涙を乱暴に拭い、ベッドルームから顔を出した。おかえりなさい、と言った顔は…ちゃんと笑えていただろうか?
「…何て顔をしている」
「あ……」
「そんな顔をするな。ほら、こっちにおいで」
「うぐ、…そういう言い方ズルイと思う」
「お前はいつでもそう言うんだな」
ぎゅっと抱きしめられて、ようやく息を吐き出した。ああ、やっぱり…赤井さんの傍は落ち着く。
「ん…?」
あれ?私、いつの間に眠っていたんだろう。寝かされていたのはベッド、着ていたはずのジャケットは脱がされてきちんとハンガーにかけられていた。赤井さんが運んでくれたのかな…私と彼しかこの家にはいないんだから当たり前か、まだ寝惚けてるのかなぁ私。
ふあ、と欠伸をしながらリビングへ足を向けたけれど、そこには誰もいなかった。電気も消えてるし、彼は何処かに出かけているのだろうか?暗くて時計は見えないけれど、この家に来た時間を考えるともう夜中になっていてもおかしくはないはず。
一体、どこに―――
「あ、れ…?」
ソファの横を通り過ぎようとした時、そこに誰かが寝転んでいるような気がした。目を凝らしてよーく見てみると、赤井さんがタオルケットをかけてすやすやと眠っているではないか…!
うわ、電気つけて寝顔見たいけどそしたら起きちゃうよね絶対。写真、撮りたい…だって赤井さんってあんまり他人の前で気を抜かなそうなイメージなんだもん。こんな風に無防備に寝ちゃうこともあるんだぁ。警戒とか、してないのかな…。
(私の前でだけだったら、いいのに)
寝顔を見せてくれるのも、気を抜いてくれるのも、あんな笑顔を見せてくれるのも全部。私だけのものに、できたらいいのに。
起こしてしまわぬようにそっと近寄って、これまたそっと髪に触れる。わ、存外ふわふわ猫っ毛…もう少し硬めの髪質かと思ってたのに違うんだな。触り心地いいなぁ。
髪を堪能していると、薄く開かれた唇が目に入ってゴクリ、と喉が鳴って自分のことながらドン引きそうになった。だ、だって反応が完全に思春期の男子じゃないかこれじゃあ…!それなのに勝手に鼓動は速くなるし、触れたいって…思ってしまう。
「赤井、さん」
好き、好きなんです。貴方のことが誰よりも。…ねぇ、貴方は記憶のないままの私でも…同じように愛してくれますか?
届けたい。でも届けることのできない想いをのせて、そっと唇を重ねた。悪いことをしているみたいだ…いや、実際には悪いことなのだろう。寝込みを襲っているし、赤井さんの気持ちなんて知ったこっちゃねーぞって感じだし。これ。
(…寝よう。このままここにいたら、何かマズイ気がする)
そうだ。さっさと眠ってしまえばいい、それで全部なかったことにしてしまえばいいんだ。気持ちが、想いが全部零れてしまう前に。溢れ出てきてしまう前に。
そう思って立ち上がった時、ぐるっと視界が反転した。何が起こったのかわからない、けれどタオルケットが床に落ちる音が聞こえたような気がする。反射的に瞑ってしまった目をそっと開けば―――視界いっぱいに赤井さんの姿と、天井が映っていた。
いつだって余裕綽々だって顔をしていたはずの彼は、どこか焦ったような顔をしていて首を傾げたくなる。どうしてそんな顔をしているの…?
「お前はっ…どうしてそうやって人を煽るんだ…!」
「え…?」
「なんなんだ、俺をどうしたいんだよ…?」
それは初めて聞く、赤井さんの切羽詰った声だった。