背中を押してくれたのは、


調子が出ない。いや、体調は悪くないし、体はすこぶる元気です。調子が出ないというのは、多分、精神的な物だと思うんです。理由も…わかってはいる。
ブルックスくんの言葉が、意外にも私は堪えているようなんですよね。ここまでダメージ受けるなんて、思いもしなかったなぁ。それも年下の言葉でよ?…年下って言っても、そこまで変わらないのだけれど。

タンッとエンターキーを叩いて溜息を1つ。いくら精神的に落ち込んでいたとしても、変わらず仕事は舞い込んでくる。決して待ってはくれないので、調子が悪かろうが何だろうが手を付けないわけにはいきません。
それは重々承知しているのだけれど、…気分が乗らないと仕事の進みが悪いって本当なのねぇ。そんなわけないでしょ、って思っていたけれど、正にその通りだわ。社会人としてそれはダメでしょうとわかってはいるんですけど。


「…ダメだ。今日はここまでにして帰ろう」


パソコンの電源を落として立ち上がる。幸い、急ぎの仕事は済ませてあるし、〆切が近いものも提出済み。だから無理に残業をする必要もない―――とくれば、さっさと帰ってお風呂に入って、ゆっくり眠るに限ります。
カバンの中に入れっぱなしだった携帯を出せば、1通のメールが届いていた。差出人は虎徹、内容は夕飯はデリで買ってきたから終わったらソッコーで帰って来い!…ですって。何だかいい具合に気が抜けて、吹き出してしまった。だってあまりにも彼らしい文面だったから、つい。

(…ああやっぱり、私は虎徹が好きなんだなぁ)

パチン、と携帯を閉じて足早に会社を出る。あんなメールを見てしまったらゆっくり帰るのももったいなくて、珍しくタクシーを呼び止めて家路を急いだ。別に彼に他意はないと思う、特別な理由もないと思う…それでもやっぱり嬉しいんだ。大切にされているんだ、って錯覚してしまいそうにもなるけど。


「おかえりー、千紘」
「うん、ただいま。はー、お腹空いちゃったぁ」
「冷蔵庫にあるから今、温めてきてやる。先に風呂入ってくれば?」
「んー…じゃあお言葉に甘えちゃう」


ご飯の準備は全て虎徹に任せ、私は着替えをもってバスルームへ。
私も虎徹もオリエンタルタウン出身だからか、シュテルンビルトに越してきてからもシャワーだけで済ませることはあんまりない。湯船にたっぷりのお湯を張って、のーんびり浸かるのが好きなのよねぇ。だから虎徹と姉さんが探し出したこの家も、バッチリ湯船付きってわけなのです。

のんびり浸かってリビングへ顔を出せば、テーブルの上には美味しそうなデリのお惣菜が並んでいた。でも1人分にしては量が多くないかしら?虎徹に問いかけてみれば、何と彼もまだ食べてないんですって。
どうやら私が帰ってくるまで待っててくれたみたいなの。もちろん、もう少し遅くなるようだったら先に食べてたらしいんだけどね。…というか、先に食べててくれてて構わなかったんだけどなぁ。お腹空いてるだろうに、悪いことしちゃった。


「ごめんね?待たせちゃって」
「んあ?別に千紘が謝ることねーって、俺が勝手に待ってただけなんだしよ。さっ食おうぜ!」


翌日が休みだからかお酒も進んで、私も虎徹もいい感じに酔いが回ってきている。虎徹に至っては顔が真っ赤になっているし、ふにゃんと表情が崩れてきている…これ以上は飲ませない方が良さそうだなぁ、絶対に。
でも下手にお酒を取り上げようとすると、怒るんだよねぇこの人。典型的な酔っ払いの絡み方をしてくるから、結構面倒なんだ。


「んー…千紘はさぁ、彼氏つくんねーのーぉ?」
「ネイサンみたいなこと言うのね、今は仕事の方が大事なのよ」
「けど、お前みてーな美人が独り身なんてもったいねぇじゃんかぁ」


…虎徹ってば、人の気持ちも知らないでそんな残酷なことを言ってしまうのね。―――なんて、私が気持ちを告げようとしていないんだから、私の気持ちを知らなくて当然のことではあるのだけれど。

『それでも伝えなければ貴方は、ずっと過去に囚われたままだ』

不意にブルックスくんに言われた言葉が、脳内で再生された。まるで自分のことのように感じている表情で、とても真摯な瞳でそう言ったんだ。
あの時はそれができたらとっくの昔に言っていた、と冷たく返してしまったけれど…私はきっと、怯えていただけなんだ。この微妙で、且つ絶妙な関係が心地良くて、それを壊したくなくってずっと甘えていただけなんだ。前に進む勇気がなかった、だけなのよね。虎徹に気持ちを告げられないことを姉さんのせいにして、逃げてきただけなの。


「―――虎徹」
「なんだぁ?千紘ー…」
「酔っ払ってる貴方にこんなこと言うなんてズルいと思うけど、」


床に寝っ転がっている虎徹の唇に、触れるだけのキスをした。


「私はずっと昔から貴方が好きなの。…貴方だけを見ていたのよ」
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